ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

樹雪

2014-03-17 03:43:33 | ドライブ関連
先週土曜日の深夜1時頃の中央道・談合坂サービスエリア(上り線)にて。



ご覧のように、木の枝には雪がキレイに乗っかっています。その雪が凍れば「樹氷」になるのでしょうが、ここでふと疑問。凍っていない状態ならば「樹雪(じゅせつ)」と呼んでもいいように思うのですが、辞書には見当たりません。

でも、ネットで「樹雪」を検索してみると、意外にヒットします。もっとも、中にはスナックや甘納豆の名前だったりもするんですが…(笑)。

こんなにも美しいのに「樹雪」が日本語として定着していないのは、ちょっと不思議。どうしてなんでしょうね。樹木に付いた雪に対する美意識が古来の日本人にはなかったのでしょうか。

写真はちょっとピンボケしていて美しさが伝わりませんが、実際に見ると息を呑むほどでした。ゴクゴクゴクゴク、プハーッ、もう一杯!…って、意味がちゃうがな!
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宝かゴミか

2014-03-05 04:31:04 | 脳みその日常
昨日書いたように、講座の世話役だったMさんの通夜に行ってきました。その際、ご遺族の方々とお話をさせていただきましたが、気になったことがありました。

Mさんは無類の音楽好きで、相当な数のレコードやCDをお持ちでした。しかしご遺族の方々で音楽好きな人はひとりもいないとか。となると、それらの録音は今後どうされるのでしょうか。

趣味というものはその人にとっては宝物であっても、興味のない人にとっては単なるゴミに他なりません。60年以上も前からのコレクションも、そのうち処分されることになるでしょう。悲しいことですが、それが現実。

同じことはワシにもいえます。趣味ではないにせよ、原稿を書くために購入した膨大な数のCDや楽譜などの資料もワシにとっては重要なものですが、家族や他人にしてみれば無用の長物。これらを処分するには相当なお金が必要となるでしょう。

もっとも、処分する時には愛用していた本人はこの世にはいないのですから、考えても仕方ないこと。あとは家族に委ねるしかありません。

でも、「所有者」としては、やっぱり寂しい気持ちになる。ならば納得のいくように、今から譲渡先を遺言状にしたためておくか…。いや、こんなもん、誰が欲しがるのかな。欲しい人なんておるんかな。おらんやろなあ…。とりあえず、不要なCDを見つけて、2000枚くらい処分しちまおうかな…。う~ん、多少「ゴミ」が減るけれど、あんまり意味ないか…。

まあ、そんなことを考えながら帰途についたのでした。
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会者定離とはいうけれど…

2014-03-04 06:07:27 | 脳みその日常
それは2001年5月、一本の電話がきっかけでした。この年の1月から3月まで、ある市の教育委員会主催の音楽講座の講師を務めたのですが、その講座が終了すると受講者だった方から「今度は私たちの自主講座の講師をしてもらえないか」と依頼を受けたのでした。

電話をかけてきたのは、のちに世話役となるMさん。教育委員会主催の講座はいくぶんマニアックな内容だったので、「今度の講座はもう少し間口を広げた易しい内容で!」という要望。人に教えるのはいろいろな意味で自分の勉強にもなるので、二つ返事で引き受けることにしました。

そして同年7月より、月に一度の講座がスタート。以来、先月の講座でちょうど150回を迎えたところでした。

世話役のMさんは開講の頃から宣伝用のチラシを作ったり、市の広報誌へ広告を出す、さらには会計もすべてひとりでこなされていました。

ところが、今年になってから風邪を引き、なかなか快方に向かわないんですよと1月の講座の時に話され、講座の後の新年会を欠席。その段階でワシたちは、この日がMさんとの別れになるとは夢にも思いませんでした。

2月14日、ワシが雪の中に閉じ込められたその日、Mさんは体調を崩され、緊急入院。当初の診断は肺炎で、数日入院すれば退院できるだろうという説明だったそうです。しかし、ワシが雪の中から生還した18日、精密検査の結果、単なる肺炎ではなく、間質性肺炎であることが判明。これはマズイことに。

間質性肺炎は肺胞と肺胞の間にある線維(いうなればスジのこと)が増加する肺炎のこと。このスジが増えることで正常な肺胞が破壊されていくのです。マズイと書いたのは、この病気に対する特効薬がないからです。つまり完治しない病気というわけ。

でも、病状がゆっくりと進行すれば、まだ対症療法で生き延びることができますが、急変してしまうと落命するというほど恐ろしい病気なのだそうです。だから油断は禁物。周囲としては祈るほかはありません。

2月25日、講座の日。集中治療室にいるMさんが脳梗塞を併発していることが判明。さらにマズイ事態に…。後遺症が残ったしても、何とか退院できるまでに恢復して欲しい。家族ではないので集中治療室に見舞に行くこともできず、ひたすら祈るばかり。

そして今月1日、息を引き取ったとの連絡が…。享年76。

Mさんとは月に一度顔を合わせる程度の付き合いでしたが、彼は一緒に講座を作り上げてきた、いわば同志みたいなもの。もちろんMさんは一般の音楽愛好家で、専門家ではありません。他の受講者とともにワシの講義を聞いていました。

しかしMさんの、地元の音楽愛好家とともに音楽をもっと楽しもうという熱意は常にありましたし、ワシの講座においては縁の下の力持ちとして尽力していただきました。そうした熱意を感じたからこそ、ワシも講義内容を一度も重複させることなく、いろんなお話を受講者の皆さんにすることができたように思います。

講座はしばらくの間は続けるつもりですが、「同志」を失ったことで、いま心の中にポッカリと穴があいてしまっています。虚脱感。

「会うは別れの始め」といいます。これは仏教では「会者定離(えしゃじょうり)」と表現します。原典の『遺教経(ゆいきょうぎょう)』は釈迦が涅槃に入る前の最後の教えだそうですが、そこに出てくる会者定離は「生者必滅(せいじゃひつめつ)」とセットになっています。つまり、「生きるものは必ず死に、出会った者は必ず別れる」という意味です。

いやぁ、頭ではわかっているんですよ。でも、まだ気持ちの整理がつきません。

今日は夜、Mさんの通夜に出かけてきます。
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