ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

横綱クラス!だけど…紀の川大堰

2022-08-19 06:54:59 | 和歌山(ダム/堰堤)
いや、どーも、ワシです。今回は和歌山県和歌山市有本(ありもと)にある紀の川水系の紀の川大堰(おおぜき)を訪れます。アクセスは国道24号を和歌山方面へ行き、「有本」交差点を右折して行くと到着します。

ここは太平洋まであと4kmほどのところにあるので、紀の川の川幅はかなり広くなっています。だから頭首工でいうところの「ヘーベル君」は8人もおる(ヘーベル君はワシが勝手に命名したものです)。迫力が凄い!



クルマは左岸にある「水ときらめき 紀の川館」の無料駐車場に停めます。そうでないと停める場所がないからです。





左岸、上流側から見た様子。存在感がハンパない!



左岸、上流側にあるこれは何かわかりますか? 魚道なんです。紀の川の川幅も広いですが、魚道まで広い!



上のリンク先に出ていますが、ここの魚道はクネクネ曲がっていて、写真下に見えるコンクリートの水路が一旦下流へ向かい、Uターンして管理橋よりも上流まで戻ってから再び下流方向に行き、大堰の下流のところで紀の川に合流する構造になっています。



管理橋の下から「魚道観察室」なるものを見学することができるようです。ワシが行ったときは時間外だったので見ることができませんでした。



左岸の横から見た「ヘーベル君」の姿。いや〜、この姿はもはや愛らしい印象を超えて「ハイパー君」だねえ。



左岸から見た下流方向の景色。写真下に見えるのが先ほどの魚道。写真の左右に見える2つの塔のようなものは量水塔と呼ばれるものらしい。これらは川の中に立っています。



農業用水のための頭首工と違い、紀伊半島を代表する紀の川の、それも河口に近いところにある大堰は本当に圧倒されます。リンク先の説明によると、紀の川大堰はもともとあった新六ヶ井堰を改築したもので、治水、利水、河川環境の保全を目的とした施設だそうです。しかし完成までにはかなりの時間を要しました。予備調査が始められたのは1965年4月なのですが、今日の姿、すなわち紀の川大堰事業が完了したのはなんと2009年3月。

ただただビックリ。
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2+1の井堰統合!…小田頭首工

2022-05-01 15:26:06 | 和歌山(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は和歌山県橋本市高野口町小田(こうやぐちちょうおだ)にある紀の川水系の小田頭首工を訪れます。ここは昨日記事にした藤崎頭首工の上流にあり、県道4号沿いにあるうどん屋「かね良」前の道を東へ進んで行くと到着します。

これが紀の川右岸から見た「勇姿」。写真下に見えるのが魚道です。



左岸から見た紀の川の下流方向の景色。魚道が一旦下流側に伸びてから再び上流側へ向かっているのがわかりますね。そのようにしているのは少しでも傾斜を緩やかにするためです。こうすればお魚さんたちがストレスなく川を遡ることができるというわけです。



魚道を上流側から見ると、こんな感じ。



その付近から見た頭首工の様子。



一方、紀の川の上流方向の景色です。これをずーっと遡っていくと下渕頭首工があります。それは未見なので、そのうち訪れてみたいと思います。



頭首工の上流側の右岸には取水設備があり(写真上のブルーのもの)、その取水口から分水した水はここに流れ込みます。訪れた日は、どうやら取水口が閉じていたようで全く水はありませんでした。





…と、まあ、いきなり小田頭首工の様子から出発したわけですが、これらの景色は真っ先に見えるわけではありません。当該の頭首工へ行くにはそれを管理している小田井土地改良区の敷地に入る必要があります。これが小田井土地改良区の建物。



小田頭首工の取水口から分水した水は「小田井用水路」を通って流域の農地へ向かうのですが、この「小田井用水路」は2017年10月に世界かんがい施設遺産に登録されたそうです。



敷地内には小田井用水と小田頭首工についての詳しい案内板があります。



小田井用水は紀の川右岸の水田を灌漑している用水路のことで、この地は昔から常に水不足に悩まされていたそうな。そこで江戸時代に紀州藩第2代藩主である徳川光貞(1627-1705)は財政再建の打開策として新田開発を企てます。そして用水路の開発は1699年の藤崎用水の開削で幕を開けました。

その後1707年、光貞の四男で同藩第5代藩主だった徳川吉宗(1684-1751)の命を受けて大畑才蔵がこの小田井用水を開削。この用水は等高線に沿って開削されたので用水路よりも高い場所にある水田へはどうしたら水を行き渡らせることができるのかが課題でした。そこで考案されたのが水路橋(渡井:とい)やサイフォン(伏越:ふせご)。これらを設置することで全ての水田に水を供給することを可能にしたのだそうです。その後何度も改修工事が行なわれ、2006年2月には農林水産省による疎水百選のひとつに選定されています。疎水とは人工的に作られた農業用水路という意味。



もちろん、紀の川から水を引き入れるためには川を堰き止める必要がありました。しかし江戸時代から明治時代までは現代のような工法はなく、石や木材を組み合わせて堰き止める軟弱な堰堤だったため紀の川が増水するたびに損壊し、その都度築造されていました。そして1926年にようやくコンクリート製の堰堤が作られるも、1953年9月25日に発生した洪水により流失。現在の基礎となる堰堤は1956年3月に国営紀の川災害復旧事業により築造されたそうです。おそらくそれまでの堰堤の名称は「小田井堰」で、この時から名称が小田頭首工になったと思われます。その後、何度も細かな改修工事が行われて現在に至っているそうな。



案内板にはさらに江戸時代の農業土木技術者である大畑才蔵(おおはたさいぞう:1642-1720)の測量法についての説明が記されています。



その近くには「小田井本堰改築記念」と刻まれた石碑。大正15年(1926年)6月竣成とあるので、上に記したコンクリート製の堰堤が築造された時のものと思われます。



1953年の洪水では上に書いた通り小田井と、七郷井(1699年にはすでにあった)が流失したため、現在の小田頭首工は事実上これらの統合井堰としての役割を担っています。さらに七郷井堰の下流にあった三谷井(1771年開削)は昭和初期まで紀の川から取水し、その後ポンプ取水方式となりますが、1959年の伊勢湾台風でポンプが使用不能となったことから現在では小田井用水から分水されています(参考)。したがって小田頭首工は3つの井堰を統合したものということになりますね。

紀州藩主、頼宣と光貞の父子はどちらも財政再建のための水利事業に尽力しました。頼宣は櫻池を、そして光貞による藤崎用水の開削に始まり、吉宗の下での大畑才蔵による小田井用水開発…。それがこんにちの紀の川流域の農業の基盤となっているのは間違いのないところでしょう。
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3つの井堰の統合!…藤崎頭首工

2022-04-30 06:58:51 | 和歌山(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。えー、今回は和歌山県紀の川市藤崎にある紀の川水系の藤崎頭首工を訪れます。ここは和歌山線の「粉河(こかわ)駅」と「名手(なて)駅」の中間に位置し、数日前に記事にした岩出頭首工から紀の川を遡っていったところにあります。

まずは紀の川の左岸を走る県道13号から頭首工へアクセスしてみます。あれれ、わかりますか? 藤崎頭首工は左岸と右岸の両方に頭首工があるんですね。



頭首工の左岸側の地名は紀の川市荒見(あらみ)で、ここから紀の川の河口までの距離は29.2km。



左岸側の頭首工は、こんな感じ。頭首工の内側(川側)には魚道も見えます。



川の真ん中にある床固工?は4段になっています。



左岸の頭首工の横に来ました。



頭首工本体には左岸側の水利使用標識が貼られています。こちらの使用者は荒見井土地改良区と安楽川土地改良区。



その上流側にあるのが取水設備で、



その下のところに取水口があります。



取水された水はこの水路を通って、左岸側の農地へ供給されるんですね。





左岸側の頭首工と水路の位置関係は、こんな感じ。



左岸のさらに上流側にある謎の建物。これは管理所なのでしょうか…。



左岸側から見た紀の川上流方向の様子。



一方、下流方向は、こんな景色です。



右岸側にも頭首工があるので確認しないわけにはいきません。で、今度は右岸にやってきました。まずは取水口からの水路と頭首工の位置関係をご覧ください。



取水量が多い時は、あちらへも流れていくんでしょうか…。



頭首工へ近づいていきます。これが取水口から流れ出るところ。



この水路出口の上には、やたらと目立つ祠があります。よく見るとそこには「右二つ巴(ともえ)」の家紋がありますね。巴は水が渦巻く様子を表したもので、神社や民家の屋根に巴の紋が見られるのは巴紋が水に通じているところから「火除け」の意味で使われているそうな。また、古代の勾玉が巴の形に似ていることから神霊の象徴としてこれを神社で用いるようになったとも言われます。さらに巴の形は武士が弓を射る際に弦から肘を守るために装着する鞆(とも)という武具に似ていることから武神とされる八幡神社系の神社ではよく見かけますね(参考)。では、この祠の家紋は何を意味するんでしょうか。おそらく水の神様といった意味なのかもしれません。たぶん。



取水設備と頭首工の位置関係は、こんな感じ。



そして、写真中央に見えるところが取水口です。



仲良し三人組ってな感じ。



頭首工本体に嵌め込まれた「藤崎頭首工」と記されたプレート。昭和31年(1956年)6月竣功の文字が見えます。



右岸側にも水利使用標識。こちらの使用者は藤崎井土地改良区。



右岸、頭首工の横には「藤崎井 頭首工災害復旧事業/幹線水路新設改良事業 竣工記念碑」と刻まれた石碑。昭和49年(1974年)2月とあります。



右岸側に見えるこれは魚道。上に書いたように複数の床固工があるのでお魚さんたちは川を遡ることができません。そのための通路が魚道なんです。お魚さんたちはここから遡って、



頭首工の外側を通り、



取水設備の脇のここまで遡ってきて、それから紀の川の上流へ向かうことができるんですね。



デ〜ンと構えた右岸の「三人衆」。



藤崎頭首工築造の経緯も岩出頭首工のケースと似ていて、1953年に発生した大水害により流出した藤崎、荒見、安楽川の3つの井堰(いせき)を統合するものとしてその工事は1957年12月に完成したそうな(参考)。両岸の水利使用標識の使用者が異なるのはそれぞれの土地改良区が担当しているからなんでしょうね。
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頼宣の功績のひとつ…櫻池

2022-04-29 07:08:43 | 和歌山(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は和歌山県紀の川市北志野(きのかわしきたしの)にある紀の川水系の櫻池(さくらいけ)を目指します。アクセスは京奈和(けいなわ)自動車道の紀の川インターチェンジの東にあり、京奈和自動車道の北側を並行して走る道を東に進み、志野神社を目指して行くとその先に櫻池があります。

到着しました。これですね。写真では傾いているように見えますが、これは単にワシのミス。





道を登ってくると櫻池の右岸に来ますが、フェンスがあるため直接ダム上に行くことはできません。むむむ、目の前にダム上があるのに行けないというジレンマ…。なんとか行く方法はないものだろうか。

とりあえずその道を進んで行くとその先に「櫻池管理釣り場」の入口がありました。うっかり写真を撮り忘れましたが、櫻池で釣りをしたい人はここで手続きをして池に向かうことができます。でも案内板を見ると釣り人以外は入場禁止とは書いていません。ならば堂々と入ってしまおう。

池伝いにダム上に向かいます。そしてようやくフェンスの内側のダム上に来ました。それがこれです。写真右下に石碑のようなものがありますね。



見ると「紀仙郷 徳川南竜院公築造 櫻池」と刻まれています。



【徳川南竜院公とは?】
徳川頼宣(とくがわよりのぶ:1602-1671)のこと。頼宣は家康の十男として京都・伏見城で生まれ、1619年に紀州徳川家を興し、紀伊和歌山藩の初代藩主となる。「南竜院」は頼宣の法名(戒名)が「南竜院殿二品前亜相顗永天晃大居士」だったことから南竜院公と称されるようになったようです。

1650年、頼宣は殖産興業に力を入れるため水田灌漑のため池工事に着手。そして2年後の1652年夏に完成したのがこの櫻池です。以来、櫻池は長年地域の農業発展に貢献してきましたが、老朽化が進み、あちこちが漏水するようになり決壊の危険性も指摘されたため1964年に和歌山県の県営改修工事として着手。そして1966年8月に完成したそうな。

実はこの石碑の近くに「櫻池改修記念」と題された大きな石碑があり、そこに築造および改修工事の経緯が上のように記されています。うっかり写真を撮り忘れました…てへ。ただし、櫻池という名称は誰が命名したのかは不明です。

そんな櫻池ですが、いわゆるダム上を歩いてみることにします。ダム上の中央から見た池はこんな感じ。



一方、下流側はこんな景色です。



ダム上は舗装されていないので歩くのが疲れます。ふかふかした土を踏みながら対岸(左岸)に来ました。振り返ると、こんな感じ。



左岸の下流側から見た様子。そこそこの高さがありますね。



ここは、まあ大きな釣り堀という感じで、太公望が多数釣り糸を垂れていました。ワシは釣りには全く興味がないのでそこで何が釣れるのか彼らに聞きもしませんでしたけどね。
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観音寺の横に…新池

2022-04-28 06:55:04 | 和歌山(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は和歌山県岩出市東坂本(いわでしひがしさかもと)にある紀の川水系の新池(しんいけ)を訪れます。アクセスは京奈和(けいなわ)自動車道の岩出根来(いわでねごろ)インターの東にある和歌山県植物公園緑化センターを目指して行くと、目的地はその南側にあります。

新池の西側の道から見ると、こんな感じ。



その近くには洪水吐があります。越流式ですね。そして、増水すると、水はここから溢れ出て、



道の下を通って、あちらへ流れてゆきます。



で、ご覧の通りフェンスがあって施錠されているので、ここからは入ることはできません。



でも、なんとか近づきたい…。あそこへ行けないものだろうか。



地図を見ていたら、左岸のところに観音寺という寺があり、そこからダム上に行けそう。そうとわかれば細い道を進んで観音寺へ。



観音寺のところが左岸のダム横になっていて、そこからダム上を見ると、こんな感じ。



左岸、貯水側から見たダム上です。



同、下流側から見ると、こんな感じ。向こうに見えるガードレールのところが新池の西側を通る道。



ダム上、中央から見た新池の様子。



同、下流側の景色です。太陽光パネルが並んでいます。やっぱり景観にそぐわない気がします。不気味だ。



新池は岩出市の少し高い場所にあるだけなのでダムという感じはしません。もっとも、アースダムには違いないんですが。なお、「新池」の由来と築造の経緯は不明です。
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4つの井堰を統合!…岩出頭首工

2022-04-27 07:35:40 | 和歌山(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は和歌山県岩出市船戸(いわでしふなと)付近にある紀の川水系の岩出頭首工を訪れます。アクセスは和歌山線の船戸駅近くの紀の川沿いにあります。

まずは左岸から見た「ご尊顔」をご覧ください。なかなか立派な頭首工ですね。



近づいてきました。向こうの右岸の上流側には見えにくいですが写真中央上にブルーの取水装置がありますね。



左岸の頭首工の横から見た様子。扉があって管理橋に行くことはできませんが、その扉には水利使用標識とゲート設備のプレートが貼られています。







ゲート設備のプレートには平成元年(1989年)3月製作とありますが、どうやらこれは改修したもののようです。そもそも岩出頭首工は1953年7月および9月に発生した大水害によって流出した「宮、小倉、四箇、六箇」という近隣の4つの井堰(いせき)を統合して築造されたもので(参考)、1957年に完成したそうです(参考)。

左岸、上流側から頭首工を見ると、こんな感じ。



頭首工の上流側の左岸にも取水装置がありますね。



左岸側の道をさらに上流側へ進むと、そこには「岩出頭首工管理事務所」の建物があります。





そこから頭首工を見ると、こんな感じ。



上にも書いたように岩出頭首工は複数の井堰を統合して築造された「統合井堰」なので、こんなにも立派な頭首工なんですね。別の見方をするなら、それほどまでに1953年の水害の規模が大きかったということでもあるんでしょうね。
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洪水吐がなかなか…大正池

2022-04-26 06:52:21 | 和歌山(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は和歌山県有田郡広川町下津木(ありだぐんひろがわちょうしもつぎ)にある広川水系の大正池を訪れます。ここはダム便覧に載っており、ダムの高さは18mと記載されています。ところが和歌山県が作成した農業用ため池データベースの記載では18.6m。この誤差はなんなんですかね。まあ、とにかくアクセスは県道21号(広川川辺線)沿いにあるログハウス風なカフェの横の道を入っていくと到着します。

おー、見えてきました。これですね。



右岸、貯水側から見ると、こんな感じ。右岸側に洪水吐があります。



洪水吐。いや〜、デカイな。



これが右岸から見た、いわゆるダム上。



確かに「大正池」と書かれています。



洪水吐に架かる橋から見ると、こんな感じ。越流式ですが、奥行きもあります。増水時になると、水はここから溢れ出て、



あちらへ流れてゆきます。それにしても軽自動車ならすれ違うことができるくらいの広さです。



ダム上、中央から貯水側を見ると、こんな感じ。



同、下流側の景色です。



ダム上、中央から小道があるので下ってみます。



下から洪水吐を見ると、こんな感じ。水が流れて来たら相当な迫力でしょうね。



対岸(左岸)に来ました。振り返ると、こんな感じ。



左岸から貯水側を眺めます。向こう側の洪水吐の奥行きがわかるでしょ?



今度は下流側を見ると、こんな感じです。



まあ、とにかくデカイです。ただ「大正池」という看板はあるものの、現場に諸元を示すものがないのが惜しいねぇ。池の名称の由来もわからんし。大正時代に築造されたんかな。
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詳細は不明…栗谷池

2022-04-25 06:58:27 | 和歌山(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は和歌山県日高郡由良町畑(ゆらちょうはた)にある由良川水系の栗谷池を訪れます。ここはダム便覧には載っていませんが、和歌山県が作成した農業用ため池データベースによれば高さが16.0mなのでダムの条件を満たしています。アクセスは国道42号沿いにある有田みかん直売所の南側を並行して走る県道117号沿いにクルマを置き、歩いて行きます。

到着しました。これですね。写真下に見える道が県道117号ですが、ほとんど農道で、すれ違いが困難なほど細いです。



ダム下の県道沿いには栗谷池の洪水吐からの水路が見えています。



左岸のダム横に上って来ました。コンクリートの渡し板の下が洪水吐。



渡し板のところから洪水吐を見ると、こんな感じ。増水時、水はここから溢れ出て、



あちらへ流れてゆきます。



いわゆるダム上を進みます。中央付近から見た栗谷池の様子。



一方、下流側は、こんな感じ。下に見えている道が県道117号。



草だらけのダム上を歩いて、ようやく対岸(右岸)に到着。振り返ると、こんな感じ。



グーグル先生の地図にも国土地理院の地図にも「栗谷池」という名称で出ていますが、現場にはそれを示す案内板はありません。なので、栗谷池の名称の由来は不明です。地名なのかなぁ…。
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不惜身命の末に…寺田池

2022-04-24 06:56:22 | 和歌山(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。えー、今回は和歌山県日高郡由良町里(ゆらちょうさと)にある由良川水系の寺田池を訪れます。ここはダム便覧には載っていませんが、和歌山県が作成した農業用ため池データベースを見ると高さが15.5mなので定義からするとダムに匹敵します。アクセスは紀勢本線の紀伊由良駅の南東にあり、グーグル先生の地図もしくは国土地理院の地図にも「寺田池」と記されているので迷うことはないと思います。

到着しました。左岸のダム横から見ると、こんな感じ。



左岸のダム横にはこんな石碑があります。左側は「嵩置記念」と題された石碑で、ざっと要約するとこの地の旱魃対策として亀井善兵衛、寺田玄太郎、古曽熊吉が発起人となって明治39年(1906年)に工事着工し、大正5年(1916年)3月に完成。特に寺田玄太郎は寝食を忘れるほど命を懸けてこのプロジェクトに取り組んだそうな。寺田池という名称はおそらく寺田玄太郎の功績を讃える意味で命名されたのかもしれませんね。



そして右側の石碑はこの「嵩置記念碑」が元々は池の北東の隅に建てられていたものを令和4年(2022年)にこの場所に移設したことを示すものです。ちなみに「嵩置(かさおき)」は建築用語らしいんですが、意味は不明。



これらの石碑の近く、つまり左岸側には洪水吐があります。



では、いわゆるダム上を歩いてみましょう。



ダム上、中央から見た貯水側の景色。



同、下流側は、こんな感じ。



あれれ、右岸側にも洪水吐がありますね。増水時になると水はここから溢れ出て、



この水路を通ってあちらへ流れてゆきます。



対岸(右岸)に来ました。振り返ると、こんな感じ。



どのため池もダムも築造するにあたっては想像を絶する苦労があったと思います。この記念碑のようにそれをちゃんと記してあると築造物への見方も変わってきますね。いや〜、立派、立派。
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ダムに匹敵するのに…本ノ脇池

2022-04-23 06:54:42 | 和歌山(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は和歌山県日高郡美浜町和田(みはまちょうわだ)にある本ノ脇池(もとのわきいけ)を訪れます。ここは美浜町が作成したため池ハザードマップによると高さが15.8mで、定義上はダムと呼んでもおかしくないので行ってみたわけです。アクセスは県道24号(御坊由良線)沿いにある磯部観音を目指し、その北東に位置する三角の形をした池が目的地になります。

本ノ脇池へはここから入っていきます。しかし道が細いので近くにクルマを置いて、ここからは歩きで。



この入口付近には美濃佐兵衛の居城といわれた「本ノ脇城跡」の案内板があります。案内板にあるように美濃佐兵衛について、また本ノ脇城に関しては何ひとつわかっていません。しかし今回の目的地である本ノ脇池の名称がこれに由来するものであるのは確かだと思います。



入口から本ノ脇池までは200mくらいです。池の横には「美浜町観光イラストマップ」があります。



これが、いわゆるダム上。草だらけですが、進んでみます。



ダム上、中央から見た貯水側の景色。



同、下流側は、こんな感じ。木が生い茂っていて、ほとんど見えません。



対岸(右岸)には洪水吐があります。増水すると、水はここから溢れ出て、



いかにも人力で掘りましたと思われる水路を通ってあちらへ流れてゆきます。



対岸に来ました。振り返ると、こんな感じ。



当該の池に「本ノ脇池」を示す看板はありません。そして、すぐ下流で農作業をしていた方に「上にある池の名前はなんというんですか?」と聞くも、「知らねえなぁ…。名前なんてあるんか?」と、つれないお返事。そんな感じなので、地元では単なる池という認識のようです。もしかすると「本ノ脇池」という名称は行政が便宜的に付けた名称で、池が所在する場所の地名を付けて勝手にそう呼んでいるだけなのかもしれません。

いわゆるダムに匹敵する規模なのに放置状態なのは残念でなりません。きちんと整備すればいいのになぁと他所から来た訪問者は思うのでした。
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桜よりもデータを!…広川(治水)ダム

2022-04-22 06:51:02 | 和歌山(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は和歌山県有田郡広川町下津木(ありだぐんひろがわちょうしもつぎ)にある広川水系の広川ダムを訪れます。アクセスは県道21号沿いにある「ほたるの湯」の看板のあるところを入り、そのまま道なりに進んで行くと広川ダムの右岸に到着します。

このダムは「ご尊顔」を拝めるポイントがありません。せいぜい左岸から撮ったものくらいかなあ。でも「横顔」ですけどねー。



順を追って見ていきます。右岸の道を上ってくると、まず目にするのがこの建物。「広川出張所」です。ちょっとオシャレなデザインですね。





出張所からダムを見ると、こんな感じ。



見学者のための駐車場はその道をさらに奥へ行ったところにあります。そこには「広川ダム」と刻まれた石碑。



その裏側にはダム建設の経緯が記されています。それによると、広川は古来より流水の増減が極端だったため流域の人々は苦労を強いられてきた。そこで1965年、この地にダムを建設することが決まる。そして様々な問題を乗り越え、1972年1月、建設費用の全額を国と県が負担することで工事が開始され、1975年1月に広川ダムは完成したとあります。



近くには「慰霊碑」。何に対する慰霊碑なのかと裏を見ても建立者の名前しか記されていません。





右岸の道をさらに進むと「広川ダム周辺案内図」があります。周囲には桜の木やシャクナゲなどがあるようですね。



それでは、ダム上を歩いてみることにしましょう。



ダム上、中央から見た貯水側の景色です。



一方、ダムの真下は、こんな感じ。



そして、下流側の遠景。



ダム本体に嵌め込まれているプレート。見ると「広川治水ダム」と記されています。正式名称はどちらなんでしょうねえ。



やはりダム本体に嵌め込まれている「基準点」を示したプレート。こんな山の中なのに標高は160mなんですね。ちょっと不思議な気分。



対岸(左岸)に来ました。振り返ると、こんな感じ。



左岸、貯水側から見たダムの様子。



どこか「ご尊顔」を拝むことのできる場所はないかなと思い、ダム下へ来ました。副ダムから勢い良く水が流れています。



さらにダムへ近づいて見るも…あぁ、木が邪魔で「お顔」がよく見えませんでした。



周辺案内図があるのに、肝心のダムの案内図がないのが残念でなりません。また、ダムの正式名称が「広川ダム」なのか「広川治水ダム」なのかを明確にして欲しいと思います。一応県営のダムなんですから…。
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条件はクリアしてるのに…露谷池

2022-04-21 06:51:16 | 和歌山(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は和歌山県日高郡日高川町坂野川字露谷(ひだかがわちょうさかのがわあざつゆたに)にある日高川水系の露谷池を訪れます。これはため池のようですが、和歌山県が作成した農業用ため池データベースによると高さが15.5mなので定義上はダムと称しても間違いではないと思うので行ってみることにした次第。アクセスは昨日記事にした尾曽谷ダムの南にあるレオグラードゴルフクラブの東側にあり、県道196号を日高川沿いに進み、そこから細い道を北上すると到着します。

これのようです。近づいてみましょう。



左岸側から見た斜面の様子。まあまあの急傾斜です。



いわゆるダム上の中央から見た貯水側の景色。



一方、下流側は、こんな感じ。



ここが「露谷池」であるという表示はどこにもありません。ただ、この警告書きに「露谷」の文字があり、この地域にそれ以外の池が見当たらないことからすると、この池が「露谷池」であるのは間違いないでしょう。ちなみに「坂野川田人」とありますが、これは名前じゃありません。坂野川地区に住む農夫という意味で、田人(たうど/たびと)は田を耕す人を表します。



洪水吐は右岸側にあります。ただ、それは目立たないほど細いのでわかりにくいかもしれません。



対岸(右岸)に来ました。振り返ると、こんな感じ。



右岸から見た斜面の様子。木が垂直に伸びるのを思えば傾斜が急なのはわかると思います。



上にも書いた通り、ここはダムの条件をクリアしている立派なアースダムなのになぜダム便覧に載ってないんでしょうね。不思議だなぁ。
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新高津尾発電所の調整池…尾曽谷ダム

2022-04-20 06:54:56 | 和歌山(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。えー、今回は和歌山県日高郡日高川町高津尾尾曽谷(ひだかがわちょうたかつおおそだに)にある日高川水系の尾曽谷ダムを訪れます。アクセスは県道196号沿いにある関西電力の新高津尾発電所付近から上ると到着します。

坂を上ってくると見えてきました。これですね。アースダムです。



右岸、貯水側から見たダムの様子。



これがダム上。歩いてみます。



ダム上、中央から見た貯水側の景色。



同、下流側の景色。遠くに見える川は日高川です。



左岸側に見えるのは取水設備。ここから取水された水は下流の新高津尾発電所へ送水されます。



対岸(左岸)に来ました。振り返ると、こんな感じ。



左岸の貯水側から見たダムの様子。



先ほどの取水設備の裏側から見た様子。あれれ、右岸側にも取水口があるようです。





左岸の取水設備とダム上の位置関係は、こんな感じ。よく見ると、左岸のところに洪水吐があり(写真左側)、



増水すると、水はこの水路を通ってあちらへ流れてゆくようです。



その水路と並行している送水管は、先ほどの取水設備に繋がっていて、それが下流側の新高津尾発電所へ向かうようです。



右岸に戻り、こちら側にある取水口の後方からダム上を眺めると、こんな感じ。



その取水口からこの送水管を経て下流へ送られます。つまり両岸には二本の送水管があるというわけです。しかし、調べてみると、この取水口は実際には余水吐(洪水吐)だそうです。(参考



右岸の道をさらに遡って行くと、山肌をくり抜いて作られた水路から水が勢いよくダムへ流れ込んでいました。調べてみると、この地下水路は一山超えたところにある、やはり日高川に作られた新高津尾発電所上田原取水堰堤の取水口と繋がっているのがわかりました。いずれ上田原取水堰堤にも行ってみたいものです。



この看板を見る限り、関西電力はここをダムというより発電所のための調整池とみなしているようです。



ちなみに上のリンク先によれば、新高津尾発電所が運用を開始したのは1999年7月で、旧高津尾発電所の運用開始は1918年4月だそうです。尾曽谷ダムはそれに伴うものなので、築造されたのもやはり1918年なんですね。なんと、104年も前に作られたとは!
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岩倉発電所と町営の発電所へ…二川ダム

2022-04-19 06:57:53 | 和歌山(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は和歌山県有田郡有田川町二川(ありだぐんありだがわちょうふたがわ)にある有田川水系の二川ダムを訪れます。アクセスは国道480号を進んで行くとダムの右岸に到着するので迷うことはありません。

まずは二川ダムの下流に架かる橋から見た「ご尊顔」をご覧ください。



右岸のダム横に来ました。そこには二川ダムの案内板があります。洪水調節と発電を目的とするダムのようです。





その横には水利使用標識。



右岸、貯水側から見たダムの様子。



同、ダム横の下流側には「二川ダム」と刻まれた石碑。1964年12月に着工し、1967年1月に完成したとあります。発注者は和歌山県になっていますが、上の水利使用標識では関西電力が管理者になっています。ということは、築造は和歌山県が行ない、発電に関しては関西電力が担当しているということなのでしょうね。



これがダム上。車両通行可ですが、歩いていきます。



ダム上から右岸方向を眺めると取水塔が見えます。ここから取水された水は有田川とは別の水路を通って二川ダムの下流の、直線距離にして約3.3km離れたところにある関西電力の岩倉発電所(1967年3月24日運用開始:有田川町岩野河[いわのがわ])へ送水され発電に使用されます(参考)。



ダム上、中央から見た貯水側の景色。



一方、ダムの真下は、こんな感じ。



ダム下にあるこの建物は有田川町が運営する小水力発電所。これについては左岸側に案内板があり、2016年2月に完成した比較的新しい施設のようです。





そして、下流側の遠景。一番上の「ご尊顔」の写真は遠くに見えるあの橋から撮ったものです。



対岸(左岸)に来ました。振り返ると、こんな感じ。緩やかにカーブしていますが、これはダムの端だけでアーチ式ではありません。



左岸のダム本体には「ふたがわダム」「昭和41年(1966年)12月完工」のプレートが嵌め込まれています。右岸にある石碑では「1967年1月完成」とありますが、おそらくそれはダム全体の完成を示すもので、こちらはダム本体の完成を意味していると思われます。





左岸、下流側から見たダムの様子。



ダム上から国道沿いにある「二川ダム管理事務所」はこんな風に見えます。



国道から見ると、こんな感じ。





管理事務所は右岸の下流側にあるので、そこから二川ダムはこんな風に見えます。



なお、有田川という名称は、荒地を流れる川筋が常にルートを変える「荒れた川」だったことに由来するそうです。(参考

ならば、有名な有田みかんは「荒れたみかん」なのかしらん…んなわけないか。
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和歌山県の山田ダム

2022-04-18 07:02:44 | 和歌山(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。えー、今回は和歌山県紀の川市貴志川町高尾(きのかわしきしがわちょうたかお)にある紀の川水系の山田(やまだ)ダムを訪れます。アクセスは県道129号(垣内貴志川線)を進んで行くとダムの右岸に到着します。

ワシは県道をダムの上流側からアクセスしたので、最初に見えた景色は、こんな感じでした。



右岸のダム横に来ました。そこからダム上を見ると、こんな感じ。車両は通行可能のようですが、ワシは歩いて行きます。



ダム上、中央にある建物の壁に貼られている水利使用標識。灌漑を目的としたダムなんですね。



ダム上、中央から見た貯水側の景色です。



一方、ダムの真下は、こんな感じ。



そして、下流側の遠景。こうしてみると下流側から「ご尊顔」を拝めるスポットはなさそうです。



対岸(左岸)に来ました。振り返ると、こんな感じ。



左岸、貯水側から見たダムの様子。



左岸、ダム横には「山田ダム 記念碑」と刻まれた石碑があります。ダムの完成は1957年10月で、1964年3月には導水路が完成とあります。この導水路がどのようなものなのかは不明。





中規模のダムですが、造りはしっかりしているといった印象。ただ、案内板や諸元表がないのが惜しいねえ。ちなみに山田ダムが野田原川(のたはらがわ)を堰き止めて築造されたものであるのは水利使用標識に明確に記されていますが、グーグル先生の地図では山田川と記されています。おいおい、先生、しっかりしてくれー。

なお、ダム名の由来については不明。ダム湖名が国土地理院の地図では「山田貯水池」となっているので「山田」というのはこのあたりの地名なのかもしれません。ついでにいうと、「山田ダム」は兵庫県三田市山田にもありますが、こちらの読みは「やまた」です。そのうち訪れることになるでしょう。
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