ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

さいなら2007

2007-12-31 23:58:41 | 脳みその日常
さてさて、人助けは明け方の6時までかかりました。無事終了。いやー、エネルギーを使って、もうヘトヘト。

帰宅して、ひと眠り。気づいてみれば夕方。大晦日がほとんど終わりじゃないですか…。うへーっ。

2007年もあと少し。みなさんにとって今年はどのような年でしたか。来年の目標は決めましたか。ワシの目標は、ズバリ、

人のために健康でいること(笑)

いえね、そういう要望が多かったもんですから、そうしました。
では、みなさん、良いお年をお迎え下さい。
そして、明日お会いしましょう。

さいならー。
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お知らせ

2007-12-30 13:47:52 | 脳みその日常
いつもご覧いただいてありがとうございます。

ちょいとこれから緊急の人助けに行くことになりました。帰宅するのはたぶん深夜になると思うので、また明日覗いてくださいまし。

ではでは。
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ギザシアワセス

2007-12-29 23:54:42 | 脳みその日常
あるタレントが「ギザカワユス」「○○だお」などと、おかしな日本語を使っている。それらは「ものすごく可愛い」「○○だよ」という意味だ。そんなヘンな日本語を使う奴にCMで「▲▲するのは大人のマナー!」とか言われてもねぇ。ちっとも説得力がないではないか。「おまえが言うな!」と。その言葉を逆にそっくりそのままお返ししたいくらいだ。「フツーにしゃべるのが大人のマナー」だろと。

それはともかく、あっという間に年末が近づいてきた。年々本当に時間の過ぎるのが早く感じられる。ついこの間正月だったような気がするのに…。あれよあれよという間に年の瀬。どうなってるのだろう。

この時期は例年ならヒマなのだが、なぜか忙しい。おそらく正月返上になると思う。これが原稿の仕事ならば仕方がない。ところが今抱えているのは本作りである。なりゆきで編集の仕事を受けてしまったのだ。図版の選定やイラストの手配はもとより、ページのレイアウトを考えたりキャプションを作ったりと、もうワケがわからない状態。

でも引き受けた以上やらないわけにはいかない。そんなわけなので、このブログは気分転換に正月中も書き続けますよ。まあ、仕事があるだけありがたいけどね。
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オバチャン、憤死寸前(笑)

2007-12-28 23:57:44 | 脳みその日常
昨日の夕方、教室オーナーのオバチャンから電話。「あのさ、突然だけど、これからご飯食べに行かない? 時間は午後7時で、場所は○○。じゃ、よろしくー」(ガチャ) 相変わらずの奇襲攻撃である。こちらは呻吟しながら原稿を書いている最中だったので即座にリアクションできず、断ろうと返事をする前に電話は切れていた。ま、気分転換にはいいかなと出かける。

店に到着すると客で溢れていた。店員に導かれるまま席に着く。隣の席には大学生くらいと思しき男女が2対2で合コンの真っ最中。まあよくある光景である。

すると、オバチャン、小声でワシに「隣のグループ、変な言葉遣いよね?」と囁いた。アルコールが入っているから大声になるのは極めてフツーのこと。特に違和感はない。でも言葉遣いって何だろう。ちょっと耳をそばだててみた。

男「……、うぇっ、チョーキメェー! チョーキメェーよ!」
女「えー、そんなことないじゃん。フツーだよ!」

何に対して言ってるのか、さっぱりわからないが、オバチャンにしてみれば「チョーキメェー」ってのが「何、あれ?」ってことらしい。ワシにしてみれば今の若者の言葉ぐらいにしか思わないので特におかしいとも思わない。でもオバチャンの中にはそんな言葉は存在しないのだろう。「ヘンよ、絶対にヘンよ」うんうん、オバチャン、わかったからもう囁くなって。

メシは旨いのだが、だんだん彼らの話が気になり始める。やがて味なんてどーでもよくなってきた。言うなれば耳がダンボの状態である。もちろんオバチャンの耳はすでにビッグ・ダンボ(笑)(なにやってんだ、ワシら…)

若者たちはそろそろ場所を変えようかという話になる。すると女性のひとりがカラオケに行こうと提案。どうやら安いカラオケ店を知っているらしい。「お、そりゃいいね。行こう、行こう!」と盛り上がる。しかし男のひとりが自分のサイフを覗き込んでから、

男「うぉっ、やっべ、チョーやっべーよ!」(この時点でオバチャン、笑いをかみ殺す)
女「え、どうしたの?」
男「カネ、ねーじゃん…。チョーやっべー!!!」(オバチャン、悶絶)
女「いいじゃん、行こうよ」
男「オレ、自殺しなきゃなんねーかも…」

自殺という言葉を耳にした瞬間、オバチャン、笑いをこらえつつワシに囁く。

「ちょっと、なんでそんなことで自殺しなきゃなんないのよ。おかしいじゃない」
「ま、オーバーに言ってるんですよ。 第一そんなことで自殺なんかしないって」
「それはわかってるけど、カラオケ代がなくて自殺なんておかしいわよね?」
「ええ、まあねえ…」

隣でそんな会話がされているとも知らず、若者たちは店を出て行った。

オバチャン、この店旨いんだからさ、ダンボになるのヤメようよ。アイツらのせいで、どんな味だったのか覚えてないじゃん。せめて静かな席を予約しておいてくれよな。ま、思いつきの人だから無理な注文だろうけど…。とほほ。
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教える側の心得

2007-12-27 06:33:35 | 脳みその日常
個人レッスンをしている生徒がいる。歌はまあそこそこ音程も外さず歌える。しかしリズム感がとにかく悪い。いわゆるリズムに乗れない状態。本人もそれは自覚している。だから習いに来ているのだが…。

生徒といっても年齢は50代。若者じゃないのでアップテンポの曲に付いていけないのはやむを得ない。ならば諦めさせるべきなのか。いーや、そんな必要はない。

音楽は言語みたいなもの。習ったことのない言語は誰だって理解できないし、しゃべることだってできない。これは音楽にも通ずる。耳慣れないリズムを再現できないのはそのリズムに慣れていないだけのこと。だから訓練を積めば年齢に関係なくできるようになるハズ。理論的にはね。

となれば、あとは練習させるのみ。本人が納得できるまで、ひたすら反復、反復。教える側は忍耐あるのみ。いわば根比べである。「なんでできないんだ?」などとは決して言ってはならない。できなくて一番苦しんでいるのは何より本人なのだから。気長に温かい目で見守るしかない。

何でもそうだが、すぐにできてしまう人はできない人の気持ちが理解できないもの。「なぜこんな簡単なことができないの?」と思うのだろう。人それぞれ、もって生まれた能力は違う。できる人がいれば、逆にできない人だっているのだ。

できる人はそれを理解してあげる必要がある。特に「できない人」を教える場合、「できる人」は「できない人」の目線で考えてあげることが大切。そうすれば「なんでこんな簡単なことが…」とは思わなくなる。あとはどうすればできるようになるのかを一緒に考えてあければよい。できるようになるためのヒントなどを与え、繰り返し練習させる。

思うに、こうした教え方ができない人、すなわち自分の尺度でしかモノを考えられない人は教師には向かない。生徒にはいろんなレヴェルの人がいる。なのに、自分の尺度、視点を唯一絶対とし、それに適応できなければダメというのでは生徒が可哀想だ。それに第一、生徒の能力は伸びない。教える側にこそ「柔軟な思考」が求められるのではないだろうか。
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軽井沢の大晦日イヴェント

2007-12-26 16:25:26 | 音楽あれこれ
大晦日に軽井沢で一夜限りのイヴェントがあるそうな。それが「軽井沢十二月祭」。イヴェントそのものは今月8日から開催されているようだが、目玉は何といっても大晦日。3人の歌手たちのリレー形式で歌われるシューベルトの《冬の旅》全曲演奏だろう。

ゴージャスな企画で、招待された側としては行きたいなあと思う。しかし今年は正月返上の忙しさ。残念ながら今回はお断りの返事をした。

サイトをご覧になればわかるが、地方のイヴェントにしてはチケットがベラボーに高い。でも、ここは軽井沢。リッチな方々が集う場所。そういった人たちからすれば、パーティー付きの25,000円なんて屁みたいな額なのだろう。恐ろしや、恐ろしや。
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ホームランでも打つの?

2007-12-25 05:53:22 | ドライブ関連

いやいやいや、店名の意味がわからんのですが…。

お好み焼き屋さんらしいのだが、これを食うと「一発逆転」とな!
うーむ、なんのために「一発逆転」する必要があるんだろうか…。
そもそも、なぜ「一発逆転」なの?

しばし、悩む。

しかし、わからん。

(杉並区の中杉通りにて撮影)
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囚われの身

2007-12-24 04:42:31 | ドライブ関連

撮影したのは西武池袋線椎名町駅の南、山手通りに程近い目白通りに面した場所。
この雪だるまさん、一体どんな悪さをして捕まったんだろうか。
表情から察すると、意外に居心地が良いみたいだけど(笑)
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安っぽいプレゼントよりも…

2007-12-23 18:41:53 | 脳みその日常
今までこのブログで取り上げてきたように、世の中はクリスマス用のイルミネーションで溢れている。みんな、ピカピカ光るモノが好きなんだねえ。多くの人は前々から「日本は仏教国なのにクリスマスなんぞで浮かれるのは間違っとる!」と繰り返し指摘してきた。

まったく正論だと思うけれど、大多数の人はどこ吹く風とばかりに「右から左へ受け流して」いる。もっとも、ワシだってここにイルミネーションを載せて面白がっているんだから、ある意味で同罪。「オマエこそ浮かれている」じゃないかと言われても返す言葉がない。

まあ、あれだ。ピカピカが好きな人は宗教思想なんてどうでもいいのだ。ただ、キレイなデコレーションに魅惑されているだけなんだよ…きっと。自分を含め、日本人の宗教観なんて概ね希薄、いや軽薄なんだもんな。

そういえば、この時期「クリスマス・コンサート」なるものに呼ばれることが多い。お付き合いで行くこともある。本音を言えばとても憂鬱だ。そもそもこの類いの企画で面白いなと思ったためしがないから。

いや、正確に言えば「面白い」と思うことはある。ただ、その面白さは表面的なものにすぎない。ステージ上で音楽家たちがクリスマス・ムードを出すために、無理矢理サンタクロースの赤白帽子を被ってみたり、日本人の間ではロクに根付いていないクリスマス・ソングのメドレーを演奏する。

まあ、それも子供向けの企画だったりすることが多いからやむを得ないことなのかなと思ったりもする。確かにそうした内容で喜んでいる子供がいないわけじゃない。

でも、そこにいる子供たちをよくよく観察してみると、あることに気づく。彼らがじっと耳をそばだてる音楽は必ずしもクリスマス関係の作品とは限らないということ。彼らが興味を示すのは技巧的な演奏や、いわゆる「聴かせる」演奏なのだ。そうした演奏の時、会場内の空気は一変する。

つまり、音楽をよく知らない子供でも良質のモノには即座に反応するという証拠。何も安易な企画でなくたって、立派な演奏を聴かせるほうが、音楽の素晴らしさは子供たちにちゃんと伝わるのだ。大人が変に気をきかせて「クリスマスっぽい」雰囲気を考え、大して上手でもない演奏で聴かせることのほうが折角のプレゼントを台無しにしている気がする。

まあ、これもイルミネーションに対する意識と同じく、大人の軽薄な価値観を子供に押し付けているひとつの表れなのかもしれない。いろいろ考えさせられるよ、ホントに。
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才能と宣伝の関係

2007-12-22 07:35:51 | 脳みその日常
世の中で知られている人というのは、どんなジャンルであれ、それなりの才能をもっているものだ。違う見方をするなら、その才能が他の人々によって評価されていると言っても良い。しかし、有名だからといってその人の才能がきちんと評価されているとは必ずしも言えない。

現代は特にマスメディアが社会に大きな影響を与えている。メディアで宣伝すればクチコミで広めるよりも、遥かに集客力があるのはご存知の通り。その特性を理解しているプロモーターは莫大なカネをかけて宣伝を行なう。そうすることで自社の企画は世に知れ渡り、宣伝費を上回る収益が見込めるからだ。

ところがこの手法は悪用することも可能なのである。悪用というと語弊があるが、カネ儲けのためだけに誇大宣伝されるケースもある。つまり宣伝することによって、その「才能」があたかも凄いもののように思わせてしまうのだ。専門家が見れば、なぜこんな人をそこまでクローズアップされるのかと思う人が実際に宣伝されて有名になっていることもある。一般の人はそのことがわからないから、宣伝によって判断するしかない。それは仕方のないことではある。

しかしメディア側に、もっと才能を見抜く目があればこんなことにはならない。要するに、こと才能を見極めることに関してメディアには大した判断力がないということをメディア自ら暴露しているようなもの。カネ儲けができれば対象(宣伝される才能)は何でも良いということなのだろう。ひどい話だ。

一方、本当に世の中に知られてしかるべき才能が埋もれているケースもある。なぜこんな人が今まで知られていなかったのかと不思議に思うことも。それは上記の逆のパターンといってよい。才能はあるけれど、プロモートする人が周囲にいないとか、金銭的に宣伝するだけの「体力」がないなどの理由が挙げられる。

このタイプの場合、どうしてもクチコミでしかウワサは広がらない。これはこれで周囲の人間がもっとその才能を理解してあげて、その才能が埋没しないようにサポートしてあげないと気の毒である。でも、現実は…。

才能は大してないがカネ(もしくは理解者)はあるパターンと、才能はあるがカネがないパターン。実はどちらも結果的にはうまくいかない。ならば、世に出ている一流の才能たちはどういうことなのか。才能と宣伝の関係からいえば、彼らには理解のあるサポーターが周囲にいるということ。つまり優れた才能と、プロモートする才覚がうまく釣り合うことで現在の彼らの地位があると言い換えても良い。

難しいもんだなあ、バランスをとるって…。
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5,000kmという距離

2007-12-21 05:11:31 | 回想する脳みそ
クルマの冬支度(スタッドレス・タイヤに交換)とオイル交換のために馴染みの整備工場に行った。これでいつ雪が降っても大丈夫。いや、どんな雪道に行っても平気。もっとも、道路が凍結していたら、いくらスタッドレスでも歯が立たないけどね。

オイル交換の際、社長がオド・メーターを見て、

「ほぅ、今回は随分と走りましたね。3ヶ月で5,000kmですか」

確かにいつもより多く走ったなとは思う。5,000kmという距離は、それだけを見れば相当の長さのように思う人もいるだろう。でも、モノは考えようである。たとえば東京 - 博多間を往復すれば約2,200kmだ。つまりこれを2往復とちょっと走れば、あっという間に5,000kmになる。そう考えれば5,000kmなんて大した距離じゃない。

もう15年ほど前のこと。面倒な仕事でストレスがピークに達していた。やっとの思いで仕事を終わらせたワシは、ハッと気づくと東名に乗って西へ向かっていた。最初は目的もなく走っていたが、フトその数年前に取材で九州に行ったことを思い出した。そして、何もためらうことなく、目的地は博多に決まる。

博多に何をしに行ったのかって? 決まってるじゃないですか、ラーメンを食いにですよ(笑)取材に行った際にたまたま食ったラーメンの味を思い出したってわけよ。オーバーに言えば「夢よ、もう一度」である。

目的が決まれば、あとは猪突猛進あるのみ。片道約1,100kmをトイレ休憩を除き、ほとんどノン・ストップで走破。そして約13時間後には博多に到着。すぐさまお目当てのラーメンを食った。言葉にならないくらい旨かったのは言うまでもない。

目的を達してしまうと、もう帰ることしか思いつかない。で、また高速に乗って先ほど走って来たルートを戻る。

不思議なもので、帰り道はこんなに東京って遠いのかと思うほど時間が長く感じた。復路も往路とさほど時間的には変わらなかったのに。でも帰らないわけにはいかないので我慢しながら走った記憶がある。

約30時間後には無事東京に帰還。現在ならETCの深夜割引を使えば片道15,000円ちょっとで済むが、当時はまだETCなんてない。支払いはクレジット・カードか、もしくは現金ニコニコ払いである。明確に覚えていないが、たぶん片道23,000円くらいだったと思う。

ということは、往復で高速代(約46,000円)とガソリン代(約30,000円?)を合計すると約76,000円かかったことになる。つまり一杯のラーメンを食うために76,000円を出したわけだ。こんなバカなことをする奴が他にいるだろうか!(いや、いない!)これを書きながら、つくづく自分のアホさ加減に呆れる。でも、当時の意識にはまだバブル的な発想があったんだろうな。

…にしても、自己嫌悪である。

ま、要するに、こんなアホなことを2回もすれば5,000kmなんて、あっという間だよって話なんですよ。もちろん、それ以来ワシは二度とこんな愚行はしてない。え?一晩に200~300kmをいつも走っている奴が何を抜かすかって? ええ、まあそれも愚行と言えば愚行なんでしょうがね(苦笑)
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深夜の南大沢

2007-12-20 04:34:53 | ドライブ関連
南大沢は八王子市と多摩市の境に位置するベッドタウン(住所は八王子市)。従って深夜の時間帯で照明が輝いているのは駅前のみ。なので、駅の近くをパチリ。


上の写真は駅前ロータリーの中心で燦然と輝いている照明灯。カメラの関係でうまく写っていないが、光源のところは、いうなれば宇宙ステーションのような形をしている。中空に浮かぶUFOと表現してもよい。とにかく明るい。


駅を正面に見て、ロータリーに面した右側には午前1時半にもかかわらず室内照明が煌煌と灯っている建物のフロアがあった。一体何のために点けているんだろうか。仮に防犯上の理由だとしても、そんなに明るく灯さなくてもいいのに。第一、電気代がかかるだろうと余計な心配をしたりして。


最後の1枚は駅側から見れば道路を挟んだ真正面にある案内板(?)。この上にあるのは2体の雪だるま。もちろん電飾だが、どうやらこの時間には消灯しているようだ。灯りの点いていない電飾って、なんだかスケスケの骸骨みたいだな。ちょっと不気味。でも、この骸骨、フランス料理に出てくる飴細工のようでもある(笑)
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レバノン料理との遭遇

2007-12-19 14:21:12 | 脳みその日常
昨日は友人とレバノン料理を食いに行った。もちろん初めての体験だったが、とにかく美味。旨いものを食うと、ホント、幸せな気分になるねえ。店の雰囲気や店員の接客態度も良く、リピートしたい店になりそう。

店のHPによれば毎週土曜日にベリーダンスのショーが行なわれるとのことだが、昨日はある団体客の要望でダンサーが登場。妖艶な踊りを無料で見ることができた。この踊りは高速振動する腰の動きが特徴だが、冷静に見ているとそれ以外の目立った特徴はなく、ヴァリアントも少ない。

ただ、そのダンサー、甘美な香水をつけているのはいいのだが、下腹の肉がタプタプしてて「ちょっと、そりゃないだろ」という体型(おまけに年齢不詳だし…)。でも団体客のオッチャンたちの鼻の下は終始伸びっぱなしだったので、それはそれで満足だったのだろう。
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お迎えは、いつ?

2007-12-18 04:20:12 | 脳みその日常


ブルーですよ、ブルー。何がって、写真をご覧になればわかると思うけれど、我がパソコンのディスプレイ画面が薄いブルー色に覆われたままなのだ。パソコン本体は何の問題もなく可動するからいいのだが、カラーじゃないのでやたらと疲れる。赤色なんてね、もう真っ黒にしか見えないですから。

その原因を調べてみると、どうやら、たぶん、いや、きっとブラウン管の寿命らしい。人間が老衰で弱っていくように、こうしたブルー現象はブラウン管末期にみられる症状だそうな。あぁ、なんたること!

なんかね、ちょっと寂しい気分だよ。「あぁ、コイツはもうすぐ天寿を全うするのか…」なんて思うとね。

思えば、このマシン、使い始めてから丸9年。商売道具として、よく働いてくれた。もうね、感謝の気持ちで一杯でさぁ。

いつ動かなくなるのかは予想がつかない。ある日突然作動しなくなるのかもしれない。最近は毎日更新しているこのブログも、突然更新されなくなったら我がブラウン管が逝ったと思ってくだされ。

でもさ、「死ぬ、死ぬ」と言う人に限って死ななかったりするから、まだ当分は現役のままかもね。ま、こればっかりは神のみぞ知るってところかな。まさに、カンナガラである。
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フツーですってば!

2007-12-17 08:34:55 | 脳みその日常
昨日は「歌い方教室」のおさらい会。7月末の第1回に続き、今度が2回目。こういうのは年に一度で良いと思うのに、生徒さんたちの「やりましょ、やりましょ」という声に応えて行なった。なんと意欲的な!

まだまだ音がちゃんとハマらない人は多いけれど、リズムに関してはほとんどの生徒さんがバッチリ理解できている。これは本当に喜ばしいことだ。昨日の記事ではないが、「意識すること」がみんなわかってきたのだろう。

会が終わるとそのまま食事会に突入。全員ではないがほとんどの人が参加。前回ワシは締め切りの原稿に追われていて不参加だったが、今回は初めて参加した。本当はやらなければならない仕事が山積みでノンキに飯を食っている場合じゃない。でも、ここは余裕があるフリをしつつ、おしゃべりに興じた。

他人が自分をどう見ているのかなんて、話をしてみないことにはわからんものである。ワシは飲み会や食事会といった人が集まる場ではいつも場を盛り上げることにしている。だから当然バカな話をすることも多い。

そんな姿を初めて目の当たりにした生徒さんが驚いたように言った。

「先生って、意外にフツーなんですね!」
「はぁ…」
「もっと気難しい人だと思ってました」

いやいや、フツーも何もこれが本来のワシなんですが…。

「えー? いつもこんな感じですよ」
「だって、ほら、音楽家の人って近寄りがたい雰囲気があるじゃないですか」
「いえ、ワシ、音楽家じゃないですから(苦笑)」
「とにかく、親しみのある方だと判って安心しました」

そうか、ワシには気難しい雰囲気があるのか。近寄りがたい感じだったのか。まあ、そりゃ、教えている時は結構マジメに指導してるから、そう見えるのかもしれんな。このへんは今後改善しないといけないかもと反省。無意味に生徒さんを緊張させてはイカンし。

それにしても、「音楽家の人って近寄りがたい雰囲気がある」って発言はある意味では的を射ている。それはそう思わせるように敢えてポーズしている音楽家がいるという意味だ。だいたいそのようなポーズをするのは二流以下の音楽家であることが多い。一流の人であればあるほど意外にサバサバしている。

じゃあ、なぜそんなポーズをする必要があるのか。答えは簡単だ。自意識過剰に由来するものだと思うけれど、その人は周囲から「音楽家だと認められたい」からである。だからちょっと気難しいフリをして周囲の人に「ああ、やっぱり音楽家は違うね」と思わせたいんじゃないかと思う。

一流の人がそういう態度を取らないのは、そんな次元で「勝負する」つもりは更々ないから。そんなフリをしなくても周囲はちゃんとその人を音楽家と認めるからね。無意味なことをしないのが一流の一流たる所以なのだと思う。

もちろんワシは音楽家じゃないし、自分が一流などとは思ったこともない。ただ、無意味なことをしない、しても仕方がないというのは同感である。だって、そんなことしても疲れるだけでしょ?

前にも書いたけれど、自分に対する評価ってのは他人がするもの。いくら自分を良く見せようと思っても、いずれメッキは剥げる。だからメッキなんぞに頼らないフツーの接し方、つまりはありのままの自分でいるのが一番なのだ。
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