ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

西吉野第二発電所へ…黒渕ダム

2022-08-18 07:01:42 | 奈良(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は奈良県五條市西吉野町黒渕(にしよしのちょう くろぶち)にある紀の川水系の黒渕ダムを訪れます。アクセスは昨日記事にした西吉野頭首工から国道168号を南へ向かい、西吉野トンネルの手前を左に入り、しばらくして左へ降りていくと到着します。

見えてきました。あれですね。



到着しました。左岸から見た「ご尊顔」はなかなか厳しい面構えです。



左岸のダム横から見た様子。



対岸には管理所のような建物がありますが、一般の見学者は行くことができません。



こんな理由からです。というか、電源開発のダムもなかなかガードが厳しいんですよね。



水利使用標識。ここは水力発電のためのダムで、調べてみるとここで取水された水は西吉野頭首工のちょい上流にある西吉野第二発電所(奈良県五條市霊安寺町)へ送水されて発電するようです。



左岸、上流側から見た様子。こちらもゴツくて格好よろしい。



右岸、上流側に見えるこの部分が取水口。



大和丹生川の上流方向の景色です。



ダム上に行けなかったのは残念ですが、久々にゴツいダムを見ることができて感動。西吉野第二発電所のリンクを見るとその運用開始が1955年9月23日とあるので黒渕ダムが築造されたのもその頃と思われます。
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紀の川用水の取水口…西吉野頭首工

2022-08-17 06:59:42 | 奈良(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は奈良県五條市丹原町(たんばらちょう)にある紀の川水系の西吉野頭首工を訪れます。アクセスは五條市から十津川村へ向かう国道168号沿いに「シンワ」の看板が右側にあるので、その先のT字路を左折すると到着します。

西吉野頭首工は国営紀の川用水農業水利事業の一環として築造されたもので、ここで取水された水は紀の川の北側を紀の川と並行して流れる紀の川用水へ供給されます。しかしながら紀の川用水の水源は西吉野頭首工が堰き止めている大和丹生川(やまとにゅうかわ)ではありません。確かに大和丹生川から取水しているのですが、主水源は以前訪れた猿谷ダムで貯水された水なのです。猿谷ダムの上流にある西吉野第一発電所取水口(五條市大塔町阪本)から新天辻隧道を通った水は大和丹生川沿いにある西吉野第一発電所(五條市西吉野町黒渕)へ流れ込み、その水が大和丹生川へ放流されます。その水を西吉野頭首工が取水し紀の川用水へ送るというルートなのです。(参考

紀の川用水にとって重要な役割を果たしている西吉野頭首工の姿がこちら。



左岸のこの場所から取水され、紀の川用水へ送られます。



これが先ほど説明した「国営紀の川用水農業水利事業」に関する案内板です。同事業そのものは1964年に着工し、20年の歳月を経て完成したと書かれていますが、この西吉野頭首工が完成したのは1974年3月のようです(参考)。



近くには水利使用標識。



実は先ほど説明したアクセス方法で国道168号から入ってくると最初に目にするのが「西吉野頭首工操作室」の建物なんです。





あれれ、頭首工はどこ? と思いますが、大和丹生川は低いところを流れているので西吉野頭首工本体も低い位置にあり、すぐに発見できません。位置的にみると頭首工はこの操作室の奥になるからです。
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奈良盆地へ供給…東西分水工

2022-08-16 06:59:31 | 奈良(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は奈良県御所市樋野(ごせし ひの)にある東西分水工を目指します。これはダムでも堰堤でもありませんが、この地域での重要な水関連施設なので訪れた次第(詳細については後述)。アクセスは和歌山線と吉野線が乗り入れている「吉野口駅」の北東に位置し、御所市葛小中学校の脇の細い道を登っていくと到着します。

どうやら、これのようです。



近くには「国営十津川紀の川土地改良事業の概要」を示す案内板があります。



この場所、すなわち東西分水工の概要を転記すると次の通り。

「国営十津川・紀の川土地改良事業及び国営大和平野土地改良事業は昭和25年6月奈良・和歌山両県との間で合意された吉野川分水協定に基づいて昭和27年から農林水産省が工事を進め大和平野地区については昭和48年に工事完了し、既に奈良盆地の農業用水の補給と水道用水のために役立ててきました。
 目の前にある施設は、この事業によって紀の川水系に新設した津風呂(つぶろ)ダム・大迫(おおさこ)ダム・下渕(しもぶち)頭首工を○用することによって吉野の美しい水を新設したトンネルにより導水し、これから先奈良盆地の東西幹線水路に通水するための分水口(工?)であります。向かって左へカーブしているのが西幹線水路、真直ぐ行くのが東幹線水路であり、分水工手前、左側に流れる水は奈良御所浄水場へいくものであります。 昭和54年2月」(○は解読不能)

要するに吉野川に設置された下渕頭首工から分水してきた水は大和平野の農業用水として供給されるのですが、より広い地域に供給するため水路は東幹線水路と西幹線水路に分かれます。その分岐点となるのがここ東西分水工というわけですね。

案内板の前には管理所らしき建物があります。でもそれを示すプレートなどはありません。



では水路に向かいます。階段を下りていくと下渕頭首工から導水されてきた水路を見ることができます。



その水はここで東西の幹線水路に分かれます。



この場所は大迫(おおさこ)ダムからは49.6km、津風呂(つぶろ)ダムからは17.7km、下渕頭首工からは5.2kmの距離にあるそうです。大迫ダムの下流には大滝ダムがあるのに載っていないのはこのプレートを作成した時点ではまだ完成していなかったからでしょうね。



そこから西幹線水路に沿って行くと「吉野川分水」の説明図があります。この説明図が作られたのは2018年4月なので、さすがにここには大滝ダム(2013年竣工)も載っています。



吉野川の下渕頭首工から東西分水工の開通により奈良盆地(大和平野)の農業用水は安定供給されるようになったというわけですね。きっと「吉野川様、ありがとう!」といった感じなんでしょうな。
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大和平野への入口!…下渕頭首工

2022-08-15 06:58:58 | 奈良(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は奈良県吉野郡大淀町下渕(おおよどちょう しもぶち)にある紀の川水系の下渕頭首工を訪れます。目的地は近鉄吉野線の「下市口(しもいちぐち)駅」の西側に位置するのですが、アクセスするには吉野川と並行して走る国道370号を下流方向へ行き、下渕頭首工の下流にある水道橋を渡り下市(しもいち)取水場の先を吉野川へ向かって行くと到着します。

【下渕頭首工設置の経緯】
ところで、なぜ下渕頭首工が設置されたのでしょうか。もともと水量の多い吉野川ですが、その北側に位置する奈良県の大和平野では水が不足していました。そこで昭和25年(1950年)6月に奈良県と和歌山県の間で合意された吉野川分水協定に基づきこの場所に頭首工を設置することで大和平野での水不足解消に寄与することになります。しかし頭首工がすぐに設置されたわけではありません。当時吉野川上流域では津風呂(つぶろ)ダム(1961年完成)や大迫(おおさこ)ダム(1974年完成)の建設が先行して進められており、吉野川から奈良県への総延長336kmに及ぶ分水路の全ての工事が完成したのは昭和62年(1987年)になってからでした(参考)。ちなみに下渕頭首工が完成したのは1974年3月だそうです(参考)。

そんなこんなで下渕頭首工に到着。左岸側から見た「勇姿」がこちら。左岸側には魚道が見えますね。



現在設置されているゲートはステンレス製のもので、おそらく2010年以降に交換したもののようです(参考)。



もちろん左岸に来て、いきなり上のような「勇姿」を拝むことはできません。まずはこんな感じで頭首工を見ることになります。



頭首工近くに来ました。そこから見る吉野川上流方向の景色。



左岸、頭首工の上流側にある取水口。



一方、右岸側にも取水口があります。地図を見ると、どうやらこの取水口から分水した水が奈良県の大和平野へ送られていくようです。



左岸の魚道に流れ込む水。柔らかい感じに見えます。



その水が下流へ行く様子。写真左側にちょっと見えるのが水道橋。



その水道橋から下渕頭首工はこんな風に見えます。ちょっとアップで撮ってますが。ここから見ると右岸側にも魚道があることがわかりますね。



次回は下渕頭首工から分水した水の行方を追います。
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絶景ポイントあり!…上津ダム

2022-05-16 06:51:16 | 奈良(ダム/堰堤)
いや〜、御柱祭(おんばしらさい)は冗談抜きで疲れます。一昨日はその初日だったんですが、関係者の集合時間は、なんと早朝5時!通常のワシの生活パターンだとその時刻はそろそろ寝る時間に突入する頃。といって、徹夜のまま行くわけにはいかないのでこの時だけは早めに就寝。でも、急に眠れるわけがない。結局、なんとか1時間ほど寝てから出かけました。

でも、思っていた以上にキツかった。まず早い時間に集合したからといって、事がどんどん進むことはないんです。その日は解散が夜の7時だったんですが、おそらくその半分以上の時間が待機。ひたすら待つんです。行動派のワシとしては待つのが1番の苦手。でも待たなければならない。これは拷問みたいなもの。

そして、慣れない地下足袋で歩き回ったこと。地下足袋なんて初めて履いたので、もう足が疲労困憊。ふくらはぎはパンパンになるし、待機時間にマッサージしたところで疲れなんて飛びゃしない。これはもう地獄。御柱祭は今日で最終日を迎えますが、たぶん、今後その役員を引き受けることはないと思います。

そんなこんなで、どーも、ワシです。えー、今回は奈良県山辺郡山添村西波多(やまべぐんやまぞえむらにしはた)にある淀川水系の上津(かみづ)ダムを訪れます。アクセスは名阪国道の山添インターを出て県道80号を奈良方面へ行き、カラオケ居酒屋「乾杯」のところを斜め左に入って行くと「←上津ダム」の看板があるのでそれに従って進んで行くと到着します。

まずは上津ダムの全貌をご覧ください。これは右岸のトイレの近くから高台に上る階段があり、頑張って上るとこんな「ご褒美」が待っています。



さて、順を追って説明していきます。まず先ほどの道を登ってくるとダムの右岸に来るのですが、まず目にするのが「上津ダム管理所」の建物。





近くには「上津ダム」と刻まれた石碑。その裏にはダム建設の簡単な経緯が記されています。それによると当該ダムの西側にある神野山(標高618m)はその昔から「神の山」と呼ばれていましたが、この地域は旱魃になることが多く、その度に大勢の人々が夜中に松明を持って神野山に登り、雨乞いをしていたそうな。上津ダムが完成してからは雨乞いをすることもなくなったようですね。





ダム横近くには上津ダムの周辺案内図があります。これをみるとわかりますが、「上津」は「かみづ」と読み、ダム便覧では「かみつ」となっていて間違いであることがわかりますね。ちなみに上津はダムの下流の地名です。



右岸、下流側からダムを見ると、こんな感じ。



では、ダム上を歩いてみることにします。



ダム本体の、いわゆる親柱のところにはこんな図柄が。何の花でしょうね。山添村の村の花がヤマツツジなので、それかもしれません。



ダム上、中央から見た貯水側の景色です。



一方、ダムの真下は、こんな感じ。



そして、下流側の遠景。



対岸(左岸)に来ました。振り返ると、こんな感じ。



左岸、下流側から見たダムの様子。



左岸、貯水側から見たダムの様子。



左岸側には、ちょっとした広い場所があり、



そこには「上津大片刈遺跡」の案内図があります。1994年から95年にかけて行なわれた発掘調査により、山添村には数々の縄文時代の遺跡が発見されたそうな。上津大片刈遺跡はそのひとつで、同村には他にこの近くに上津堂前尻遺跡、そして同村中峰山(ちゅうむざん)には大川遺跡、さらに前回記事にした布目ダムの近くには「桐山和田遺跡」と「北野ウチカタビロ遺跡」があるようです。







最後に、ダムの下へ行って「ご尊顔」を撮ってみました。



前回の布目ダムといい、今回の上津ダムといい、どちらも近くに遺跡があるという意味では似ています。ただ、布目ダムではちょっと怖い感じがしたのに対し、上津ダムにはそういう感じはなく、むしろ古代のロマンを感じたんですよね。展望台からの景色がとにかくサイコーだったし…。
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ちょい気になるねぇ…布目ダム

2022-05-13 17:24:06 | 奈良(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は奈良県奈良市北野山町(きたのやまちょう)にある淀川水系の布目ダムを訪れます。アクセスは県道25号沿いに進めば到着します。

まずは右岸から見た「ご尊顔」をご覧ください。



順を追って見ていきます。県道25号を上流側から来ると、こんな景色が見えてきます。



左岸のダム横に来ました。そこには「布目ダム」とデカデカと表示された管理所があります。





管理所入口前には池があって、そこには「金魚仕事中」という看板が。貯水湖の水をここに入れ、金魚の様子を見て水質異常があるかどうかを判断しているのだそうです。



…なんですが、金魚が見当たりません。



たまたま近くにいた職員に「あのー、金魚が見当たらないんですけど」と聞くと、「ああ、そこにはいませんが、こちらのほうにいると思いますよ」と言うので、隣の池を見るも鯉みたいな魚はいますが、やはり金魚はいません。



「やっぱり、いませんけど?」
「あれー、(デカイやつに)食べられちゃったかな?ハハハ」
「おいおい…」

そんなお茶目な会話をした後、ダム横に向かいます。近くには布目ダムの案内板があります。洪水調節、流水の正常な機能維持、水道用水の供給を目的としたダムで、1970年からダム建設のための予備調査を開始し、1986年にダム本体工事に着手。そして1991年10月に竣工したとあります。







ダム横の広場には「建設の碑」と題されたモニュメント。その説明によると、「石が積み重なり人の形となって、ダム完成の喜びと、多くの人々の支えと幸福を表現している」とあるんですが…。





表情が怖い…。夜中に見たらびっくりしそうです。



こちらは子供向けの案内板かな?



さあて、いよいよダム上を歩きます。



ダム上、中央から見た貯水側の景色。



同、ダムの真下は、こんな感じ。



そして、下流側の遠景です。



対岸(右岸)に来ました。振り返ると、こんな感じです。ダム上が波打っているのが気になりますが…。



実は右岸側には広い公園があり、奥には何か見えます。行ってみましょう。



建物の屋上にはモダンなアートが。



屋上に登れるので行ってみると、「アート」の説明書きがありました。「水と光輪」と題するもので、2つの交差する銀輪は湖面のきらめく水の波紋と人々の交流の輪を、そして塔は天からの水の恵みをしっかり集めて貯えるダムの機能と未来への広がりをそれぞれ表現したものとあります。ほほぉ。



そこから見た景色は、こんな感じ。パノラマで撮ってみました。



…と、まあ、ここまで見ればなかなかセンスのあるダムだと思いますが、上流側に行ってみたらまた違う光景が。

なんか地蔵さんたちがひしめきあっています。その中央には供養塔の文字。





旧腰越若宮神社禊場の碑。同禊場はかつて若宮神社での祭礼や祈願を行なっていたが、布目ダム建設にあたり水没することになったためその記憶を留めるために建立したもののようです。上に見える梵字がちょいと怖い。



何かよくわかりませんが、やはり移転を記した石碑。



これも移転の看板。



上流側には布目ダムの周辺地図があり、上流側に副ダムがあると記されています。





その副ダムを横から見ると、こんな感じ。その役割は上流からの土砂がダム湖へ流れ込まないようにするためのようです。



副ダムをさらに上流側から見ると、こんな感じ。水没したダムかと思いました。



ぐるっと回って、ふと思ったことがあります。それは布目ダム建設にあたり多くの集落と神社などが水没したことです。それはまあ仕方のないことかもしれません。だから移転についてのたくさんの石碑があるのもわかります。でも、他のダムのケースをみているとそうした記念碑などはダムを建設する側が一括して責任を持って建立したりすることが多いのですが、ここではそうではなく地元の山添村が建てていますね。これをどうみるか。

なんとなく、なんとなくですよ、思ったのはダムを建設する側と水没した側との和解が完全にできていないんじゃないか…ということ。それは記念碑の石碑に必ず「水没したため」という文言が記されていることからなんとなく遺恨が感じられるからです。もっとも、それは単なる思い過ごしなのかもしれませんけどね。
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2つの古代地名の間に…岩井川ダム

2022-05-12 14:08:22 | 奈良(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は奈良県奈良市白毫寺町(びゃくごうじちょう)にある大和川水系の岩井川ダムを訪れます。アクセスは岩井川沿いに走る県道80号を走って行くと到着します。

【白毫寺町について】(参考
さて、当該ダムの右岸側の地名は白毫寺町と言うのですが、気になったので調べてみました。白毫寺は当該ダムの下流にある真言律宗の寺院で、715年に天智天皇の第7皇子である志貴皇子(しきのみこ:不詳-716)の山荘として建てられたもののようです。そして後に三論宗の僧、勤操(ごんそう:754-827)が開山したと言われます。開山の時期は明確ではありませんが、白毫寺が高円山の麓の石渕寺(いわぶちでら)の子院であること、そしてその石渕寺は796年に勤操が開山したことから考えると白毫寺の開山もその頃と考えられます。

その後室町時代の1497年に兵火により焼失。翌年修理されます。ところが『続南行雑録』によれば1520年に再び兵火に遭遇し焼失したそうな。そして江戸時代の寛永年間(1624-1645)に興福寺の学僧、空慶により復興されますが、『東大寺年中行事捷覧』によれば1757年に失火により焼失し、当時の建物は残っていないそうです。とにかく、ここに白毫寺があったことからここの地名が白毫寺町になったようです。ちなみに「白毫」とは仏の眉間にある白い巻毛のこと。

岩井川の右岸から見た「ご尊顔」がこちら。治水ダムのようですね。



もう少しダム横近くから見ると、アーチ式のようにも見えます。



しかし、実際にはそうではなさそう。



これがダム上です。進んでみましょう。



ダム上、中央から見た貯水側の景色です。向こうに見える建物(写真左)が管理センター。



ダムの真下は、こんな感じ。



そして、下流側の遠景。



対岸(左岸)に来ました。振り返ると、こんな感じです。



左岸の貯水側から見たダムの様子。



非常用の洪水吐。



左岸、下流側から見たダム。



【鹿野園町について】
ところで、岩井川ダムの左岸の地名は鹿野園町(ろくやおんちょう)と言います。これも調べてみると起源は奈良時代に遡ります。736年にインドから来日した菩提僊那(ぼだいせんな:704-760)がこの地を鹿野園と命名したのだそうな。鹿野園とは釈迦が悟りを開いたとされる聖地「サルナート」(鹿が多く集まるところ=鹿野園)に由来しています。

右岸に戻り、県道を上流方向へ行ったところに岩井川ダム管理センターがあります。





そこからダムを見ると、こんな感じ。



古代からある2つの地名の間に築造された岩井川ダム。ダム建設のための予備調査が開始されたのは1967年で、実際の建設が始まったのが1985年。そして完成したのは何と2008年。築造は困難を極めたんでしょうか…。
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安全第一!…須川ダム

2022-05-11 06:55:47 | 奈良(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は奈良県奈良市須川町(すがわちょう)にある淀川水系の須川ダムを訪れます。アクセスは国道369号から県道184号(須川西狭川線)に入り、「両」というバス停のところを入っていくと到着します!

…と、まあ意気込んで向かったはいいんですが、ダムへ行く道には立入禁止の表示。





なるほど、水道局が管理する水道用水のためのダムなんですね。だから安全を期して立入禁止なのでしょう。



思い返せば千葉県のその種のダムがほぼ全て立入禁止だったもんね〜。残念ですが、仕方ありません。
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見えるのか?…とっくりダム

2022-05-10 06:52:22 | 奈良(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は奈良県生駒郡三郷町信貴山西(いこまぐんさんごうちょうしぎさんにし)にある大和川水系のとっくりダムを探します。「探します」と書いたのは昨日記事にした「大門ダム」の近くに当該のダムはあるようなんです。確かにグーグル先生の地図にも堂々と?載っていますが、ダム便覧には載っていません。そして、ネットで検索してみるとどの記事にも「見ることはできない」とあります。本当にそうなんだろうか…。やはりこの目で確認しないと納得できないので行ってみることにしました。

地図で見ると県道236号(県道183号)が走るこの橋の下に「とっくりダム」はあるはず。



橋の親柱には「実盛川」「とっくりダム」と明記されています。





まずはその橋を渡ってみることに。橋の中央から見た貯水湖はこんな感じ。どうやら貯水湖名は「とっくり湖」らしい。そしてとっくりダムは高さ30m、長さ98mの直線重力式コンクリートダムであることが判明。(参考



橋の中央からダムの真下を見ると、こんな感じ。



さらに下流側の遠景。



対岸(右岸)に来ました。振り返ると、こんな感じ。



橋の右岸側の親柱にも「とっくりダム」の文字。



で、肝心のダムは見えたのか? う〜ん、左岸からは何となく見えたんですが、周囲には木があってよくわかりませんね。



左岸脇の道をもう少し下ってみたのですが、見えたのはダムの一部のみ。



まあ、そんなわけでやっぱりとっくりダムの全貌は掴むことができませんでした。嗚呼。

さらに調べていくと「とっくりダム」が完成したのは1973年で、三郷町民の飲料水供給を目的とする治水砂防給水の多目的ダムであることがわかりました(参考)。

じゃあ、「とっくり」の由来は? どうやら湖の形が徳利に似ていることから命名されたそうなんですが(参考)、地図を見る限り「えー、徳利に似てるか?」と思うんですけど…。
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シンプル過ぎて…大門ダム

2022-05-09 06:58:47 | 奈良(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は奈良県生駒郡三郷町立野(いこまぐんさんごうちょうたつの)にある大和川水系の大門ダムを訪れます。ダム名はおそらく大門川を堰き止めて築造されたことから命名されたと思われます。

まずは右岸、下流側から見た「ご尊顔」をご覧ください。



ダムへのアクセスは県道236号(信貴山線)から「大門ダムへようこそ」の看板のあるところから入っていきます。ただし、一般の車両の進入はできないようなので歩いて行くしかありません。



その道を下って行くと最初に見えてくるのがこの建物。管理棟のようですが、それを示すものはありません。



近くには大門ダムの位置を示す地図はありますけど。



ダム横に来ました。左岸、貯水側からダムを見ると、こんな感じ。



下流側からの景色です。



これがダム上。進んでみます。



ダム上、中央から見た貯水側の景色。



ダムの真下は、こんな感じ。



そして、下流側の遠景です。



対岸(右岸)に来ました。振り返ると、こんな感じ。



正面からの「ご尊顔」を撮りたかったのですが、木が邪魔してなかなか良いスポットがありません。



上流側には上の写真でもちょろちょろ見えているこの橋(信貴大橋)から大門ダムを見ることができます。写真を撮り損ねましたが、ここの貯水湖の名称は「大門池」というらしい。



その信貴大橋から見た景色がこちら。



ご覧の通り、このダムは良く言えばシンプルですがダムを説明する案内板は見当たりません。仕方ないので調べてみると築造のきっかけとなったのは昭和57年(1982年)に発生した大水害で、大和盆地の総合治水対策のひとつとして建設されたようです。ダムの完成式が2013年6月5日なので大門ダムの完成はこの頃と思われます。(参考

同名のダムは山梨県にもありますが規模は山梨県のほうがはるかに大きいです(参考)。だからなんだ?と言われても困るんですけどね〜。
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白川溜池からの〜…白川ダム

2022-05-07 06:59:25 | 奈良(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。えー、今回は奈良県天理市和爾町(わにちょう)にある大和川水系の白川ダムを訪れます。アクセスは名阪国道の天理東インターを下りて岩屋方面(県道51号)に進み、「天理東インター」交差点を直進して行くとダムの入口があるので右折していくと到着します。

ところで、和爾町とは珍しい地名です。気になったので調べてみました。

【和爾・和珥】
もともとは5世紀から6世紀にかけて奈良盆地東北部で勢力を有していた中央豪族である和珥氏(わにうじ)に由来します。『日本書紀』によると、和珥氏の始祖は孝昭天皇の皇子である雨足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと:生没年不詳)だそうな。じゃあ、「わに」とはなんなのか。それはここの土地が赤土(はに)で、一族はここを本拠としたことから和珥氏と名乗り、そのような地名になったと思われます。(参考

そんなこんなで到着。そういえば、同名のダムが山形県にもありました。あそこはなかなか大きなダムでしたね(参照)。



「白川農水パイプライン」とあるように、この白川ダムはもともと農業用に作られた白川溜池を治水ダムとして改築したもののようです。



そのせいか、通常のダムに見られるような明確なダム上はありません。その代わりご覧のような越流式の立派な洪水吐は備わっています。そして増水すると水はここから溢れ出て、



この水路を通ってあちらへ流れてゆきます。



この建物は奈良県が運営する「白川ダム管理センター」。





白川ダムの案内板。これによれば、1933年に築造された白川溜池の高さを4.5m嵩上げして最終的には高さ30mのダムに「改造して」1998年に完成したものだそうです。



ダムの中に屹立する取水塔。そのフォルムは寺社を思わせます。



これはアースダムの、いわばヴァージョンアップ版なので見どころはほとんどありません。上に書いたように山形県の同名のダムのイメージがオーヴァーラップしていたのかわかりませんが、ちょっとガッカリ。
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天理ダムは切り裂けない!

2022-05-06 07:04:24 | 奈良(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は奈良県天理市長滝町(ながたきちょう)にある大和川水系の天理ダムを訪れます。アクセスは国道25号(名阪国道でないほう)をずーっと行くとダム上を通るので迷うことはないと思います。

まずは左岸、下流側から見た「ご尊顔」をご覧ください。



左岸側には水利使用標識があります。天理ダムは布留川(ふるがわ)を堰き止めて築造されたものですが、布留川の由来が気になったので調べてみました。



【布留川の由来】(参考
昔、この川の上流から一振りの剣(つるぎ)が流れて来ました。ところが剣をよく見ると川を流れながら触れるものを次々と切っています。その頃、下流ではひとりの娘が川で洗濯をしていました。娘は何とはなしにふと上流を見ると剣が岩や木を切りながら流れてくるのを目にします。驚いた娘は慌てて逃げたものの剣は彼女が洗っていた布の中へ入り込んでしまいます。娘は恐る恐るその布に近づき、布が切れてしまったのか確認しようとすると剣は布を切ることなくそのまま布の中に留まっていました。

これを見た娘は驚いて「これはただごとではない。きっと神様がなされたのに違いない」と思い、布の中に留まっていた剣を神社へ奉納したそうな。それ以後、ここは剣が布に留まった場所ということから布留と呼ばれ、そこを流れる川を布留川と呼ぶようになったといわれます。布留が現在の奈良県天理市布留町(ふるまち)だとすれば剣を留めた布があったところは天理ダムの下流にある石上(いそのかみ)神宮あたりかもしれませんね。でも、岩を切り裂く剣でも切れなかった布ってなんなんでしょうね。まさかセラミックだったとか?…んなわけないか。

左岸のダム横にはちょっとした公園があり、そこには独特な形をした諸元表があります。これによれば、天理ダムは洪水調節と天理市の上水道用水確保を目的としたダムのようです。ダムの完成は1979年3月。



近くには子供向けに作られたと思われる天理ダムの案内板があります。



その付近からダムを見ると、こんな感じ。



これが左岸から見たダム上。ここは国道25号でもあるので気をつけて歩きます。



ダム上、中央から見た貯水側の景色です。写真左下には何やら水が動いています。それがなんなのかは不明。



同、中央から見たダム下の様子。高さ60.5mはまあまあの恐怖感。下を走るヘアピンカーブの道が国道25号ですが、それがなんだか独特な模様のように見えて面白いです。



そして、下流側の遠景。



対岸(右岸)に来ました。振り返ると、こんな感じ。



右岸にも案内板があります。これも子供向けですが、左岸のものとはちょっと違いますね。



その付近からダムを見ると、こんな感じ。



右岸、ダム横のところには大人向けの諸元表があります。ダム湖名は青垣湖(あおがきこ)。



その案内板の裏側、つまり右岸の青垣湖側にある建物が「天理ダム管理センター」。





最後にダム下のヘアピンカーブのところから正面から見た「ご尊顔」を撮ってみました。



それなりに大きいダムではあるんですが、印象としては自然の中に溶け込んでいるという感じです。地域の人々からすれば生活道路でもある国道25号の下にダムがあるのであまり気に留めないのかもしれません。
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素晴らしき築造物!…倉橋防災ダム(倉橋溜池)

2022-05-05 06:51:11 | 奈良(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は奈良県桜井市倉橋にある大和川(やまとがわ)水系の倉橋防災ダム(倉橋溜池)を訪れます。溜池とは言っても奈良県が作成した農業用ため池のデータベースによれば高さが37mなので立派なダムといえます(もちろんダム便覧には載っていますが)。倉橋溜池は1957年に農業用溜池として完成。その後2000年に防災ダムとして整備され、2005年にはその周囲にふれあい公園が整備されたそうです(参考)。アクセスは国道166号沿いに「倉橋溜池」の看板があるので、そこを曲がり、道なりに進むと到着します。

まずは右岸から見た様子をご覧ください。



右岸のダム横の手前には「石碑群」が並んでいます。



倉橋防災ダム事業竣工之碑。

その裏側。事業の着工は1987年で、完成は1999年とあります。それぞれ「年度」なので完成は2000年になってから完成したのかもしれません。そうなら、上の説明と矛盾しませんね。


その隣には「顕彰碑」。逆光のため写真ではほとんど読めませんが、こんなことが書いてあります。
旱魃の被害克服のために昭和10年(1935年)に堀江和三郎が期成同盟を結成。食糧増産と農業経営の安定化を図る。昭和15年(1940年)5月、平井宗太郎がその偉業を継ぐも支那事変、大東亜戦争に遭遇。あらゆる苦難と戦いつつ昭和22年(1947年)10月、任期満了で職を辞する。その会長職を継いだのは和三郎の子、堀江文雄で、明治32年(1899年)1月3日に万葉の里、粟殿に生まれ、学業を終えた後、24歳にして城島村長に当選。爾来多くの要職を歴任する。特に農業振興においてはその先覚を知られ、社会福祉地域開発の功績少なからず、昭和28年(1953年)1月倉橋溜池土地改良区設立。初代理事長に就任した。昭和31年(1956年)の文化の日には黄綬褒章を受章。続いて理事長在職の功績を称えられ昭和44年(1969年)11月に勲五等瑞宝章を授与される。昭和49年(1974年)8月2日に病没するや従六位に叙せられる。享年76。文雄は内外の多事多難な組合を統括指導され、広く農政に燦然たる不滅の光を残した功績は実に偉大なものがある。ここにおいてこの偉業を偲び記念のため建碑する。 昭和50年(1975年)12月吉日 倉橋溜池土地改良区


その隣にも石碑群。



「慰霊塔」と読めますが、何の慰霊塔なのかは不明。


「古墳慰霊塔」。倉橋防災ダム事業施行に係わる霊魂慰霊のためと書かれています。ちょっと怖い。




その左側には「延命地蔵尊」。いやいや、なになに?


倉橋溜池も、ついに2014年3月14日から太陽光発電所を設置。



石碑群の先に溜池があります。下流側から見た、いわゆるダム上の様子。



そして、これがダム上。関係車両以外進入禁止とあるので歩いて進みます。



ダム上、中央から見た溜池の様子。



同、下流側の景色。



左岸寄りにあるこの建物は「倉橋ダム管理棟」。あらら、倉橋ダムと名乗っちゃってます。じゃあダムで良いね。





近くには防災ダムとしての案内板。あれれ、ここにはダムの高さは36.5mと記されていますね。上に記したものと50cm違うのはなぜ?



管理棟からダムを見ると、こんな感じ。



管理棟よりもさらに左岸側に洪水吐があります。越流式の立派なものですね。増水時になると水はここから溢れ出て、



この水路を通ってあちらへ流れ、粟原川に流れ込みます。



洪水吐に架かる橋を渡り、左岸の下流側からダム上を見ると、こんな感じ。



対岸(左岸)に来ました。振り返ると、こんな景色。



先ほどの洪水吐に近寄ってみました。おっ、二段階になっていて、低水位の時は写真の左側のところから流れ出るようになっていますね。



ダム下に来ました。よく見ると斜面上に「くらはし」の文字。



ダム下から見た洪水吐の水路です。立派な滑り台みたいな感じですね。



下流側の水路もしっかり作られています。



訪れる前、「どーせ防災ダムだから大したことはないだろう」と思っていましたが、いやいや、どーして。歴史も規模も立派な築造物でした。
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はつせじゃないよ…初瀬ダム

2022-05-04 06:56:24 | 奈良(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。えー、今回は奈良県桜井市初瀬(はせ)にある大和川(やまとがわ)水系の初瀬ダムを訪れます。アクセスは県道38号沿いにある「奈良県初瀬ダム管理センター →」の看板のあるT字路を入って行くとダムの右岸に到着します。

まずは左岸から見た「ご尊顔」をご覧ください。フォルムからして治水ダムかな?



順を追って見ていきます。県道から入ってくるとダムの右岸には先ほどの看板に書かれていた「奈良県 初瀬ダム管理センター」があります。





近くには諸元の記された案内板があります。



その付近からダムを見ると、こんな感じ。



これがダム上。車両通行可なのでそのまま進みます。



ダム上、中央から見た貯水湖(まほろば湖)の様子。



一方、ダム下は、こんな感じ。高さは55mなので、さほど恐怖は感じません。



そして、下流側の遠景。



対岸(左岸)に来ました。振り返ると、こんな感じ。



1988年3月竣工のようです。



左岸、まほろば湖側から見たダムの様子。



ダム下から「ご尊顔」を見ることもできます。



上のリンク先を見ると、初瀬ダムは洪水調節、河川用水の維持、上水道用水の補給を目的とする多目的ダムで、1967年に予備調査を開始し、ダム本体工事は1987年に完成、そして1988年にダム管理事務所(管理センター?)設置とあります。左岸のダム本体に嵌め込まれた「昭和63年(1988年)3月竣工」のプレートから判断すると、ダム本体工事が完成したのは1987年というより、正確には「1987年度」なんでしょうね。

ただ、残念なのはこのリンク先にも現地にも初瀬ダム築造の経緯が説明されていないことかなぁ。一体どんな経緯で築造されたのかが気になるところです。
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正式名称は…広芝下池

2022-05-03 06:52:31 | 奈良(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は奈良県宇陀市榛原上井足(はいばらかみいだに)にある淀川水系の広芝池(ひろしばいけ)を訪れます。ここは名称こそ池ですが、ダム便覧には高さ18mのダムとして登録されているので行ってみることにしました。アクセスは県道31号から上井足地蔵堂方向に行き、狭い道を入って行くとあるようです。

現場に到着しました。カーナビの地図を何度も確認しましたが、この場所で間違いないようです。



どうやら右岸側に洪水吐があるらしく、いわゆるダム上へ行くには洪水吐の水路の上に渡してあるこのコンクリート製の板を渡るらしい。ところが、写真を見るとわかるように、その板の先は侵入者を拒むかのように草が生い茂っていて先に進めません。





そんなわけで、これ以上近づくことができないので撤退することに。周囲を見回しても「広芝池」を示す看板すらありませんでした。

う〜ん、まるでキツネにつままれた気分。ポカンですよ、ホントに。

どうにも釈然としないので帰宅してから調べてみると意外な事実が判明しました。念のため奈良県が作成した農業用ため池データベースを見ると、該当する地名(宇陀市榛原上井足)には「広芝下池(ひろしばしもいけ)」なる池がありますが、「広芝池」なる池はありません。従ってダム便覧に掲載されている「広芝池」の名称は正しくは「広芝下池」であることがわかりました。ところがですよ、ダムとして認定されるための肝心の数値が両者では違っていたんです。

確かにダム便覧、同データベースともにダム上の長さは「41m」と同じです。ところが、ダムの高さの数値が異なっているんです。ダム便覧では上に書いたように18mとなっているんですが、奈良県のデータベースでは「14m」になっているじゃぁ、あ〜りませんか!

今まで何度も書いているようにダムと呼ぶことができる条件はその高さが15m以上のものとされています。それを基準としてダム便覧に載るかどうかが決まるわけです。ということはですよ、奈良県のデータベースの数値を信用するなら「広芝下池」(広芝池)はこれに該当しないことになります。なのに、なぜダム便覧に載っているでしょうね。そこに示されている18mという数値は何を典拠にしているのでしょうか。

奈良県のデータベースを信用するもうひとつの理由は「広芝下池」の所有者が不明であること。これはどういうことかというと、行政の調査でもわからないほど古い時期に築造されたものなので所有者もわからないということ。つまり放置状態の池なんです。だから上の写真を見るとわかるように池の周囲のメンテナンスもされていないのです。

いずれにしてもダムの条件を満たしていないのにダムとして掲載するのはちょっと解せませんね。

最後に、「広芝下池」の地図を載せておきます。当該の場所は写真右下のカーソルで示したところです。

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