ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

名前が刻まれておる!…槇谷ダム

2024-04-06 06:52:14 | 岡山(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は岡山県加賀郡吉備中央町岨谷(きびちゅうおうちょう すわたに)にある高梁川(たかはしがわ)水系の槇谷(まきだに)ダムを目指します。アクセスは国道180号の「明治橋」信号を吉備中央方面へ入り、県道57号を槇谷川沿いに進みます。そして、吉川方面に行く県道307号に入り落合川に沿って進んでいくと目的地に到着します。

【岨谷の由来】(参考
ところで、地名の岨谷が気になったので調べてみました。「岨」は「そわ」とも読みますが、山の切り立った場所、崖、絶壁を意味します。つまり岨谷は険しい崖が切り立った谷という意味で、この地名もそれに由来するものとみてよいでしょう。

県道307号を登ってくると、こんな風にダムが見えてきます。ダム横まであと少し。

県道とダム横は直結していて、県道沿いには二つの石碑が建っています。写真左側のが「槇谷ダム竣功記念碑」で、

その裏側にはダムの概要が記されています。それによると当該ダムは岡山県が防災とかんがいを目的として築造した重力式コンクリートダムで、高さ45.0m、長さ140.0m。昭和63年度竣工。

一方、右側の石碑には槇谷ダム築造の目的が書かれています。転記すると次の通り。

「この槇谷ダムは落合川及び槇谷川下流沿岸農地の洪水被害を未然に防止するとともにかんがい用水の水源確保を目的として建設した共用ダムであり、民生安定と農業経営の近代化を図るものである」

別の案内板。

左岸の県道沿いにあるこの建物は管理所のようですがそれを示すものはありません。

その管理所と思われるところからダムを見るとこんな感じ。


では、ダムへ向かいます。

左岸から見たダム上。

左岸側の親柱には岡山県の県花である桃の花と桃の実が描かれています。

ダム上、中央から見た貯水側の景色。

一方、ダム下を覗き込むとこんな感じで、

下流方向を眺めます。

対岸(右岸)に来ました。振り返るとこんな感じ。

右岸、下流側から見た様子。ん?本体に何やら文字が…。

「まきだにダム」の文字。コンクリートダムの壁面にこうした文字が記されているのは珍しいんじゃないでしょうか。

平成元年(1989年)3月竣工だそうです。上に示した案内板には昭和63年度竣工とありますが、平成元年3月はまだ昭和63年度なので間違いではありませんね。


槇谷ダムはもちろんダム便覧に登録されていますが、竣工年が1988年になっています(参考)。でも、上記の通り1989年3月竣工なので記載が間違いなのは明らか。現場を見ていない証拠。「年度」のことを勘違いしたんでしょうね。
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意外なモノが…落合ダム

2024-04-05 07:00:37 | 岡山(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。えー、今回は岡山県加賀郡吉備中央町落合にある高梁川(たかはしがわ)水系の落合ダムを目指します。アクセスは落合川の下流から行く道もあるんですが、あまり整備されていないのでオススメできません。で、遠回りになりますが、県道307号から豪渓(ごうけい)・高梁方面へ向かう吉備高原街道へ入り、その途中に「農地開発 落合ダム」の表示板のあるT字路を入ります。そしてすぐ二又になるので左へ行くと目的地の左岸に到着します。

先にダム下へ行って「御尊顔」を拝みます。

木々の間から見える「御尊顔」。治水ダムですかね。

左岸、ダム横に近いところから見るとこんな感じ。

上に示したルートから来ると、まず目にするのがこの石碑。「落合地区 完工記念碑」。

その裏には諸元が記されています。それによると落合ダムは農地灌漑用に築造された、いわゆる農林ダムで、高さ=35.7m、長さ92.0m。竣工は昭和61年(1986年)。

左岸から見たダム上。ここから先は関係者以外立入禁止のようですが、特に柵が設けられていないので行ってみることにします。

ダム上、中央から見た貯水側の景色。

ダム下を覗き込み、

下流方向を眺めます。

対岸(右岸)に来ました。振り返るとこんな感じ。

右岸側の親柱には「昭和五十六年三月竣功 岡山県」のプレートが嵌め込まれていますが、おそらくこれはダム本体の竣工時期と思われます。

右岸、下流側から見た様子。

ふと足元を見るとエロ本が無造作に捨てられていました。いや、なぜこんなところにこんなモノが…。意味がわからん。

右岸、ダム側から見た様子。


当該ダムは吉備中央町が管理しているようですが、築造の経緯は不明(参考)。ちなみに同名のダムは北海道余市郡赤井川村と岐阜県中津川市にもあるようです。
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築造経緯が明らかな黒谷ダム

2024-04-04 07:01:54 | 岡山(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。えー、今回は岡山県岡山市北区河原(かわはら)にある笹ヶ瀬川水系の黒谷(くろだに)ダムを目指します。アクセスは国道429号沿いにあるので迷うことはないでしょう。

左岸に到着。ロックフィルダムですね。

ダム湖側から見た様子。

近くにある「黒谷ダムのあらまし」。

築造の経緯はこちらの石碑に刻まれています。不明な文字もありますが、転記すると以下の通り。

「大正十三年(1924年)の大旱魃により足守川沿岸地域は大なる被害を受けた。これを契機として●●●池を造る声が起ったが地元負担金が多すぎるなどを理由に反対者も多人あった。当時の福谷村長 川崎忠太郎氏は隣接する町村長と協力して反対者を説得し昭和七年(1932年)黒谷池を完成させた。農業経営を飛躍的に向上させた黒谷池は築造後五十数年を経過し老朽化したことから池を改修する要望が地区農から起った。これを受けて昭和五十年岡山県が調査を開始し、黒谷池下流九十米の位置に洪水調節を兼ねたダムを農林水産省補助により築造する計画がなされた。昭和五十九年には付替道路工事に引き続きダム本体工事に着手し、平成二年官民一致協力し受益住民の負担は一切無く全て公共事業費によりこの大事業は完了した。そして、黒谷池は名称も黒谷ダムとなり、足守川流域の洪水と水不足の不安は解消した。ここに記念碑を建立し、その概要を後世に伝えるものである。
  平成二年十月吉日
    黒谷池土地改良区理事長
        門本和郎 謹書」

おむすび型の「黒谷ダム竣工記念」の石碑。

その裏側には諸元が記されています。高さ=43.6m、長さ=208.5m。

左岸から見たダム上。行ってみましょう。

いわゆる親柱に「ほたるの里」とあるので、このあたりは水が綺麗なんでしょうね。

ダム上、中央から見たダム湖の様子。

一方、下流側はこんな感じ。写真下方に見えるのは日時計だそうで、


その説明が左岸側に記されています。

洪水吐は右岸側にあり、越流式。ここから溢れ出た水は、

この水路を通って、足守川(あしもりがわ)となって下流へ向かいます。


対岸(右岸)に来ました。振り返るとこんな感じ。手前の橋の下が洪水吐の水路。

右岸の親柱に嵌め込まれたプレート。「くろだにダム」と記されているのにダム便覧ではなぜか「くろたに」となっています(参考)。なぜこんなイージーミスをするんでしょうね。確認すれば済むことなのに…。

「平成2年3月竣工」とあるのは、おそらくダム本体の竣工時期と思われます。

右岸、下流側から見た様子。

右岸、上流側にあるこの建物は「黒谷ダム管理事務所」。


そして、そこからダムはこんな感じに見えます。


築造の経緯も明確な農林ダムでした。ちなみにダム名は左岸下流側の地名に由来します。調べてみたら、同名のダムが福島県南会津郡只見町にもあるのに気づきました(参考)。これはまた面白そうなので、いずれ行ってみようと思います。
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丁寧な説明とブラックホール!…鳴滝ダム

2024-04-03 06:59:31 | 岡山(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は岡山県加賀郡吉備中央町竹部(きびちゅうおうちょう たけべ)にある旭川(あさひがわ)水系の鳴滝ダムを目指します。アクセスは国道484号沿いにある「鳴滝ダム」の看板のあるT字路を入り、しばらく道なりに進みます。そしてダム湖でもある鳴滝湖に至る手前の二又を左に行くと左岸に到着するようです。

見えてきました。あれのようです。

近くにある案内板。鳴滝ダムは洪水調節、流水の正常な機能維持、および水道揚水の確保を目的とする多目的ダムとして計画され、昭和50年から計画調査を開始。昭和52年から築造が始まります。そして昭和57年(1982年)3月に完成したそうな。高さは34.0m、長さは127.0m。

ダムへ近づいていくと左岸側に管理所らしき建物があります。でも、それを示す表示はありません。

「鳴滝ダム竣工記念碑」と刻まれた石碑。

別にある案内板。鳴滝ダム築造計画は宇甘川(うかいがわ)総合管理事業の一環として立案されたもので、鳴滝ダムから流れ出た水は加茂川となって下流へ向かい、宇甘川に合流したのち旭川へ流入します。ダム名は下流300mのところにある「鳴滝」にちなむものだそうです。

上水道を目的とした水利使用標識。

右岸から見たダム上の様子。歩いてみましょう。

どのダムにもいろいろな設備がありますが、鳴滝ダムで目を引いたのはそれぞれの設備の説明がされていること。こうした説明は見学者にとってありがたく、理解の一助となりますね。そういえば、同様の姿勢は群馬県の県営ダムもそうだったのを思い出します。



ダム上、中央から見た鳴滝湖の様子。

一方、ダム下を覗き込み、

下流方向を眺めます。

対岸(右岸)にきました。振り返るとこんな感じ。

右岸、上流側から見た様子。ん?ダムの中央付近に何か見えますね。

違う角度から見ます。写真中央に見えるアレ、常用洪水吐なんですが、水がアリ地獄のように吸い込まれていきます。

近づいてみます。ああ、そういえば、以前訪れた滋賀県甲賀市にある青土(おおづち)ダムのそれを思い出しました。あれを見た時はホント衝撃でしたね。


でも、このブラックホールのような常用洪水吐、青土ダムは1988年3月完成なので規模は小さいものの鳴滝ダムのほうが「先輩」になります。
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老朽化しつつある日山ダム

2024-04-02 06:52:47 | 岡山(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。えー、今回は岡山県加賀郡吉備中央町上田西にある旭川水系の日山ダムを目指します。このダムは前回記事にした河平ダムの上流にあり、日山谷川沿いに進んでいけば到着しそうな感じですが、実は道はありません。そのため、アクセスは国道484号を建部(たけべ)方面へ向かい、途中で円城(えんじょう)方面へ行く県道372号に入り、日山谷川を渡った先を右折していくと到着します。

見えてきました。あれのようです。

右岸、上流側から見た様子。

右岸から見たダム上。

右岸側の親柱に嵌め込まれたプレート。


ダム上の入口にはチェーンが張られていますが、立入禁止の表示がないので自己責任で歩いてみます。で、中央付近から見た上流方向の景色。

一方、ダム下を覗き込み、

下流方向の遠景を眺めます。

対岸(左岸)に来ました。振り返るとこんな感じ。

左岸の親柱に嵌め込まれたプレート。昭和46年(1971年)6月完工とあります。

左岸、上流側から見た様子。

同、下流側から見るとこんな感じ。ご覧のようにダム上の手すりがだいぶ錆びてます。

ダム本体に貼られたプレート。岡山県建造とあります。


日山ダムについて周囲に案内板はありません。そこで検索してみます。すると、日山ダムは確かに岡山県が農林ダムとして築造したものの、現在は吉備中央町が管理しているそうな。そして高さは25.4m、長さは78.0m。ちなみに旭川水系の農林ダムはほかに真庭市にある北房ダム(未見)、吉備中央町にある恩木ダム(未見)そして久米南町の以前訪れた山手ダムが該当します(参考)。
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日山谷川の調節役!…河平ダム

2024-04-01 06:54:22 | 岡山(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は岡山県加賀郡吉備中央町下加茂(きびちゅうおうちょう しもがも)にある旭川(あさひがわ)水系の河平(かわひら)ダムを目指します。アクセスは国道484号沿いの「河平ダム」の表示板のあるT字路を入っていくとダム下に至ります。まずはそちらへ行ってみましょう。

到着しました。こんなダムです。


左岸のダム横へ行くには一度国道へ戻り、左折。そして、すぐのT字路を左へ入っていくと到着します。

おー、見えてきました。形状からして治水ダムのようです。

左岸、上流側から見た様子。

左岸から見たダム上。歩いてみましょう。

ダム上、中央から見た上流方向の景色。

ダム下を覗き込み、

下流方向を眺めます。

対岸(右岸)にきました。振り返るとこんな感じ。親柱には平成16年(2004年)12月竣工とあります。

本体に嵌め込まれた銘板。高さは38.5m、長さは107.0mだそうで。

定礎は平成15年(2003年)7月。

右岸、上流側にある河平ダム管理所。


案内板。ここを流れる日山谷川は下流で宇甘川(うかいがわ)へ流入し、そしてやがて旭川へ合流します。しかしながら、こと日山谷川は急流であるため古くから豪雨が起こるたびに甚大な被害が発生していました。そこで抜本的な治水対策として日山谷川総合開発事業が開始されます。その一環として計画されたのが河平ダムで、平成3年(1991年)から予備調査が始まり、平成6年(1994年)から建設に着手。上に書いたように平成16年12月にダム本体が竣工し、翌年に洪水調節、既得取水の安定化および河川環境の保全、水道用水の確保を目的とする河平ダムが完成しました。

右岸、下流側から見た様子。

その近くにある河平ダムの案内図。

そして、「河平ダム竣工記念碑」と刻まれた石碑。平成17年11月岡山県と記されています。


諸元をはじめとした情報がきちんと記されていて、さすが、県営ダムだなあという感じ。見学者の立場からすると学ぶことが多くてワクワクします。ただ、一点、気になるのはダム名の由来。河平というのはなんでしょうかね。地名なのかな。
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情報は正しく!…先谷池

2024-03-31 07:56:43 | 岡山(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。えー、今回は岡山県久米郡美咲町北(くめぐん みさきちょう きた)にある先谷池(さきだにいけ)を目指します。アクセスは国道429号から北方面へ入り、県道341号へ。しばらく行くと左側に旭北(あさひきた)郵便局が見えてくるのでそこのT字路を入ります。そして、すぐの左カーブの先を右へ入り、そのまま先谷川(さきだにがわ)に沿って進んでいくと目的地に到着します。

…てなわけで到着。左岸側に洪水吐があるのがわかります。

洪水吐の様子。ちょっとした段差のある越流式です。池が満水になると水はここから溢れ出て、

この水路を通って下流へ向かいます。

左岸、池側から見た様子。

これが、いわゆるダム上になります。先谷池であることを示す案内板は見当たりませんが、そこにある唯一の看板が「先谷池水利組合」なので間違いないでしょう。写真左上はワシの指。日差しを遮ろうとしたら写ってしまいました。へへへ。

ダム上を進みます。中央から池を見るとこんな感じ。

一方、下流方向の様子。

右岸まで来ました。振り返るとこんな感じ。


先谷池はダム便覧に登録されています(参考)。それによると先谷池は、高さ=16.4m、長さ=75.0mのアースダムで、竣工は1911年だそうです。しかし河川データは「旭川水系通谷川(かいだにがわ)」となっていますが、これは間違い。国土地理院の地図を見ると、この先谷池から流れ出た川は先谷川であり、それが下流で通谷川に流入しているからです。

また所在地は「美咲町北村(きたそん)」とありますが、現在の住所は上に記した通りです。そしてダム事業者も「北村」がないのですから「北村土地改良区」の表記もおかしい(ネットを検索しても同土地改良区はヒットしないので存在しないのかも…)。

さらに、上に見たようにダム上には「先谷池水利組合」と表示されているので、現在の事業者はこれではないかと思われます。もっとも、「先谷池水利組合」で検索しても同様にヒットしませんけどね〜。ただ、現地にそういう表示があるということはまだこのほうが正しいんじゃないかと思います。

真実はいかに…。
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いろいろ不明…舟木谷池

2024-03-31 07:00:04 | 岡山(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。一週間ほど前、毎月書いている雑誌社から新譜のCDが届きました。そのコメントを書こうとした時、その一枚がなんと二年前にリリースされたものであることが判明。「いや、これ、新譜ちゃうでしょ?」と編集部に問いただすと「あー、すみません。気づきませんでした」との回答。もぉー、しっかりしてくれ!

気を取り直して…。

えー、今回は岡山県久米郡久米南町中籾(くめなんちょう なかもみ)にある舟木谷池(ふなきだにいけ)を目指します。アクセスは国道53号の「上神目(かみこうめ)」信号を上籾(かみもみ)方面へ曲がります。県道375号をそのまま進んでいくと池が見えてきます。「おおっ、これか?」と思うんですが違います。県道から離れ、池の左岸側の道を進み、しばらく行くと目的地に到着します。

これですね。右岸側、つまり写真下部のところに洪水吐が設置されています。

洪水吐といっても、ちゃんとしたものではなく排水路といった感じ。水はそこから溢れ出て、

あちらへ流れていきます。

右岸、下流側から見た堤の傾斜の様子。

では、いわゆるダム上を進んでみます。その中央から見た池の様子はこんな感じ。

池の下の様子と下流方向の遠景。


対岸(左岸)にきました。振り返るとこんな感じです。

左岸、池側から見た様子。


ここへ来た理由はダム便覧に載っていたからです(参考)。グーグル先生の地図にも舟木谷池は載っています。でも、現場にそれを示すものはありません。ちなみにダム便覧のデータによれば、高さは18.2m、長さは65.0mのアースダムで、1919年に竣工したとのこと。

ただ、河川は旭川水系誕生寺川と記載されていますが、誕生寺川は国道53号に沿って流れている川であり、舟木谷池から流れ出ている川でないのは明らか。うーん、詰めが甘いねぇ。もっとも、その川名は知りませんけど。

また、この池名の由来も不明です。地名ではなさそうなので、もしかしたらここは「舟木谷」という谷なのかもしれません。その谷を堰き止めて池にしたのでそのように命名されたのかも。ええ、あくまで推測ですけどね。
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取水堰堤なんです!…旭川第二ダム

2024-03-30 06:54:10 | 岡山(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。えー、前回の旭川(あさひがわ)ダムから旭川沿いの県道30号を下ってくると何か見えてきました。なんでしょうか。


到着しました。ダムかな?

下流側から眺めます。高さはさほどないので堰堤のように見えます。

県道の山側に堰堤の横へ至る小道があったので登ってみます。そしてそこから堰堤を見るとこんな感じ。ご覧のように堰堤の上は関係者以外立入禁止なので行けません。


はて、これはなんでしょうね。周囲にそれを示すものはありません。そこで、地図で調べるとこの築造物は「旭川第二ダム」というそうな。ああ、これが上流の旭川ダムの次に築造されたものなんですね。さらに調べると旭川第二ダムはここから直線距離にして下流約1.5kmのところにある岡山県企業局旭川第二発電所(岡山市北区建部町品田)で発電するための取水堰堤であることが判明。国土地理院の地図を見ると旭川第二ダムの右岸に取水口があり、そこから旭川とは別の水路で旭川第二発電所へ送水され発電に利用されるようです。

では、旭川第二ダムはいつ築造されたのでしょうか。旭川第二発電所の運用開始が1954年11月なので当該ダムの築造年月もそのころと思われます。

あれ?そうすると築造時期は旭川ダムとほぼ同じ頃になりますね。確か、ここは旭川ダムの次に築造されたはずなので再度確認してみます。旭川ダムは岡山県企業局の旭川第一発電所のためのダムとしても築造された経緯があります。そして同第一発電所の運用開始が1954年2月なので旭川ダムの築造もそのころと思われます。とすれば、確かに旭川第二ダムは旭川ダムよりもあとに築造されたのですが、竣工時期はその9ヶ月後ということになります。

旭川第二ダムは見た目は新しく見えるので築造されたのは最近なのかなと思いますが、実はもっと前に築造されていて、塗装などのリニューアルが行なわれたので新しく見えるんでしょうね。

参考
参考
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岡山県の…旭川ダム

2024-03-29 07:04:22 | 岡山(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。えー、今回は岡山県岡山市北区建部町鶴田(たけべちょう たづた)にある旭川(あさひがわ)水系の旭川ダムを目指します。アクセスは県道30号沿いにあるので迷うことはないでしょう。

見えてきました。あれのようです。


県道から入ると、まず「旭川ダム統合管理事務所」の建物があります。


そこからダムを見るとこんな感じ。旭川ダムはその名の通り旭川を堰き止めて築造したことに由来します。

旭川ダムの案内板。築造の経緯が記されています。それによると、築造の計画はなんと大正10年(1921年)頃に起こり、県営電気事業計画として発案されます。その後、県下の河川の調査を行なっていましたが、昭和9年(1934年)9月に室戸台風による大災害が発生。これが直接のきっかけとなり、昭和17年に築造に着手するも翌年第二次世界大戦のため建設は一時中止。戦後、旭川総合開発計画が立案され、昭和25年に事業が再開。翌年から着手されます。そして昭和29年(1954年)に治水、利水、発電を目的とする多目的重力コンクリートダムとして完成した。ただし、後年下流に旭川第2ダムが築造されるまで当該ダムは「旭川第1ダム」という名称だったそうな(参考)。ほうほう。

子供にもわかるように作成された案内板。

周辺環境整備事業についての説明。

ダム内の循環設備についての説明。

旭川ダム再開発事業についての説明。昭和29年に当該ダムは完成したものの、昭和47年7月、西日本を襲った豪雨をきっかけに洪水調節方式の見直しを開始。予備放流方式を制限取水方式に変更するなどの改良を行なったそうです。そして取水塔の設置をはじめとして昭和59年(1984年)3月、工事は完成。ほほぅ。

訪れた時、ダムの補修工事が行なわれていたため、ダム上には行けない雰囲気だったので、

左岸から見たダム上のみの撮影となりました。

そして、左岸、ダム横から下流方向を眺めます。ダムの高さが45.0mということで見晴らしは最高!


工事がなければ、ダム上の中央から見たかったなあ…。そういえば、秋田県秋田市にも旭川ダムがあったっけ。いや〜、秋田県もまた行きたいなぁ。
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現場表記を優先に!…瀧谷池

2024-03-27 06:54:45 | 岡山(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は岡山県久米郡美咲町大垪和東(くめぐん みさきちょう おおはがひがし)にある滝谷池を目指します。アクセスは県道70号から栃原(とちばら)方面へ至る県道373号を行くと到着します。

ところで、滝谷池はダム便覧に掲載されている(参考)のですが、そのデータにはいくつかの誤りがあります。まず池名ですが、後述するように現地の石碑には「瀧谷池」と刻まれています。そして読み方はダム便覧では「たきだにいけ」とありますが、河川名が滝谷川(たきたにがわ)なのでそれに由来する名称と考えればおそらく「たきたにいけ」が正しいと思われます。また、データでは吉井川水系とありますが、地図を見れば明らかなように滝谷川は旭川(あさひがわ)に流入しているので水系名は旭川水系が正しいはず。ダム便覧の記載内容は時として間違っているので鵜呑みにするのは危険です。なお、高さ=18.0m、長さ=110.0mの典拠は不明。

さて、到着しました。左岸のところには高さ3mくらいの石碑が建っています。そこには前述の通り「瀧谷池竣工記念碑」と刻まれています。まあ「瀧」の新字体が「滝」ですからダム便覧の記載は間違いではないのですが、やはり現場の記述を優先すべきではないかとも思います。

その裏側を見ると「昭和四十三年(1968年)十一月吉日建之」とあるので、瀧谷池もこのころに築造されたものと思われます(これはダム便覧と一致します)。

左岸から見た、いわゆるダム上の様子。

近くにある「大垪和10景プラス1」の案内板。

ダム上、中央から見た池の様子。確かに10景に選ばれるほどの良い眺めです。

一方、下流側の景色はこんな感じ。

右岸側には越流式の洪水吐があります。おや?犬小屋みたいなものがありますね。あとで行ってみましょう。

洪水吐から溢れ出た水はこの水路を通ってあちらへ流れてゆきます。

右岸に来ました。振り返るとこんな感じ。写真下部の橋の下が洪水吐の水路。

右岸、池側から見た様子。このあたりに管理所のような建物がありますが写真を撮り忘れました。

先ほどの「犬小屋」に近づいてみました。すると…「はくちょうのいえ」だそうです。なるほど。


白鳥が飛来するんですね。それも見たい気がします。
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由来は明らか…長池

2024-03-26 06:56:37 | 岡山(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。えー、今回は岡山県久米郡久米南町松(くめなんちょう まつ)にある旭川(あさひがわ)水系の長池を目指します。アクセスは国道53号の「厨橋(くりやばし)」信号を上籾(かみもみ)方面へ曲がり、県道373号をひたすら進んでいきます。

到着しました。これのようです。左岸側に洪水吐が見えますね。

左岸、池側から見た様子。

これが、いわゆるダム上になります。歩いてみましょう。

洪水吐に架かる橋から下流側を見ます。池の水が満ちると水はこの水路を通ってあちらへ流れてゆきます。

ダム上、中央から見た長池の様子。池名の由来は不明ですが、その形状が細長いことから命名されたのかな?

ダム下の様子。左岸から溢れ出た水はダム下中央付近まで来て、そこから下流へ行くようです。

対岸(右岸)にきました。振り返るとこんな感じ。

右岸、池側から見た様子。

右岸から見た堤の傾斜の様子。

左岸、下流側のちょっと離れたところに2つの記念碑があります。

左側の記念碑の文言を転記します。

「 耕地整理記念碑
由来為松之地耕地狭隘而乏水利交通運輸亦頗不便郷人夙憂之凝議至大正五年一月設立耕地整理組合築造堰堤于長池外加以主要道路数條之開鑿(かいさく)昭和六年四月竣工矣総工費拾参萬五千餘圓内国庫助成金参萬五千七百餘圓縣補助金壱萬九千五百餘圓也今也闢田三十餘町歩拓畑地数町歩用水路之新設改廃成化磽确(こうかく)而為豊穣之地人馬交通之便備而達成郷黨百年之宿願焉仍茲建碑傳于後昆云爾
  岡山縣知事正五位勲四等多久安信閣下題
   昭和十年初秋
      久米郡弓削町松耕地整理組合」

要約すると、「松地域の耕作地は非常に狭く、水利交通の便がとても悪かったためそこに住む人々は以前から憂いていた。大正15年1月、耕地整理組合が設立されたことで長池に堰堤の築造とその外側に主要道路が引かれることとなり、昭和6年(1931年)4月に竣工した。総工費十三万五千余円のうち、国庫助成金は三万五千七百余円、県からの補助金は一万九千五百余円である。現在、田圃三十余町歩、畑地数町歩を開墾し、用水路を新設することで荒地を豊かな地に変え、交通の便を整備し地元の人々の百年の宿願を達成した。よって、ここに碑を建てそれを後世に伝えるものである。」といった内容です。

なお、当時岡山県知事だった多久安信(たく・やすのぶ:1890-1959)は佐賀県出身で東京大学法学部を卒業し、内務省へ入省。1932年6月から青森県知事、1934年8月から岡山県知事、1937年7月から千葉県知事を歴任しました。

一方、右側の記念碑はなんでしょうね。その裏側を見ると平成10年(1998年)3月に県営ため池整備事業が完成したことを記念する石碑であるのがわかります。これを見ると地区名が「長池地区」とあるので、長池とはここの地区名に由来するのかもしれませんね。


ちなみに、長池はダム便覧に登録されています。それによると、高さ=15.5m、長さ=68.8mからなるアースダムとのこと(参考)。
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ちょいと謎が…荒神池

2024-03-25 06:57:05 | 岡山(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は岡山県久米郡久米南町南庄(くめなんちょう みなみしょう)にある旭川(あさひがわ)水系誕生寺川の荒神池(こうじんいけ)を目指します。アクセスは国道53号の「厨橋(くりやばし)」交差点を上籾(かみもみ)方面へ曲がり、県道373号を進んで津山線の踏切を過ぎて最初のT字路を右へ入ります。そして少し行ったT字路を「←松東・南庄」方面へ。そのまま道なりに進んでいくと到着します。

到着しました。左岸から見た様子。

左岸側には記念碑が並んでいます。

それによると、荒神池が竣工したのは大正15年(1926年)4月で、

昭和時代末期に改修工事が行なわれて、平成元年(1989年)1月に竣工したことがわかります。

左岸側から見た、いわゆるダム上。

その中央から荒神池を見ると、こんな感じ。

一方、その中央にはダム上から下へ降りる階段があります。

階段を少しだけ降りて、傾斜の感じを撮ってみました。

そして、下流方向の遠景。

洪水吐は右岸側にあり、申し訳程度の越流式の段差になっています。

右岸から左岸方向を眺めるとこんな感じ。写真左下のところが洪水吐になっています。


荒神池はダム便覧に登録されています。それによれば、高さ=15.3m、長さ=67.0mのアースダムだそうですが、竣工は1905年と記されています(参考)。ん?先に見た石碑には1926年とありましたが、どういうことなんでしょうか。もしかすると、並んでいた三つの石碑のうち、一番左の石碑に記されていたのかもしれません(実はほとんど判読できなかったので諦めたんですが)。ただ、それが事実ならば真ん中の石碑に記された竣工年は何を意味するのでしょうね。これも改修工事?また池名の由来は?

うーむ、いまいちモヤモヤします。
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由来が知りたい!…夫入道池

2024-03-24 06:59:11 | 岡山(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は岡山県久米郡久米南町南庄(くめなんちょう みなみしょう)にある旭川(あさひがわ)水系誕生寺川の夫入道池(ぶにゅうどういけ)を目指します。アクセスは前回記事にした水越池のすぐ下を通る道を進んでいくと到着します。ただし、この道はとても細いので要注意。

対向車が来ないことを祈りつつ進んでいくと無事到着。これが左岸から見た、いわゆるダム上になります。

下流側の斜面の様子。

池側から見るとこんな感じ。

ダム上を進んでみます。中央のガードレールの隙間には「地蔵菩薩」と記された石碑が…。

そこから池を眺めます。

一方、下流方向の遠景。

右岸側には洪水吐があります。一応越流式のようです。

洪水吐の上に架かる橋の名は「夫入道池橋」で、昭和57年(1982年)3月竣工だそうです。


洪水吐から溢れ出た水は、この水路を通ってあちらへ流れていきます。

右岸、池側から見た洪水吐の様子。

そして、左岸側を見るとこんな感じ。

右岸、下流側から改めて堤の傾斜を眺めます。こう見ると、やはり高さがあるなあと思ったり…。


ここが夫入道池であるのは間違いないんですが、諸元を示すものは見当たりません。そこでダム便覧を見ると、夫入道池は1900年に着工し、1919年に竣工した高さ=15.0m、長さ=67.0mのアースダムとあります(参考)。しかし、池名の由来は記されていません。ネットを検索しても由来についてはわからずじまい。うーん、気になります。

次回、岡山県に行った際に近所の人にでも聞こうかしらん。
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昭和末期に改修された水越池

2024-03-23 06:52:09 | 岡山(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は岡山県久米郡久米南町北庄(くめなんちょう きたしょう)を流れる旭川水系誕生寺川に築造された水越池を訪れます。アクセスは前回の記事で書いた誕生寺に突き当たったら左へ曲がり、そのまま県道376号を進んでいくと到着します。

到着しました。県道から見るとこんな景色。

近くには「水越池改築記念碑」があり、

その裏側には改築の経緯が簡単に記されています。

転記すると、以下の通り。
「此溜池は大正末期から昭和の始め、誕生寺耕地整理組合二区として増改築されたが、堤塘破止石垣の老朽と一部漏水もあり、昭和五十九年度小規模老朽溜池工事として県と町の助成を仰ぎ、工費壱阡五百余円をもって無事完工されたものである。
   昭和六十年三月吉日  水越池受益者一同」

とりあえず、いわゆるダム上に向かいます。これがダム上。

その、ほぼ中央から池を見るとこんな感じ。

一方、下流側の景色。棚田があるのが見えますね。先ほどの石碑から推察するに、水越池はこうした棚田のために築造されたものであるのがわかります。

一応、ここが右岸に相当する場所ですが、そこには謎の石碑が…。これは水神様かな?

その背後には洪水吐があり、池から溢れた水は、


この水路を通って下流へ向かいます。水路の左側の堤はダム上から繋がっていて、それが水路の堤防のような役割を果たしています。

その堤の端から池を眺めるとこんな感じ。

ついでに左岸側の下付近からはこんな感じに見えます。


水越池はダム便覧に登録されています。その諸元を見ると、上に見た石碑にあるように大正時代に築造されたものであるのは確かで、高さ=16.0m、長さ=79.0mのアースダムだそうです(参考)。それにしても、水越の由来はなんでしょうね。ここの地名でしょうか。
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