ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

「らしさ」の判断

2012-03-22 05:01:45 | 脳みその日常
世の中にはいろいろな人がいます。例えば、いい大人なのに精神的には思いっきり子供のような人。このタイプは基本的に他人についてあまり関心がありません。だから会話をしていても自分の話はしますが、相手のことはお構いなし。そして常に話題の中心が自分でないとイヤなようです。

それに対し、精神的にはめちゃくちゃ大人びている子供もいます。知り合いの子供はまだ小学一年生。でも親によれば「まったく手のかからない子」だそうです。親の言うことを素直に聞くし、お風呂に入る時も服は脱ぎっぱなしでなく、きちんとたたむのだとか。とにかくワガママを言って親を困らせたことは生まれてこのかた皆無だそうで…。親は逆に「この子は気味が悪いほど大人びている」と言っています。

行動や性格というのは生まれつきのものもあります。また躾により後天的に決まることもあるでしょう。でも同じように教育しても異なる結果になるのはどうしてなのでしょうね。やはりこれは生まれもったものなのでしょうか。



「~らしさ」にはそもそも定義などありませんし、そのステレオタイプも存在しないでしょう。ただ、私たちは周囲の人たちを見て、何となく「~らしい」と判断します。「~らしい」の共通項があればあるほど「らしさ」のイデアに近づく。逆に「らしさ」の共通項が少なければその人は「らしくない」と思われてしまう。

日常、気軽に使う「~らしい」という言葉。実はものすごく曖昧なものであり、よくよく考えると非常に断定しにくいものではあります。でも、私たちは無意識のうちに「らしい」か「らしくない」を峻別します。改めて分析なんてしません。即断してしまうわけです。つまり私たちの観察力は驚くほど高性能だということ。そう考えると人間の感性って凄いなと改めて感心しますね。
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目覚めよ!日本!

2012-03-12 04:19:23 | 脳みその日常
もう昨日になりますが、東日本大地震一周年の追悼式は印象深いものでした。特に陛下の語り口には亡くなられた方たちへの哀悼の気持ちと遺族への同情が明確に出ていましたね。ご自身が病身でありながら、この式典に出席するため手術と退院を早めてまで出られた。いわば身を削ってのお仕事だったといえるでしょう。

これに対し、総理の「ことば」の伝わらないことったらありませんでした。澱みない語りは良いとしても、心に迫るものがない。なんでしょうね、この軽さは!今更ながらですが、国を動かす公人としての意識の低さを思わざるを得ません。

それは何も総理に限ったことじゃない。たとえば近年の法務大臣の職務怠慢もそうです。死刑の是非はともかくとして、刑の執行をしないってどういうことなんでしょうね。これじゃあ苦渋の選択をして判決を下した最高裁の存在はなんなんだってことになりませんかね。だって法律を司る最高責任者が法律を遵守しないわけでしょ。おかしいですよ、こんなの。言い出せばキリがありません。

ワシは特別愛国心があるわけじゃありません。ただ、日本という国が古来受け継いできた考え方や美意識には優れたものがあると思っています。陛下の表現された「他者への思いやり」はまさにその伝統のひとつであり、それを踏まえたものといえます。

本来はこうした伝統や意識がこの国を作ってきたのではないでしょうか。ところが近年では国益やら自分の利益のことばかり皆追求し始めています。それがすべて悪いとはいいません。でも、果たしてそれで良いのでしょうか。このままでは民度の低い国と同じになっていきますよ。

大震災は多くの人々に苦しみと悲しみをもたらしました。それは紛れもない事実です。同情を禁じ得ません。しかし同時に改めて日本という国を考え直すきっかけを、そして日本人としての生き方を思い出させる機会を神様が我々に与えたんじゃないかという気がします。「お前ら、しっかりしろよ!」とね。
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人探しの方法

2012-03-05 04:55:11 | 脳みその日常
今年もあと10ヶ月を切りました…。
いや~、早いものです。

さて、少し前の話。何十年ぶりかでサザエ(仮名)から突然電話が来ました。聞けば、同窓会をやるから来ないかというお誘い。もちろん丁重にお断りしました。なぜかって? 別に会いたいと思わないからです。

歳を取ると人はなぜ過去を振り返るようになるのでしょうね。子育てが一段落したからとか、はたまた単なるノスタルジー? それとも寂しい気持ちになったから? いろんな考え方はあるでしょう。

でも卒業して一度既に途切れてしまった人たちに会ってどうなるのでしょうか。途切れるということは簡単に言えば縁がなくなることでしょ? それを今更復活させたところでどうなるのか。さして意味があるとは思えないのです。

もっとも数年前、他の同窓会に「試しに」出席してみたことはありました。会ったらどんな気持ちになるのかという意味でね。だけど大した感慨も覚えず、わざわざ時間とカネを使ってまで会うことはないなとガッカリ。

縁があれば互いにどんな環境におかれても友人関係は続くはず。それを無理矢理「ウン十年経ったから会いましょう!」なんて突然言われてもね。会ってどうするんだって話ですよ。学生時代だって大して話したことがないのに今再会したからって仲良くなれると思えますか? まあ、昔と変わらんでしょうな。

そんなことより、驚いたのは今回の人集めの方法。昔なら卒業生名簿から情報を集めたものですが、今や時代はfacebookらしい。同窓生の多くが既にfacebookに登録していて、それをもとに情報交換するのだとか。

もちろんワシはfacebookに興味などないから登録していない。サザエが連絡してきたのは友人を介して連絡先を聞いたからにほからならない。サザエにしてみれば一連の作業が面倒だったそうな。

「●●くん、なんでさぁfacebookしてないわけ?」(ガサツな語りは昔のまま)
「そんなの登録する必要がないからさ」
「えー、なんで? 便利じゃん! 今からでも登録しなよ!」
「しね~よ。ネットに自ら本名を晒すなんて考えられんわ!」
「え~、いいよー、知り合いと交流ができてさぁ」
「あほくさ、自ら晒さんでも誰かがワシの名を勝手に晒しとるわい!」
「へぇ…」
「それに、自ら晒すほど自分の存在を認めてほしいとも思ってないしな」

それにしても、人探しも今やネットの時代になったなと改めて思います。個人情報なんてとっくの昔に他人に知られているのでしょうが、何もわざわざ自ら開陳しなくても…。こんな風に思うのは歳を取った証拠なんでしょうかね。
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