ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

エレクトラ

2005-03-17 06:29:06 | 音楽あれこれ
上野へ《エレクトラ》を観に行く。ワシはオペラについてはズブの素人なので興味津々で出掛けた。

それにしても最近の演出は大胆である。冒頭でアガメムノンの亡骸が全裸で登場するのだが、一糸まとわぬ姿なのだ。そう、性器も丸出し。これって公然わいせつ罪に当たらないのかねえ。芸術だから許されるのか? いやー、そうじゃないだろう。

おおまかなストーリーは次の通り。ミケーネの女王クリテムネストラは愛人のエギストと謀り、夫であるアガメムノン王を殺害する。娘エレクトラはその事実を知り、母と愛人の殺害を目論む。そして妹のクリソテミスにも殺害に協力するように持ちかけるが、断られてしまう。

そんななかで弟のオレストが死んだとの知らせを受け、嘆き悲しむエレクトラ。しかし暗殺は遂げねばならないと心に誓う。やがて見知らぬ男がオレストの死を伝えるためにやってくる。エレクトラはその男がオレストであることに気づかない。そう、彼は死んではいなかったのだ。

しばらくするとエレクトラはその男がオレストであることに気づき、抱擁する。そしてオレストと従者が母と愛人を殺害する。彼女は歓喜の踊りをしながら最高潮を迎えた瞬間に息絶える。

ま、そんなとこ。

しかし、『サロメ』などもそうだが、毛唐の作るドラマというのは何と血なまぐさいストーリーなんだろうね。殺すとか憎悪するとか、嫉妬するなど、もう狂気の世界としか思えない。こうしたストーリーは、まず日本では作られないよな。戦国時代の話とかはあるにせよ、ここまで生々しく展開しない。どぎつい物語を見せられると、「はぁ、人間の怨恨とか醜悪な精神というのは実在するのかもしれんな」と思ってしまう。そう思いたくないが、たぶんあるんだろうな。こえー、こえー。

歌手陣で光っていたのは、アグネス・バルツァ(クリテムネストラ)とクリスティン・ゴーキー(クリソテミス)。バルツァは演技力が、そしてゴーキーは歌唱力が素晴らしかった。一方、デボラ・ポラスキ(エレクトラ)は音程が上がりきれてないところがいくつもあり、ちと残念。

専門的なことはわからないが、ロバート・カーセンの演出はどうなのだろう。これが流行のスタイルなのか? シンプルな舞台で暗めのステージ。まあシックな感じではある。しかし、歌手にスポットライトが当てられてないので、会話のやり取りなどの場面ではどこで誰が歌っているのかが判りにくい感はあった。

そのほか、女中たちと思われる15人ほどのメンバーが何度も登場し、その度に「集団演技」のような踊りを展開。アングラ的というか現代舞踊なのか知らないけれど、本当に必要なのかと思うところもしばしば。いや、もしかすると単に演技が下手なだけだったのかもしれないので、なんとも言えないが(苦笑)

今回の演目が後期ロマン派の作品であることは、小澤征爾にとって幸いしただろう。というのも、毒々しいストーリーとドロドロした音楽ゆえに、小澤お得意の「出しゃばり」な部分が目立たなかったからだ。舞台作品というのはあくまで演技者がメインでなければならない。ところが小澤の場合、なぜかいつも自分が主役となりたがる傾向がある。

一昨年のモーツァルト《ドン・ジョヴァンニ》の公演はまさにそうだった。舞台作品では歌い手を盛り上げるのがオケの仕事なのに、オケの音量は強く、どんどん前に出てくる。これではメインとなる歌い手たちの存在は薄くなるばかり。この時の演目はモーツァルトなので、歌い手はオケに負けじと「がなる」わけにもいかない。だから余計に小澤が主役になったように見えたのだ。

幸い、《エレクトラ》は歌手が存分に叫んでも構わない作品だったからよかった。ゴーキーの音量もオケに負けないほどだったし。そういう作品ではあっても、やはり小澤はもっと歌い手を引き立てるような演奏をしなければイカンと思うけどね。舞台作品の指揮者とオケは、あくまで黒子に徹する必要がある。少なくとも名だたる巨匠指揮者たちは若い頃からそうした訓練を受けてきている。あのカラヤンだって若い頃は歌劇場指揮者として「修行」したのだ。

押すところは押す、引くところは引く。この絶妙なバランスを会得してこそ舞台作品の成功に繋がるのである。でも、小澤はまだまだ。まずは主役という意識を捨てなくちゃ…。
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