ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

山の向こうのための…入川補助調整池

2022-05-31 12:08:36 | 福島(ダム/堰堤)
月末は原稿の締め切りがあってブログにまで手が回りませんでした。すみません。

…というわけで、どーも、ワシです。今回は福島県福島市立子山板敷(たつごやまいたしき)にある阿武隈川水系の入川(いりがわ)補助調整池を訪れます。アクセスは県道306号(大沢広表線:おおさわひろおもてせん)から入ったところにあります。

これが左岸から見た「ご尊顔」です。



この看板に書かれてあるように、この調整池は入川にあるので入川補助調整池と呼ぶのですが、実際には調整池の西側にある阿武隈川に面したところに建てられている蓬莱発電所のための補助調整池なんですね。蓬莱発電所は阿武隈川のもっと上流にある蓬莱ダムから主に取水して発電しているのですが、今回の調整池はまさに補助的な役割を果たしているようです。蓬莱発電所及び蓬莱ダムの運用開始が1938年12月なので、この補助調整池ダムも同時期に築造されたものとみて良いと思います。(参考



調整池の上流側からダムを見ると、こんな感じ。写真の右端に見切れているのが取水設備で、



この取水設備の下にある取水口から導水された水が山の向こうにある蓬莱発電所へ送られる仕組みらしい。





調整池の左岸の上流へ少し行ったところには大きな「殉職碑」があります。



これは昭和14年(1939年)3月に建立されたとあり、



なんと56人もの作業員がダムの建設中に命を落としたようです。合掌。



当該調整池は東北電力が管理しているためかダム敷地内に立ち入ることはできません。なのでお伝えできるのはこれだけ。ちょいと消化不良です。
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またもや…信夫ダム

2022-05-28 06:53:49 | 福島(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。えー、今回は福島県福島市渡利片倉(わたりかたくら)にある阿武隈川水系の信夫(しのぶ)ダムに向かいます。アクセスは国道4号の「黒岩」交差点を南向台方向へ曲がり、阿武隈川を渡った所の信号を右折。そのまま阿武隈川に沿って走ります。そして福島交通のバス停があるところを斜め右の細い道をしばらく走ると到着…。

…のはずなんですが、昨日記事にした大笹生ダムと同様に「通さねーよ!」と断られてしまいました。



なんでぇ、なんでぇ、行けんのかーい! さすがに二箇所連続で拒否されると凹みますねえ。

まあ、それはさておき、信夫ダムの名称について考えてみました。なぜこの名称になったのか。調べてみましたが、この付近には「信夫」という地名はありません。当該ダムのすぐ下流に、やはり信夫という名称のついた東北電力の「信夫発電所」があります。当該ダムはそこで発電するための取水ダムなので両者はセットと考えられます。それにしてもなぜ信夫という名称になったのか…。

改めて地図を見ると、当該ダムから直線距離にして北北西へ約6.7kmのところ、つまり福島市役所のすぐ北に標高275mの「信夫山」というのがあるのを見つけました。山とは言いながら実際には周囲を見渡すことができる丘で、平安時代には「信夫山」は歌枕として詠まれ、また鎌倉時代からは金鉱の採掘が行なわれ、さらに信仰の対象でもあったそうな。

そんな由緒ある信夫山だから当該ダムもその発電所にも信夫という名称が付けられたのかもしれません。もちろん、それはあくまでワシの想像ですが。

ささ、次のダムを目指すぞ〜!
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いつになったら…大笹生ダム

2022-05-27 06:53:06 | 福島(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は福島県福島市大笹生笹ノ口(おおざそうささのくち)にある阿武隈川水系の大笹生ダムを目指します。アクセスは東北中央自動車道の福島大笹生インターチェンジを下りると県道5号に出るのでそれを左折し、次に県道312号を右折します。そして広域農道を米沢方面へ。

しばらく進むと、「←大笹生ダム」の看板が道路の右側にあるので、そこを斜めに左へ入って行くと到着…。



…のはずなんですが、なんと「関係者以外の立ち入りを禁じます」とな! ぐはっ。



どうやらダムの水管理システムの更新をしているらしいんですが、





その工事が終わってもダムへは行けないようです。というのも、ストリートビューを見る限り2014年以降現在まで「関係者以外の立ち入りを禁じます」の看板はそのままなので、どうやっても一般の人はその道を進むことができないようなんです。

というわけで、今回のチャレンジはこれにて終了! がっかりちゃん。
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ハートと自然!…半田沼ダム

2022-05-26 17:52:31 | 福島(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は福島県伊達郡桑折町南半田(だてぐんこおりまちみなみはんだ)にある阿武隈川水系の半田沼ダムを訪れます。同ダムは半田沼自然公園の中にあるので、アクセスはリンク先の地図を参考にしてください。

さて、例によって地名が気になったので調べてみました。

【郡山そして桑折の由来】(参考)(参考)   
奈良時代の701年に「大宝律令」が制定され、地方行政の仕組みが国郡里制となります(その後715年には「国郡郷制」に変更)。そして国には国府(こくふ)、郡には郡衙(ぐんが)と呼ばれる役所が置かれ、国府には中央の上級役人が国司として派遣され、郡衙では地元の有力豪族が実権を握っていました。この地域、すなわち現在の福島県と宮城県、岩手県、青森県が「陸奥国(むつのくに)」と呼ばれ、陸奥国府は現在の宮城県多賀城市に設置。また、現在の郡山市、田村市、田村郡、安達郡が「安積郡(あさかぐん)」という区分だったようです。その安積郡衙(今でいう県庁みたいな役所)が置かれたあたり(現在の郡山市清水台)の地名が郡山(こおりやま)で、それが現在の郡山の起こりとなったようです。

桑折(こおり)の名称もそれに由来するようですが、地理的には安積郡衙とはだいぶ離れています。それに同じ読み方でありながら「郡」がなぜ「桑折」に変わったのか、どうも説得力に欠けます。で、別の説によると現在の桑折は昔は桑島(くわしま)と呼ばれていたが、阿武隈川の氾濫を避けるために諏訪明神の神託により桑折(くわおり)に改称したというもの。そして読み方も「くわおり」が音韻変化して「こおり」になったそうな。うーん、まだこちらの説のほうが説得力がある気がしますね。

半田沼に戻りましょう。まずはその景色をご覧ください。



でも、いきなりこんな景色は見えません。先にも書いたように半田沼は半田山自然公園内にあるので、



クルマは「桑折町半田山管理センター」の駐車場に停めて、そこから歩いて行きます。







管理センター前の駐車場。斜面に「半田山自然公園」と刈り込みたかったのでしょうが、実際には「半田山自……」とフェードアウトしています。おいおい、最後まで頑張れって(笑)



さて、おめあての半田沼に向かいます。通路にはこんな看板が!文言にセンスを感じませんか? まるで糸井重里みたいなキャッチコピー。





こんな道を進んでいきます。新緑が眩しい。



しばらく歩いて行くと右岸に到着します。これがダム上。



右岸側には洪水吐があります。越流式ですね。





そして、増水すると水はこの水路を通ってあちらへ流れてゆきます。



では、ダム上を歩きます。その中央から半田沼を見ると、こんな感じ。



半田沼の水は農業用水として使われているようです。



対岸(左岸)に来ました。といっても、あっという間の距離ですけどね。



下流側には「恵潤民」と題された石碑があります。これは半田新沼湖面低下工事記念碑(昭和29年建立)で、そこに記されている内容を要約するとこんなことが書いてあります。

半田村を始め伊達崎村、坂村桑折町等の水田は年々旱害を被り水不足のため米の減収は甚だしかった。殊に太平洋戦争の開始以来米穀の需要は急激に増加しその増産を期待されながらも水不足のため増収も増反も行ない得ない状態であった。ここにおいて半田新沼湖面低下による水源確保のことが論議され、昭和19年4月当時の村長奥山実之助氏等が率先奔走して湖面低下の調査方(ママ)を県に申請し、同21年漸くその調査に着手した結果県営事業として採択が下り、同22年2月より工事に着手。時恰(あたか)も終戦後の資材不足のためその調達を始め電力事情等も極めて悪く事業担当者の労苦は言語に絶するものがあった。しかし村長寺島智宏氏の陣頭指揮による奮闘と受益者の熱意と工事担当者の撓(たわ)まざる努力はこれらの悪条件見事に克服し昭和25年(1950年)11月三年有余の歳月を経て完成を見た。



…ということは、半田沼は昭和19年以前にはすでに存在していたことになります。そして湖面が低下してリニューアル工事を行なったのでその名称は「半田新沼」と刻まれているのかもしれませんね。一応案内板の名称は「半田沼」なのでそれに従います。

半田沼のことを色々調べていたら、興味深い記事をみつけました。標高863mある半田山山頂付近から半田沼を見るとハート形になっているというんです。ただし、これが見られるのは農閑期である11月から翌年の5月までだそうな。上にも書いたように半田沼の水は農業用水として使用されるので農閑期の水を使用しない時期だと半田沼の水位が上がり、こんな風に見えるんだとか。へぇ〜、ハートレイク。偶然にできたとはいえオシャレやん!(参考
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大洪水吐と六郎太…摺上川ダム

2022-05-25 06:57:09 | 福島(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は福島県福島市飯坂町茂庭(いいざかまちもにわ)にある阿武隈川水系の摺上川(すりかみがわ)ダムを訪れます。アクセスは国道399号を走っていくと目的地の左岸に到着します。

摺上川の下流から国道を上っていくと…おおっ、あれですね。



国道をそのまま進んでいくと摺上川ダム管理所の建物が見えてきます。





管理所からダム方向へ目をやると、巨大な洪水吐が否応なしに眼前に広がります。越流式ですが、低水位時にもこのスリットのようなところから排水されます。



そしてダム横のほうへ目を向けると、こんな感じ。ここの洪水吐がいかに大きいかがわかりますね。



洪水吐とダムとの位置関係。



さらにダム横に近づくと、こんなブロンズ像が。「六郎太少年像」と記されています。作者の笹戸千津子(ささどちづこ:1948- )は山口県出身の彫刻家で、東京造形大学美術学科の第一回卒業生。





六郎太少年像は1951年1月から翌年3月まで放送されたNHKのラジオドラマ「さくらんぼ大将」の主人公である六郎太をモチーフとしたもの。その舞台がここ茂庭地区だったことに由来するそうな(参考)。



そこから洪水吐を見ると、こんな感じ。奥行きがあるのがわかりますね。(しつこい?)



同じ場所から今度は下流側を眺めます。写真から分かるように、摺上川ダムの洪水吐の水路に架かる橋は2つあります。これは珍しいかもしれません。



摺上川ダムは平成17年度に全日本建設技術協会による全建賞、そしてダム工学会による技術賞をそれぞれ受賞しています。





では、ダム上を歩いてみることにしましょう。対岸が見えないほど長い!



ダム上、中央から見た貯水湖の様子。写真右端に見えるのは取水塔ですが、



その連絡通路が吊橋になっているのは初めて見ました。



湖面を見ると水の流れがあるのがわかりますね。



一方、下流側の景色は、こんな感じ。良き眺めです!



左岸、下流側に見える謎の物体…。



ズームしてみます。通信用のアンテナでしょうか。



対岸(右岸)に来ました。振り返ると…うん、やっぱり長い!



近くには「水域通航規制」なる看板が。これを見るとダム湖名は「茂庭っ湖」だそうです。



その付近から見たダム上の様子。



右岸からはダム下へ降りるための階段があります。もちろん降りませんでしたけどね。



右岸、下流側から見たダムの様子。



左岸に戻ってきました。先ほど書いた洪水吐の水路に架かる2つの橋の、今度は下流側から見た様子です。



その橋を渡って国道側に来ると「摺上川ダム」と刻まれた石碑があり、裏側には平成17年(2005年)9月竣工と記されています。





そこから管理所を見ると「摺上川ダム インフォメーションセンター」の文字が。なるほど、管理所の建物に併設されているんですね。



ダム築造の経緯などはインフォメーションセンターに行けば分かったのかもしれません。でも、訪れたのは早朝の開館前なのでもちろん開いていません。ただし、一番上のリンク先には摺上川ダムに関しての様々な情報が載っているので参考にされると良いでしょう。
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花かつみに想いを馳せる…金沢調整池

2022-05-24 06:59:13 | 福島(ダム/堰堤)
いや、どーも、ワシです。今回は福島県郡山市田村町金沢(たむらまちかねざわ)にある阿武隈川水系の金沢調整池を訪れます。アクセスは国道49号沿いにある郡山市立守山小学校近くのT字路を入り、しばらく行くと郡山東部広域農道の交差点があるので高倉方向へ。そのまま進み、道路沿いの「金沢」と記されたミラーのあるT字路を右折して道なりに行くと目的地の右岸に到着します。

まずはダム下から見た「ご尊顔」をご覧ください。こうして見ると風貌は調整池というより治水ダムですね。



右岸のダム横に向かいます。坂を登って最初に目にするのが郡山市東部土地改良区の建物。





国営郡山東部竣工記念碑の石碑。石碑には東部地区総合農地開発事業の経緯が記されています。その内容を要約すると次の通り。

1958年と1969年に発生した大旱魃をきっかけに三春ダムの築造計画が進められるなか、東北自動車道も開通したことにより食料供給地帯として地理的有利性が高まり、早期の開発が期待された。そこで農業生産性の向上と安定した農業経営実現のため国営郡山東部地区総合農地開発事業が1959年に着手。これにより金沢調整池および高柴調整池の築造をはじめ、農地造成や区画整理、さらには用水路の整備などが行なわれた。

石碑には平成14年(2002年)2月とあるので同開発事業はその頃に完了したと思われます。



そして近くには金沢調整池の概要を説明した案内板。これによると同調整池は南部地区(高倉、谷田川、下枝)の農業用水を確保するため三春ダムから取水し貯留する目的で築造されたものだそうです。なるほど、だからダムというより調整池という名称なんですね。



とはいっても、ご覧の通り、見た目は完全にダム。右岸の下流側から見ると、こんな感じ。



また貯水側から見ても、やはりダムにしか見えません。



いわゆるダム上の親柱に相当する場所には2001年3月竣工とあり、金沢調整池はこの頃に完成したと思われます。その上には「花かつみ」と記された図版。「花かつみ」は学名をヒメシャガと言い、古くは905年に編纂された『古今和歌集』の<恋四・六七七>によみ人知らずの作品として「みちのくのあさかのぬまのはなかつみかつみるひとにこひやわたらむ」として登場しています。

さらに松尾芭蕉(1644-1694)は1689年に弟子の河合曾良(かわいそら:1649-1710)とともに安積山(あさかやま)ー現在の郡山盆地と猪苗代湖の間に位置する額取山(ひたいとりやま:標高1,009m)ーを訪れ、幻の花とされた「花かつみ」を探し歩いたことが『奥の細道』(1702年刊)に記されています。その「花かつみ」は1974年に郡山市の花に制定され、この親柱に描かれているというわけですね。(参考



さて、これがダム上になります。歩いてみましょう。



ダム上、中央から見た調整池の様子。



ダムの真下は、こんな感じ。



そして下流側の遠景。



ダム上の欄干には「カッコウ」と「山桜」という二種類の図版が貼られています。「カッコウ」は郡山市の鳥で、「山桜」は郡山市の木なのだそうです。(参考





対岸(左岸)に来ました。振り返ると、こんな感じ。



左岸の調整池側から見た様子。



一方、下流側から見ると、こんな感じです。うん、やはり見た目はダムですね。



「花かつみ」については全く知らなかったので、良い勉強になりました。
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訪問者を見張る…三春ダム

2022-05-23 06:53:41 | 福島(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は福島県田村郡三春町西方(みはるまちにしかた)にある阿武隈川水系の三春(みはる)ダムを訪れます。アクセスは県道57号沿いにある「さくら湖(三春ダム)」の看板のあるところを入っていくとダムの右岸に、またやはり県道57号から「三春ダム左岸」方面へ行くと文字通りダムの左岸にそれぞれ到着します。

上のリンク先に書かれていますが、このダムの予備調査が開始されたのは1968年で、ダム本体工事に着手したのは1988年11月30日。1994年5月25日にはダム湖名が「さくら湖」に決定。1997年7月27日に「資料館」がオープン。そして予備調査から30年が経過した1998年3月8日に三春ダムは竣工したそうな。1972年の時点ではここが大滝根川(おおたきねがわ)を堰き止めて築造する計画だったためダム名を「大滝根ダム」とする案もあったようですが、その案はいつの間にか立ち消えになり、結果的にその名称は三春ダムになっています。三春ダムと命名された理由は、おそらくこの場所が三春町だからということなのでしょう。

【三春の由来】(参考)(参考

さて、三春という名称は珍しいのでその由来について調べてみました。どうやらこの地では梅桃桜の3つの花が同時に咲いて春が来るというところから三春になったという説と、中世に見張という役所?があって、それが「みはる」に転じたという説もあるようです。でも、なぜ「みはる」が「三春」という表記になったのかは不明。

まあ、そんなこんなで三春ダムに到着です。左岸から見た「ご尊顔」がこちら。ちょっとオシャレですね。



左岸の貯水側から見ると、こんな感じ。



これがダム上です。行ってみましょう。



「さくら湖」の左岸側には立派な取水塔があります。



ダム上、中央から見た「さくら湖」の様子。



ダムの真下は、こんな感じ。



そして、下流側の遠景。



対岸(右岸)に来ました。振り返ると、こんな感じ。



こちらの空き地には日時計があります。センスが感じられますね。



右岸にある、この建物は「三春ダム管理所」。資料館も兼ねているようです。





その付近からダムを見ると、こんな感じ。



これは何の石碑なんでしょうか…。



ぎょ、魚族増殖之碑とな! どこからともなく魚たちが続々と現われそう…。ひぃ。



訪れたのは夕方近くで、敷地内に入り、ダム上をウロウロしていたら突然アナウンスが…。もうすぐ閉館するので速やかに外に出ろと。周囲を見渡しても見学者はワシだけなので、きっとワシをターゲットにしたダイレクト・メッセージだったんだと思います。ええ、急ぎ足でクルマを駐車した左岸に戻りましたとも。
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ユニークな洪水吐!…吉ヶ平ダム

2022-05-22 07:00:18 | 福島(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。えー、今回は福島県会津若松市湊町原(みなとまちはら)にある阿賀野川水系の吉ヶ平(よしがだいら)ダムを訪れます。アクセスは県道374号沿いにある「松の目林道」の看板のあるところを入っていくと到着します。

到着して、まず目にするのがこの看板。



そこからダム上を見ると、こんな感じ。



ダム上、中央から見た貯水側の景色。



下流側は、こんな感じです。



その先には「吉ヶ平ダム」と刻まれた記念塔があります。それによると、当該ダムは会津若松市湊町及び河東村の水田を灌漑するために福島県が築造したもので、1964年9月に着工し、1969年3月に竣工したと記されています。なお、ここに記載されている「河東村(かわひがしむら)」は1957年4月1日から1978年3月末日まで福島県河沼郡(かわぬまぐん)に属していた村で、翌4月1日から町村制施行により河東町となり、さらに2005年11月1日からは会津若松市に編入されています。またダム名は左岸の道の先にある地名から取られたもののようです。





その裏側には諸元が刻まれていますが、よく見えませんね。拓本でもしとけばよかった。ただ、アースダムで、高さ22m、長さ190mというのは読み取れますが、この数値がダム便覧に記載されているものとは微妙に異なるのは何故なんでしょうね(参考)。



さらに左岸へ向かうと洪水吐(余水吐)があるんですが、これがまたユニークな形状なんです。間口の広い越流式の扇状になっていて、







増水すると、溢れ出た水はここを通って、あちらへ流れてゆきます。



左岸から右岸を見ると、こんな感じ。向こうに建物が見えます。一番上の地図によれば管理棟のようです。行ってみましょう。



管理棟近くに来ました。なんだか物々しい雰囲気。



それに近づこうとしたのですが、



入口のところには「不法に立入った場合は処罰の対象となります」と警告されていたのでそれ以上近づくのを断念。



扇状の洪水吐はたまに見かけますが、こんな形をよく思いついたなといつも感心します。
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どこかと似ているゾ…東山ダム

2022-05-21 06:50:01 | 福島(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は福島県会津若松市東山町湯本(ひがしやままちゆもと)にある阿賀野川水系の東山ダムを訪れます。アクセスは県道325号を進んで行くと到着するので迷うことはありません。

まずは下流側から見た「ご尊顔」をご覧ください。この景色は県道から直接見ることはできません。県道から少し川のほうへ行くと、こんな見事な景色が現われます。



ちなみに下流には東山温泉街があるんですが、これがまた良い雰囲気を醸し出しています。あれ?待てよ、ダムと温泉街の関係。どこかで見たような…。そうだ!以前訪れた山形県鶴岡市にある温海川ダムもそんな感じでした。ここの下流にもやはり「あつみ温泉」があったし。さらに「ご尊顔」も何となく似てますね。

さて、県道のトンネルを抜けたところに東山ダムへの入口があり、すぐ近くには水利使用標識があります。上水道のためのダムなんですね。



その入口を進むと「東山ダム管理所」があります。写真は奥から撮ったもので、向こうに県道が走っています。





管理所とダム横の間には「東山ダム」と刻まれた石碑があります。1982年10月竣工のようですね。



その近くからダムを見ると、こんな感じ。



近くの壁面には東山ダムの概要を示す案内板。



右岸、下流側から見たダムの様子。



これがダム上です。歩いてみましょう。



ダム上、中央から見た貯水側の景色です。すこぶる良い眺め!



ダムの真下の様子。おっ、「東山ダム」とアピールしています。





そして下流側の遠景。



対岸(左岸)に来ました。振り返ると、こんな感じ。



左岸、下流側から見たダムの様子。



東山ダムは決して派手なデザインではありませんが、なんとなく落ち着く場所です。ああ、そういえば、会津若松市といえばその昔あるレコード会社で一緒に仕事をしたOさんの郷里だったはず。彼はだいぶ前にレコード会社を退職し、今は外資系の自動車ディーラーに勤めているそうな。もう10年以上も会ってないなぁ。元気なんだろうか。
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要表記統一!…大深澤調整池

2022-05-20 06:53:20 | 福島(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は福島県喜多方市塩川町中屋沢(しおかわまちなかやざわ)にある阿賀野川水系の大深沢ダムを訪れます。アクセスは県道69号沿いにある道路標示「深沢(ふかさわ)」のところから入るのが最もわかりやすいと思います(県道337号からも行けますが、その入口には目立つものがありません)。

県道69号からアクセスすると、大深沢ダムの右岸に辿り着きます。なかなかのアースダム?ですね。



右岸、ダム横に来ました。そこには案内図が。あれれ、フィルダムなんですね。こりゃ失礼。



右岸のところにある親柱には「大深澤調整池」のプレートが嵌め込まれています。



1986年12月竣功のようですね。



ダム上は後回しにして、先に右岸の奥に行ってみます。そこには「大深澤調整池管理事務所」があります。





建物の傍には水利使用標識。灌漑用のダムのようです。



管理事務所からダムを見ると、こんな感じ。



その奥には「竣工記念碑」と刻まれた石碑と、



慰霊碑があります。その裏を見ると昭和59年にいわき市の方が調整池築造中に亡くなられたと記されています。数々の慰霊碑を見てきましたが、事故の様子まで記されているのを見たのはこれが初めてでした。合掌。





さて、右岸のダム横に戻り、ダム上を歩いてみることにします。右岸側には洪水吐があり、その水路に架かる橋の先がダム上となります。



その橋から見た洪水吐の様子。越流式になっていて、水位が低い時は写真下に見える穴から排水されるようになっています。向こうに見えるのが管理事務所。



そして、増水すると、水はこの水路を通ってあちらへ流れてゆきます。写真右上に見えるガードレールのところが県道69号から入ってきた道です。



橋を渡ったところには調整池と周辺地域図の案内板。



近くには「大深沢調整池」と刻まれた石碑。



その裏側には概要が記されています。どうやら調整池自体が完成したのは1991年3月のようですね。



ダム上、中央から見た調整池の様子。



一方、下流側の景色は、こんな感じ。



対岸(左岸)に来ました。振り返ると、こんな感じです。



そこに嵌め込まれたプレートには「おおふかざわ調整池」とあります。ダム便覧には「おおふかさわ」と表記されていますが、このプレートに準ずるならばそれが間違いであるのは明白。たぶん調整池の下流にある深沢(ふかさわ)古墳と読み方が同じだと判断したのかもしれません。



左岸、調整池側から見た様子。



文字を扱う仕事をしていると表記には特に敏感になります。確かにここはダムの条件を満たしているのでダム便覧に書かれているように「大深沢ダム」で間違いではないでしょう。しかし、管理事務所のプレートを見ると「大深澤調整池」であり、もっと言えば「沢」ではなく「澤」、さらに読み方も「おおふかさわ」でなく「おおふかざわ」と表記されているので関係者の方々にはきちんと表記の統一をして欲しいものだと思います。
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案内板が欲しいな…関柴ダム

2022-05-19 07:01:14 | 福島(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は福島県喜多方市関柴町下柴(せきしばまちしもしば)にある阿賀野川水系の関柴(せきしば)ダムを訪れます。ダム名は道を挟んだダムの右岸側の地名に由来するもので、ダムの場所は先に書いたように下柴となります。アクセスは国道459号沿いにある「喜多方市消防団第一支団第四分団」の交差点を入り、しばらく行くと道は二又に分かれるので右方面へ。そして「厩山」「庚申塔」と刻まれた石碑のあるところを左へ曲がって行くと到着します。

まずはダムの下流側から見た「ご尊顔」をご覧ください。まあまあの規模のダムですね。



下流のところには取水施設があり、



ユニークな形をした円形分水工?を介して分流するようです。調べてみると、関柴ダムは蛯堂川を堰き止めて築造されたもので、ダムから排出された「本流の水」はそのまま蛯堂川として下流で大塩川と合流、さらに日橋川(にっぱしがわ)に合流したのち阿賀川へ流れ込みます。一方、分流した水は西へ向かい、喜多方市岩月町を流れる田付川(たづきかわ)に流れ込みます。田付川も最終的には阿賀川に合流するので分流した水同士はそこで「再会」するんですが。



ダム下へ向かう道のところには取水施設改修のための許可標識が貼られていました。そこには関柴ダムの文字が見えるので、ここが関柴ダムであるのは間違いありません。



では、いよいよダム横に向かいます。ダム横を通る道はダムよりも高いところを通っているので上から見下ろす形になるんですが、お目当てのダムは木が邪魔してよく見えません。



右岸のダム横から見た様子。ご覧の通りダム上に行くことはできません。やはり木が邪魔しています。



貯水側からダムを眺めてみましたが、ここでも木が邪魔してよく見えぬ。



もちろん、ダムの右岸側の道にも関柴ダムについての案内板などはありませんでした。データがわからないと、やっぱり物足りないねぇ。好奇心が満たされませんよ。
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大きめの溜池?…冷田沢堤

2022-05-18 06:52:49 | 福島(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。えー、今回は福島県喜多方市高郷町磐見(たかさとまちいわみ)にある阿賀野川水系の冷田沢堤(ひえたさわつつみ)を訪れます。冷田沢堤は会津でも最も古いダムだそうです(参考)。アクセスは県道16号沿いにある「大谷直売所」から住吉神社方面へ行くか、もしくは国道459号沿いにある「大船沢」の看板のあるところから入っていくと到着します。

到着しました。これですね。



「魚釣り禁止」という表題があるんですが、その下に書かれている内容とズレがあるんですよね。その内容を禁止したいのなら表題は「禁止事項」という風にすればいいのにと思ったりします。ただ、この看板の書き方だと魚釣りのために冷田沢堤に立ち入るのは禁止だけどダム上を歩くのは構わないと判断できます。



というわけで、ダム上を歩いてみましょう。



ダム上、中央から見た貯水側の景色です。



同、下流側は、こんな感じ。



右岸寄りには「神」と刻まれた何か。昭和52年(1977年)7月吉日建立と読めます。



対岸(右岸)に来ました。振り返ると、こんな感じ。



右岸側には洪水吐があります。でも、排水口といった感じですね。増水すると、水はここから溢れ出て、



あちらへ流れてゆくのでしょう。



「餌入れ」? 古い冷蔵庫に餌を入れているようですが、たぶんこれはあの看板に書かれていた放流した「幼魚」のための餌を入れておくためのものと思われます。



ここにはどこにも冷田沢堤を示す看板はありません。グーグル先生の地図には冷田沢堤と記載されていて、ダム便覧にも載っています。なので、おそらくここは冷田沢堤なのでしょうね。なお、名称の由来は不明です。地名かな?
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管理所からの景色がオススメ!…高山ダム

2022-05-17 06:58:17 | 京都(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は京都府相楽郡南山城村田山(そうらくぐんみなみやましろむらたやま)にある淀川水系の高山ダムを訪れます。アクセスは県道82号沿いにあるので迷うことはありません。

まずは右岸から見た「ご尊顔」をご覧ください。なかなか年期の入ったダムですね。



県道を来ると当該ダムの左岸に到着するのですが、そこには高山ダムの案内板があります。これによると、ダム建設は1962年に基本計画が決定し、1969年3月にダムが完成したとあります。



さらにイラスト付きの説明図。親しみやすい感じがします。



このアングルはなかなか良いとは思いますが、このダムがアーチ式には見えません。



でも、こうして見ると案内板にある通り、高山ダムがアーチ式のコンクリートダムであることがわかりますね。



貯水側からだと、アーチ式かどうかはわかりにくいですね。



では、ダム上を進んでみることにしましょう。このダム上は車両通行可ですが、さほど広くないため車同士のすれ違いが難しいんです。そのため通行する際には対向車が来るか確認しないととんでもないことになります。

ダム上、中央付近に掲げられた水利使用標識。関西電力による発電用ダムなんですね。



同、中央から見た名張川の上流方向の景色。



一方、下流側の景色は、こんな感じ。



対岸(右岸)に来ました。そこからダムを見ると、こんな感じです。



右岸にも左岸側にあったのと同じ説明図があります。



高山ダムでは水質を保全する取り組みを行なっているそうな。川を堰き止めると、どうしても植物性プランクトンが増殖しやすくなり、富栄養化現象が発生しがち。そこで川の中に連続的に気泡を発生させ、水を垂直方向に流すことで川面に集まっている植物性プランクトンを川底に送ることでその増殖を抑えているのだそう。さらにダムの上流側に分画フェンスを設置することで植物性プランクトンが下流へ行かぬようにする対策も取られているそうな。ほ〜。



右岸には慰霊碑があり、ダム建設の際に亡くなられた6人の名が刻まれています。合掌。





そこからダムを見ると、こんな感じ。



右岸の高台には「高山ダム管理所」があります。





そこからダムを見下ろすと、こんな感じ。綺麗なアーチを描いているのがわかりますね。



先ほども書いたようにダム上は狭いので対向車の有無を確認する必要があります。でも、見通しがあまり良くないのでそこを通過するには正直勇気がいるかもしれません。しかしながら県道に戻る必要がなければ右岸から国道163号へ抜ける道が用意されているので何も恐怖に怯えながらダム上の道を戻らなくても良いのでご安心を!
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絶景ポイントあり!…上津ダム

2022-05-16 06:51:16 | 奈良(ダム/堰堤)
いや〜、御柱祭(おんばしらさい)は冗談抜きで疲れます。一昨日はその初日だったんですが、関係者の集合時間は、なんと早朝5時!通常のワシの生活パターンだとその時刻はそろそろ寝る時間に突入する頃。といって、徹夜のまま行くわけにはいかないのでこの時だけは早めに就寝。でも、急に眠れるわけがない。結局、なんとか1時間ほど寝てから出かけました。

でも、思っていた以上にキツかった。まず早い時間に集合したからといって、事がどんどん進むことはないんです。その日は解散が夜の7時だったんですが、おそらくその半分以上の時間が待機。ひたすら待つんです。行動派のワシとしては待つのが1番の苦手。でも待たなければならない。これは拷問みたいなもの。

そして、慣れない地下足袋で歩き回ったこと。地下足袋なんて初めて履いたので、もう足が疲労困憊。ふくらはぎはパンパンになるし、待機時間にマッサージしたところで疲れなんて飛びゃしない。これはもう地獄。御柱祭は今日で最終日を迎えますが、たぶん、今後その役員を引き受けることはないと思います。

そんなこんなで、どーも、ワシです。えー、今回は奈良県山辺郡山添村西波多(やまべぐんやまぞえむらにしはた)にある淀川水系の上津(かみづ)ダムを訪れます。アクセスは名阪国道の山添インターを出て県道80号を奈良方面へ行き、カラオケ居酒屋「乾杯」のところを斜め左に入って行くと「←上津ダム」の看板があるのでそれに従って進んで行くと到着します。

まずは上津ダムの全貌をご覧ください。これは右岸のトイレの近くから高台に上る階段があり、頑張って上るとこんな「ご褒美」が待っています。



さて、順を追って説明していきます。まず先ほどの道を登ってくるとダムの右岸に来るのですが、まず目にするのが「上津ダム管理所」の建物。





近くには「上津ダム」と刻まれた石碑。その裏にはダム建設の簡単な経緯が記されています。それによると当該ダムの西側にある神野山(標高618m)はその昔から「神の山」と呼ばれていましたが、この地域は旱魃になることが多く、その度に大勢の人々が夜中に松明を持って神野山に登り、雨乞いをしていたそうな。上津ダムが完成してからは雨乞いをすることもなくなったようですね。





ダム横近くには上津ダムの周辺案内図があります。これをみるとわかりますが、「上津」は「かみづ」と読み、ダム便覧では「かみつ」となっていて間違いであることがわかりますね。ちなみに上津はダムの下流の地名です。



右岸、下流側からダムを見ると、こんな感じ。



では、ダム上を歩いてみることにします。



ダム本体の、いわゆる親柱のところにはこんな図柄が。何の花でしょうね。山添村の村の花がヤマツツジなので、それかもしれません。



ダム上、中央から見た貯水側の景色です。



一方、ダムの真下は、こんな感じ。



そして、下流側の遠景。



対岸(左岸)に来ました。振り返ると、こんな感じ。



左岸、下流側から見たダムの様子。



左岸、貯水側から見たダムの様子。



左岸側には、ちょっとした広い場所があり、



そこには「上津大片刈遺跡」の案内図があります。1994年から95年にかけて行なわれた発掘調査により、山添村には数々の縄文時代の遺跡が発見されたそうな。上津大片刈遺跡はそのひとつで、同村には他にこの近くに上津堂前尻遺跡、そして同村中峰山(ちゅうむざん)には大川遺跡、さらに前回記事にした布目ダムの近くには「桐山和田遺跡」と「北野ウチカタビロ遺跡」があるようです。







最後に、ダムの下へ行って「ご尊顔」を撮ってみました。



前回の布目ダムといい、今回の上津ダムといい、どちらも近くに遺跡があるという意味では似ています。ただ、布目ダムではちょっと怖い感じがしたのに対し、上津ダムにはそういう感じはなく、むしろ古代のロマンを感じたんですよね。展望台からの景色がとにかくサイコーだったし…。
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ちょい気になるねぇ…布目ダム

2022-05-13 17:24:06 | 奈良(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は奈良県奈良市北野山町(きたのやまちょう)にある淀川水系の布目ダムを訪れます。アクセスは県道25号沿いに進めば到着します。

まずは右岸から見た「ご尊顔」をご覧ください。



順を追って見ていきます。県道25号を上流側から来ると、こんな景色が見えてきます。



左岸のダム横に来ました。そこには「布目ダム」とデカデカと表示された管理所があります。





管理所入口前には池があって、そこには「金魚仕事中」という看板が。貯水湖の水をここに入れ、金魚の様子を見て水質異常があるかどうかを判断しているのだそうです。



…なんですが、金魚が見当たりません。



たまたま近くにいた職員に「あのー、金魚が見当たらないんですけど」と聞くと、「ああ、そこにはいませんが、こちらのほうにいると思いますよ」と言うので、隣の池を見るも鯉みたいな魚はいますが、やはり金魚はいません。



「やっぱり、いませんけど?」
「あれー、(デカイやつに)食べられちゃったかな?ハハハ」
「おいおい…」

そんなお茶目な会話をした後、ダム横に向かいます。近くには布目ダムの案内板があります。洪水調節、流水の正常な機能維持、水道用水の供給を目的としたダムで、1970年からダム建設のための予備調査を開始し、1986年にダム本体工事に着手。そして1991年10月に竣工したとあります。







ダム横の広場には「建設の碑」と題されたモニュメント。その説明によると、「石が積み重なり人の形となって、ダム完成の喜びと、多くの人々の支えと幸福を表現している」とあるんですが…。





表情が怖い…。夜中に見たらびっくりしそうです。



こちらは子供向けの案内板かな?



さあて、いよいよダム上を歩きます。



ダム上、中央から見た貯水側の景色。



同、ダムの真下は、こんな感じ。



そして、下流側の遠景です。



対岸(右岸)に来ました。振り返ると、こんな感じです。ダム上が波打っているのが気になりますが…。



実は右岸側には広い公園があり、奥には何か見えます。行ってみましょう。



建物の屋上にはモダンなアートが。



屋上に登れるので行ってみると、「アート」の説明書きがありました。「水と光輪」と題するもので、2つの交差する銀輪は湖面のきらめく水の波紋と人々の交流の輪を、そして塔は天からの水の恵みをしっかり集めて貯えるダムの機能と未来への広がりをそれぞれ表現したものとあります。ほほぉ。



そこから見た景色は、こんな感じ。パノラマで撮ってみました。



…と、まあ、ここまで見ればなかなかセンスのあるダムだと思いますが、上流側に行ってみたらまた違う光景が。

なんか地蔵さんたちがひしめきあっています。その中央には供養塔の文字。





旧腰越若宮神社禊場の碑。同禊場はかつて若宮神社での祭礼や祈願を行なっていたが、布目ダム建設にあたり水没することになったためその記憶を留めるために建立したもののようです。上に見える梵字がちょいと怖い。



何かよくわかりませんが、やはり移転を記した石碑。



これも移転の看板。



上流側には布目ダムの周辺地図があり、上流側に副ダムがあると記されています。





その副ダムを横から見ると、こんな感じ。その役割は上流からの土砂がダム湖へ流れ込まないようにするためのようです。



副ダムをさらに上流側から見ると、こんな感じ。水没したダムかと思いました。



ぐるっと回って、ふと思ったことがあります。それは布目ダム建設にあたり多くの集落と神社などが水没したことです。それはまあ仕方のないことかもしれません。だから移転についてのたくさんの石碑があるのもわかります。でも、他のダムのケースをみているとそうした記念碑などはダムを建設する側が一括して責任を持って建立したりすることが多いのですが、ここではそうではなく地元の山添村が建てていますね。これをどうみるか。

なんとなく、なんとなくですよ、思ったのはダムを建設する側と水没した側との和解が完全にできていないんじゃないか…ということ。それは記念碑の石碑に必ず「水没したため」という文言が記されていることからなんとなく遺恨が感じられるからです。もっとも、それは単なる思い過ごしなのかもしれませんけどね。
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