ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

梨のために…東郷ダム

2024-08-31 15:01:36 | 鳥取(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は鳥取県東伯郡湯梨浜町別所(とうはくぐん ゆりはまちょう べっしょ)にある橋津川水系宇坪谷川の東郷ダムを目指します。アクセスは県道29号沿いの「東郷ダム→」の表示のあるT字路を入っていくと到着します。

さて、ダム名は何に由来するんでしょうね。ここの地名ではなさそうです。もしかするとダムから流れ出た水は東郷川へ流入するのでそれが由来なのでしょうか。うーむ、イマイチよくわかりません。

ダムが見えてきました。これですね。

ダム湖名は「梨水湖(りすいこ)」。

近くには東郷ダム竣工20周年を記念して湯梨浜町立東郷小学校の6年生44名が記したメッセージが貼られています。


右岸側にあるこの建物は管理事務所かな?ただ、それを示すものはありません。

建物の裏手、そしてダム横にある東郷ダムの案内板。これによると、東郷ダムは洪水被害の防止、農業用水の確保、梨畑へのかんがい用水の確保などを目的とした高さ39.5m、長さ227.0mの重力式コンクリートダムで、平成2年4月から予備調査が行なわれ、平成16年3月に竣工。なるほど、ダム湖名は梨栽培を目的としているところから命名されたのですね。

では、ダム上を歩いてみましょう。

ダム上、中央から見た梨水湖の様子。

ダム上の本体に貼り付けられている取水設備のプレート。

ダム下を覗き込みます。

そして、下流側の遠景。

対岸(左岸)に来ました。振り返るとこんな感じ。

左岸、梨水湖側から見たダムの様子。

おおっ、よく見ると遠くには日本海が、またその手前(鉄塔の下あたり)には東郷川が流入する東郷池が見えます。

せっかくなのでダム下へ移動し、「御尊顔」を拝みました。


東郷ダムは、いわば梨栽培に特化したダムなんですね。なるほど、なるほど。
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そりゃ、フンガイするわな…百谷ダム

2024-08-30 06:57:43 | 鳥取(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は鳥取県鳥取市百谷(ももだに)にある千代川水系天神川の百谷ダムを目指します。アクセスは県道43号沿いの道路表示板に「百谷ダム」と書かれているのでそれに従って入っていくとすぐに到着します。

【百谷の由来】(参考
ところでダム名にもなっている百谷、もちろんここの地名なんですが、さらに地名の由来が気になったので調べてみました。どうやらこの地には「クマカ谷」「小熊谷」「ヤノ谷」「坂ノ谷」など多数の谷があったため、多数を意味する「百」をつけて地名になったものと思われます。なお、百を「もも」と読むのは大和言葉の数の数え方で、30歳を「みそぢ」、40歳を「よそぢ」と言うのもそれに由来します。

さて、そうこうするうちに到着しました。こんなダムです。

本体には諸元が記された銘板が嵌め込まれています。それによると、百谷ダムは治水と灌漑を目的とする高さ18.0m、長さ79.0mの重力式コンクリートダムで、完成は昭和49年(1974年)3月。

同様に「百谷ダム」と記された銘板。

左岸から見たダム上。では、歩いてみましょう。

ダム上、中央から見た上流方向の景色。

放流装置の諸元が記されたプレート。製作年月が昭和48年11月なので今も現役で活躍中のようです。

ダム下を覗き込みます。副ダムの形状が扇形なのは珍しいかもしれませんね。

そして、下流方向の遠景。

対岸(右岸)に来ました。振り返るとこんな感じ。

右岸にあるこの建物はなんでしょうね。

近づいてみると「百谷ダム職員詰所」だそうです。

入口の扉には張り紙が…。このあたりで「人糞をされる方がおられ」るそうな。なにもこんな場所でマーキングしなくてもいいのにね。一体何を考えてるんだか…。

詰所付近から見たダムの様子。洪水吐の形状が漏斗状になっています。なるほど、それでダム下も扇状になっているんですね。納得、納得。


百谷ダム自体は特別印象に残るものではありませんが、「人糞犯」がいることを知り、却って記憶に残ってしまいました。
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砂防ダムとして復活!…旧美歎水源地水道施設

2024-08-29 06:56:43 | 鳥取(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は鳥取県鳥取市国府町美歎(こくふちょう みたに)にある千代川水系美歎川に築造されている旧美歎水源地水道施設を目指します。この場所、国土地理院の地図では「美歎水源地」、またグーグル先生の地図では「美歎ダム(貯水池堰堤)」と表記されています。アクセスは県道31号の「万葉歴史館入口」信号を美歎方面へ曲り、そのまま美歎方面へ行くと目的地に到着します。

【美歎の由来】(参考)(参考
今回の目的地へ行く途中のところに美歎神社があるのですが、この神社は927年に編纂された『延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)』に「法美郡(ほうみぐん)美歎神社」と記載されていることから「美歎」という名称は平安時代には既にあったことがわかります。ただ、美歎は普通に読めば「みたん」ですが、それがなぜ「みたに」と読むようになったのでしょうか。

漢字の古い読み方に中古音というのがあります。中古音は四世紀から七世紀にかけて作られた中古中国語の音韻体系のことです。詳しい説明は省略しますが、要するに単語の最後が「n」や「m」で終わる場合、そのあとに「i」や「o」が付くというもの。その法則が日本の漢字音にも残っているというわけ。だから「美歎:みたん mitan」は「みたに mitani」と読まれるようになったんですね。同様のケースは、例えば島根県平田市に「美談町(みだみちょう)」という場所がありますが、これも「midam」→「midami」となったもの。また、岡山県真庭郡にある「美甘(みかも)」という地名も「mikam」→「mikamo」に変化したものです。

話を戻します。「美歎」の読み方が「みたに」と発音されるようになったためか、後の享保十九年(1734年)以前に成立したとされる『因幡誌』には「三谷村」と記されています。おそらくこれは美歎を「音として」聞いた時に「みたに」→「三谷」のように連想したためではないかと思われます。もちろんそれは誤記なんですけどね。

…てなわけで、目的地に到着しました。いや〜、ずいぶん古めかしい築造物ですなあ。

近くに案内板があります。それによると、この築造物を含む「旧美歎水源地水道施設」は大正4年(1915年)に竣工した山陰最古の水道施設だそうです。

しかしながら1918年9月に来襲した台風によりダムは決壊。それにより下流の美歎集落は大きな被害を受けます。そこで、最初のダムは盛土で築造されていたものを重力式コンクリート積ダムに変更。また、下流の濾過池も4つから5つに増設してパワーアップを図りました。そうして改修した水道施設は昭和53年(1978年)まで活躍したそうな。このダムはその後砂防ダムとして使用されることに。そして水道施設としての価値が認められ、平成19年(2007年)6月18日に国の重要文化財に指定されました。

右岸側からみたダムの様子。

ダム上はこんな感じ。でも、フェンスがあってダム上にはいけません。

ダムの下流にある5つの濾過池。

水道施設へは下流に入口があります。そこにある案内板。

下流側から見た濾過池。

そこから上流へ向かい、ダムの「御尊顔」を拝みます。この記事の一番上のリンク先によれば、ダムの高さは19.5m、長さは103.0mで、現在の姿は平成11年に補強工事が行なわれ、砂防ダムとして機能しているそうな。ちなみにダム便覧のデータでは高さが27.0m、長さが103.0mとなっています(参考)。なぜ高さが違うんでしょうね。

ダム下から濾過池を見るとこんな感じです。


国の重要文化財に指定されているだけあって、施設の管理は行き届いています。見ているだけで和む…そんな場所でした。
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殿、ダムでござる!

2024-08-27 06:52:54 | 鳥取(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は鳥取県鳥取市国府町殿(こくふちょう との)にある千代川水系袋川の殿ダムを目指します。アクセスは因美線(いんびぜん)の東郡家(ひがしこおげ)駅近くを走る国道29号の「堀越」信号を国府(こくふ)方面へ入り、県道39号を進んでいくと「←岡益石堂(おかますいしどう)」の表示のあるT字路を左折。県道282号を道なりに進み「岡益橋北」信号を栃本(とちもと)方面へ。県道31号を進んでいくと到着するようです。

【ダム名の由来】(参考
ダム名はここの地名に由来しますが、「殿」という地名はダムのすぐ下流の左岸にその昔、天文年間(1532-1555)に因幡(いなば)毛利氏により「山崎城」が築城され、その一帯が因幡毛利氏の家中屋敷だったことからそう呼ばれるようになったようです。

さて、見えてきました。なかなか大きなダムです。

ダム横へ向かいます。ダムへの入り口は殿トンネルを抜けたところにあり、そこからダムはこんなふうに見えます。

ところがダムへ行くには時間制限があり、8:30〜17:15の間と決められています。ワシが訪れた時間は早朝7:30だったため門扉は閉じられた状態。仕方なく1時間ほど時間を潰すことに…。(写真の地図は左岸側のものですが、入口のところにも同じものが貼られています)

ふと見れば、抜けてきた殿トンネルの表示がなんとも可愛い。ひらがなの魔術ですね。

開門時間になったのでダムへ向かいます。

右岸側の、この建物は「国土交通省 殿ダム管理支所」。


そこからダムはこんなふうに見えます。

右岸側から見たダム上の様子。では、歩いてみましょう。

いわゆる親柱のところにある「殿ダム」と刻まれたもの。平成23年(2011年)11月完成とあります。

ダム湖名は「因幡万葉湖」。

ダム上、中央から見た因幡万葉湖の様子。

一方、下流側を見るとこんな感じ。

洪水吐は左岸側にあり、増水すると低水位の場合、水は写真中央に見える四角い穴から溢れ出ますが、高水位の場合は左側の越流式のところから流れ出ます。

そして、溢れ出た水はこの水路を通って、あちらへ流れてゆきます。ちなみにパンフレット(後述)によると、この水路斜面には従来の滑り台式でなく階段状の形式(カスケード型減勢方式)が採用されているそうな。これは国内初だそうです。

対岸(左岸)に来ました。振り返るとこんな感じ。橋のようになっているところの下が洪水吐の水路です。

左岸、因幡万葉湖側から見たダムの様子。

同、下流側から見るとこんな感じ。


殿ダムの周辺に案内板らしきものは見当たりません。そこで右岸に建っている殿ダム管理支所の1階に「殿ダム展示室」というのがあるので入ってみることにしました。そこにはダム築造の様子などの説明があるほか、諸元を記したパンフレットが置かれていました。その内容については一番上のリンク先から見ることができます。それによれば、殿ダムは「暴れ川」と呼ばれた下流の千代川の治水目的のための洪水調節、河川環境の保全、工業用水および水道用水の確保、水力発電を目的とした多目的ダムで、高さ75.0m、長さ294.0m。平成24年(2012年)3月31日に完成したロックフィルダムだそうです。右岸の親柱に刻まれていた平成23年11月完成というのはダム本体の完成年月のようですね。
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ほろ苦と爽やかさの融合?

2024-08-26 14:43:43 | 脳みその料理
どーも、ワシです。気持ちは鳥取にいるんですが、暑すぎて記事にする気が起きません。…もう、気分転換にケーキを作ろう!

てなわけで今回はヨーグルトムースの上にキャラメルソースを乗せてみることにしました。



ヨーグルトムースがさっぱりしているのはもちろんなんですが、キャラメルソースを少し焦がし気味にしたのでほろ苦いテイストになっています。見た目は美味そうですが、実際に口に入れてみると…うーん、なんでしょうね、この微妙な感じは…。

ははは。
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酷暑例会

2024-08-24 07:00:09 | 脳みその料理
どーも、ワシです。昨晩は例会をしました。メンバーのH君は原因不明の道路渋滞に巻き込まれたらしく、約1時間半遅れの到着。ゲストは少し前に結婚したばかりの若い看護師N君。そしてメンバーのMとワシの計4名で集いました。今回ワシが用意したアテはこちら。 


きゅうりの浅漬け、もやしとモロッコいんげんのナムル、だし巻き、鶏の唐揚げ、エビフライ、低温調理の焼豚、そしてマグロのカルパッチョ。

所狭しと並べられた品々。今回の目玉は低温調理をした焼豚。豚のバラブロックを100℃のオーブンで2時間半焼き、煮詰めたタレをかけてあります。これだと肉が固くならず、また煮ないので肉の味がしっかり残っています。

いつものもやしのナムルにモロッコいんげんを追加しました。これはメンバーに好評でした。

当例会では久しぶりに出したマグロのカルパッチョ。個人的にはこれも美味かったです。


連日暑い日が続きます。お互い好きなことを言い合って、無事暑気払いが終わりました。
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来見野川取水ダム(堰堤)

2024-08-23 06:54:21 | 鳥取(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回から山陰地方に向かいます。最初に目指すのは鳥取県八頭郡若桜町諸鹿(やずぐん わかさちょう もろが)にある千代川水系来見野川(くるみのがわ)に築造されている来見野川取水ダム。アクセスは国道482号の「諸鹿(もろが)」信号を諸鹿方面へ入り、県道103号をひたすら進んでいくと到着します。

見えてきました。これのようです。

ダム横から来見野川の下流方向を眺めます。

左岸、ダム横から見た様子。

フェンスのところには水利使用標識が貼られています。それによれば、当該ダムは中国電力株式会社が管理する発電用ダムらしい。

その隣にはダムの構造図。

左岸、上流側から見た様子。

右岸側に見えるバー・スクリーンのところ(写真中央)が取水口で、そこから取水された水は来見野川とは別の水路を通って直線距離にして約3.9km下流にある来見野発電所へ向かい、発電に使用されます。


水利使用標識にも書いてありますが、来見野発電所で使用される水は来見野川の北側を流れる細見川からも取水されるようですが、その取水口を確認することはできませんでした。

それにしても、この来見野川取水ダムですが、いつ築造されたのでしょうね。現場には諸元を示すものがないので不明ですが、来見野発電所のリンクを見ると同発電所の運用開始が昭和10年(1935年)9月なのでこの取水ダムも同時期に築造されたものと考えてよさそうです。ただ、まあ、名称は「取水ダム」ですが、目測でも高さは15.0m以下なので定義上は取水堰堤になりますね。それに、上の「構造図」にも「えん堤」と書いてあるし…。
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これが現地の表記!…橇曳沢溜池(ダム)

2024-08-22 07:01:36 | 岩手(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は岩手県胆沢郡金ヶ崎町西根後千貫石(いさわぐん かねがさきちょう にしね うしろせんがいし)にある北上川水系宿内川(しゅくないがわ)の橇曳沢(そりひきざわ)溜池を目指します。目指しますといっても、アクセスは実に簡単で、前回記事にした千貫石ダムのダム上の道を南下すれば到着します。

見えてきました。なかなか立派な溜池です。

近くには二つの石碑があり、ひとつは「創原」と題されたもの。そこには橇曳沢溜池築造の経緯が記されています。

転記すると以下の通り。

「橇曳沢溜池は、宝暦年間(西暦一千七百五十年代)既に高谷野原西方一千米地点の橇曳沢盆地に先住せし三戸の生活灌漑用水として、自然自流水を堰止めて造られた入り合権の小規模な溜池でありました。
 昭和の初め、金ヶ崎町名誉町民第一号である故菅原新蔵翁は、不毛の地と言われた広大な高谷野原の原野(三百七十町歩余)に農業集落を建設すべく、水の確保を第一義として橇曳沢の地に溜池を建設することとしました。
 そして昭和六年、岩手県知事の事業認可を得て、三ヶ年の歳月と七十万円の事業費を投じ昭和九年、百六十三万トンを貯水できる大規模な溜池を完成しました。
 その後、当溜池は地域開発並びに食糧生産に大きく寄与してきたところでありますが、築造後半世紀を経て、老朽化が甚だしく、溜池の安全性と管理技術上の見地から、橇曳沢水利組合は、昭和五十五年五月に和賀川土地改良区と合併し、老朽溜池の改修に本格的に取り組むことになり、関係機関のご援助を賜り、昭和五十六年県営大規模老朽溜池整備事業として、溜池全般の改修に着手しました。
 その間、昭和六十三年八月二十九日、五百ミリを越える集中豪雨に見舞われ、溜池及びその周辺は壊滅的な被害を受けましたが、復旧工事を含め、二十数億円の巨費を投じ、十数年の歳月を経て完成することに至りました。
 今、ここに当溜池の果たしてきた役割の大きさと多難な歳月を回想し、農業基盤整備に一身を捧げた開拓の父、故菅原新蔵翁の功績を顕彰し、その精神を継承するとともに、工事完成を記念して、「創原」と刻み、碑を建立するものである。
   平成四(一九九二)年十月吉日
          橇曳沢地区委員会建立」

要するに、橇曳沢溜池は昭和九年(1934年)に完成したわけですが、築造後半世紀が経過して老朽化が進み改修工事が行なわれ、平成4年(1992年)10月に竣工したもののようです。

隣にあるもうひとつの石碑は「完工記念碑」と題されたもので、下部の文字は読みにくいのですが、工期が「昭和五十六年度から平成七年度」と読めることから溜池の改修工事の完成は上に記したように1992年ですが、橇曳沢地区の県営溜池等整備事業全体が終わったのが平成七年度ということなのでしょう。たぶん。ちなみに溜池の高さは23.45mで、長さは142.0mとあるので名称は溜池ですが、立派なダムでもあります。


では、いわゆるダム上を歩いてみることにします。

越流式の洪水吐は左岸側にあり、増水すると水はここから溢れ出て、

この水路を通って、あちらへ流れてゆきます。

ダム上、中央から見た貯水側の景色。

一方、下流方向を眺めます。遠くには金ヶ崎町の街並みが見えます。

対岸(右岸)に来ました。振り返るとこんな感じ。


国土地理院の地図ではこの場所は「橇曳沢溜池」と記載されていますが、なぜかグーグル先生の地図やダム便覧の表記は「橇引沢溜池」になっています。現地の石碑の表記が「橇曳沢」なのになぜこの通りに記載しないんでしょうか。実に不可解です。
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築造の経緯が…千貫石ダム

2024-08-21 06:55:25 | 岩手(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は岩手県胆沢郡金ヶ崎町西根堤袋(いさわぐん かねがさきちょう にしねつつみぶくろ)にある北上川水系宿内川(しゅくないがわ)の千貫石(せんがんいし)ダムを目指します。アクセスは県道37号にある「千貫石森林公園」の表示板のあるところを入っていくと到着します。

左岸、上流側から見た様子。

左岸側にある案内板。

説明書きによると、江戸時代の1618年、伊達政宗(1567-1636)が仙台藩の藩内巡視を行なった際、この下流の六原一帯が開田するのに適していると見立てました。そこで1672年に仙台藩は六原を開拓するため盛岡藩に夏油川(げとうがわ)から取水させてくれと申し入れていましたが、盛岡藩はこれを拒否。そこで水源を現在の地に求め、1682年、この地でため池の築造事業が始まります。ところが着手から3年間は築造した堰堤が毎年大破する事態に。そこで1685年には版築工法に変更します。この工法は土手裏共に石を積めるというものでしたが、なんと土堰堤には牛と釜石出身の「お石」という娘をいわば生贄にしたそうな。

同年7月に仙台藩の四代藩主であった伊達綱村(1659-1719)がこのため池築造現場を訪れた際、そこにあった高さ1.06m、外周1.97mの石を見て「千貫文にも替え難い珍石」と言ったことからその石は千貫石と呼ばれるようになり、ここの地名にもなったそうな。

さて、そのため池は1691年に完成したものの、1777年6月に降った大雨により堰堤が大破。この大破の際、住民は36mの長さの青い光が流れ出るのを目撃したという。それは「お石と牛」の霊と伝えられることになった。そうしたこともあってか、以後150年間このため池は放置されていたようです。その後、1931年に旱魃被害解消を目的とした千貫石農業水利事業ため池築造工事がスタート。それは1940年に現在のため池の原型が完成しました。

ところで、1975年になって千貫石地区の人々の間で「お石」がたびたび夢枕に立つという話が出たため、翌年5月6日に千貫石ため池のすぐ南東に位置する鷹ノ巣山(標高258m)の山頂に「おいし観音」が建立され毎年供養が行われているそうな。

時代は下り、昭和58年(1983年)頃からダム下斜面に湧水がみられ、また取水設備も老朽化したため、1999年から耐震構造技術を駆使した県営防災ダム事業が始まり、2009年に千貫石ダムは完成し現在に至ります。

では、ダム上を歩いてみることにしましょう。左岸側からダム上を見るとこんな感じで、左岸側には洪水吐があります(ガートレールの下が洪水吐の水路)。

橋の上から洪水吐を見ると、なかなか立派なもので、ここから溢れ出た水は、

この水路を通って、あちらへ流れてゆきます。

ダム上に向かう途中には昭和63年災害復旧記念として「滋水」と刻まれた石碑があります。

その隣には「湛水千古 興農貫徹」と刻まれたものがあり、

裏面にはダム事業の沿革と諸元が記されています。それによれば、現在のダムの高さは31.5m、長さは191.0m。ちなみにダム便覧では高さが31.3m、長さは247.5mと記載されていて、また、千貫石の由来も「おいしという若い女性を銭1,000貫で買ってきて、牛とともに人柱にした」ことが由来のように書かれています。ん? これは案内板の記載内容と違いますが、どういうことなんでしょうね。(参考

それはさておき、ダム上、中央から見た貯水側の景色。

一方、下流側の景色はこんな感じ。

対岸(右岸)に来ました。振り返るとこんな感じです。


ため池を築造するのに生贄を必要としたなんて、現代では考えられないことですよね。「お石さん」の冥福をお祈りします。
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再訪したい!…入畑ダム

2024-08-20 07:02:40 | 岩手(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は岩手県北上市和賀町岩崎新田入畑(きたかみし わがちょう いわさきしんでん いりはた)にある北上川水系夏油川(げとうがわ)に築造されている入畑ダムを目指します。アクセスは東北自動車道の北上江釣子(きたかみえづりこ)インターチェンジの南を走る国道107号から県道122号に入り、とにかく県道122号を進んでいくと到着します。

【夏油の由来】
ダム名はそこの地名に由来しますが、そこを流れる夏油川の由来が気になりました。そこで調べてみることにします。夏油川の上流には夏油温泉というのがあるのですが、そこに「夏油」の由来が書かれています。それによると「ゲトウという名前については、アイヌ語の『グット・オ』(崖のあるところ)からきており、冬は豪雪のため(温泉を)利用できなくなるところから、『夏湯(げとう)』と言われ、お湯が夏の日差しでユラユラと油のように見えたので、『湯』が『油』になった」そうな。林野庁のサイトでも同じように説明されています。

まあ、なるほどと思ってしまいますが、念のため国立アイヌ民族博物館アイヌ語アーカイブで確認してみると、間違いがあることに気がつきました。アイヌ語で崖を意味する単語は「クッ(kut)」であり、上の説明のような「グット」ではありません。また「~のあるところ」を意味するアイヌ語は「オチ(-oci)」であることが判明。以上のことからアイヌ語による起源説にはちょっと違うんじゃなかろうかと。だから「夏湯」→「夏油」あたりの説が妥当なんじゃないかと思ったり…。

それはさておき、入畑ダムの全景をご覧にいれます。これは右岸の高台にある入畑ダム展望広場から撮ったものです。

広場の頂上には展望台があり、その壁面には岩崎鬼剣舞なるものが描かれています。岩崎鬼剣舞(いわさきおにけんばい)は北上和賀地方に伝わる鬼剣舞の源流といわれ、その起源は修験道の行者である役小角(えんのおづね:634-701)による念仏踊りとされています。鬼剣舞が北上和賀地方へ伝わった時期は不明ですが、康平年間(1058-1065)に安倍正任(あべのまさとう:生没年不詳)が戦いの出陣と凱旋の際に鬼剣舞を踊らせたことで広く知られるようになったようです。その後、1732年に著された『念仏剣舞由来録』によると、1360年に岩崎城主である岩崎弥十郎が主君の和賀政義を城に招き剣舞を踊らせたという記述があることからこれが岩崎鬼剣舞と呼ばれるようになったとも考えられます。なお、岩手県の鬼剣舞は1993年12月13日に国の重要無形民俗文化財に指定されています。


では、いよいよ入畑ダムへ向かおうとしたんですが、訪れた時は何と落石のため通行止めなのでした。うーむ、残念。


参考までに入畑ダムについて記しておきます。このダムは岩手県の県土整備部が管理しているダムで、治水、上水道、工業用水、発電、灌漑などを目的とした重力式コンクリートダム。昭和52年に建設が開始され、平成2年(1990年)10月に竣工。高さは80.0m、長さは233.0mだそうです(参考)。なお、ダム下には岩手県企業局 入畑発電所があり、発電所自体はダムが竣工する半年前の1990年4月より運用を開始しているようです。

次回訪れることがあれば、今度はダム上を歩いてみたいなあ。
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クッキーシュー、再び

2024-08-19 06:59:12 | 脳みその料理
どーも、ワシです。いや〜、ホント、暑いですなぁ。こんな時はアイスクリームもいいんですが、なんとなくクッキーシューが食べたい気分になりました。

というわけで完成したのがこちら。中に入れたのはコーヒークリーム。


ボリュームがあるのでひとつ食べれば十分。上部のクッキー生地もサクサクでウマウマ。


今日も元気で頑張ろう!
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和賀川のダム(3)…湯田貯砂ダム

2024-08-17 13:01:13 | 岩手(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。えー、前回記事にした湯田ダムのすぐ上流に北上川水系和賀川の湯田貯砂ダムというのがあるようなので行ってみることにします。住所は岩手県和賀郡西和賀町川尻。地図を見ると国道107号の川尻トンネルを抜けた先のT字路を「←貯砂ダム」方面へ行くとあるらしい。川尻総合公園を右に見ながらその先を右折。少し行くと和賀川を渡る橋があり、そこからダムを見ることができます。

到着しました。橋の中心から上流方向にあるダムを見ます。んん? これか?

まあ、もっとも、貯砂ダムなのですから上流から流れてくる土砂をここで貯めて下流へ行かないようにするのが目的なのでしょう。だから貯水ダムと違って高さがないのは当然と言えば当然なんですね。調べてみると、この貯砂ダムは下流の湯田ダムの堆砂を防ぎ、ダムの長期的効用を図る目的で平成9年度から貯水池保全事業により建設が開始され、平成14年(2002年)10月に完成したそうな。ただし、高さや長さの諸元データは不明(参考)。ちなみに夏季は貯水量が増えるため、この貯砂ダム自体が水没することもあるらしい。

一方、橋から下流方向を眺めます。この先に湯田ダムがあるんですね。

そんなわけで貯砂ダムの見学は終わったのですが、左岸にある川尻総合公園のデザインはなかなか面白いです。家族連れで行くには良いかも。


とりあえず、和賀川のダム巡りはこれにて終了。
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和賀川のダム(2)…湯田ダム

2024-08-16 16:21:43 | 岩手(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は岩手県和賀郡西和賀町にある北上川水系和賀川の湯田ダムを目指します。アクセスは国道107号の大荒沢スノーシェッドの途中にダムへの入口があるのでそこを入っていくと到着します。

さて、北上川水系には五大ダムといわれるものがあり、この湯田ダムは田瀬ダムの次に完成した三番目のダムです。せっかくなので五大ダムが完成した順に記しておきましょう。

ダム名    完成年月
石淵ダム   1953.06
田瀬ダム   1954.10
湯田ダム   1964.10
四十四田ダム 1968.10
御所ダム   1981.10
胆沢ダム   2014.03

ここには6つのダムがありますが、石淵ダムは胆沢ダムの完成とともに水没したので現在は見ることはできません。

てなわけで、湯田ダムに到着しました。おー、アーチ型の重力式コンクリートダムですね。

案内板。高さ89.5m、長さ265.0mという堂々たるダムです。ちなみに案内板では昭和40年(1965年)に完成とあり上の表と違っていますが、おそらくこれはダム全体が竣工した年と思われます。

左岸側から見たダム上。アーチ型であるのがよくわかります。では、歩いてみましょう。

ダム上、中央から見た貯水側の景色。

一方、ダムの真下を覗き込み、

下流方向を眺めます。写真左側に見える赤い線のようなものはスノーシェッド。

対岸(右岸)に来ました。振り返るとこんな感じ。

そこからダム下を見下ろします。副ダムに溜まっている水の色に注目!

右岸側から見た貯水湖の様子。

左岸側に見えるのが「湯田ダム管理支所」。


そこからダムはこんな風に見えます。

近くにある湯田ダム概要の説明。これによると当該ダムは洪水調節、灌漑、発電を目的とした多目的ダムらしい。また、ダム湖名は「錦秋湖」。その由来は「湖の周辺が紅葉で錦のように彩られる」ことにちなんでいるそうな(参考)。

「慰霊」と刻まれた石碑。

裏にはダム建設中に亡くなられた15人の名が記されています。合掌。


前回記事にした石羽根ダムも相当なものでしたが、和賀川上流にまさかアーチ型のダムがあるとは思いませんでした。
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和賀川のダム(1)…石羽根ダム

2024-08-13 06:53:38 | 岩手(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。えー、今回から北上川水系の和賀川(わがかわ)に築造されているダムを辿っていきます。最初に向かうのは岩手県北上市和賀町横川目(わがちょう よこかわめ)4地割にある石羽根ダムです。アクセスは国道107号沿いにある「東北自然エネルギー(株)石羽根発電所」の看板のある交差点を和賀川方面へ入っていくと到着します。

そのまま進むとダムの左岸横に到着しますが、右岸から見るとダムはこんな風に見えます。

では、左岸からのアクセスで順番に見ていきましょう。国道から入ってくるとこんな光景が目に飛び込んできます。

左岸、ダム横から見た様子。歩いていきます。

ダム本体に嵌め込まれたプレート。これを見ると当該ダムは石羽根発電所のために築造されたことがわかります。上のリンク先のデータによると、このダムは高さ20.5m、長さ283.0mの越流型直線重力式コンクリート・フィル複合ダムだそうですが、気になったのはダム名の「石羽根」。これは左岸ダム横の地名なんですが、その読み方が国土地理院の地図では「いしぱね」と表記されているんです。ところがダム便覧をはじめそれ以外の表記はすべて「いしばね」なんですよね。国土地理院の地図ではわざわざ「ぱ」と表記しているので単なる誤植とも思えません。いったいどちらが正しいんでしょうね。

さて、ダム上、中央から見た和賀川の上流方向はこんな感じ。

左岸側には何かの装置が見えます。あとで行ってみることにします。

洪水吐から勢いよく流れ落ちる水。

そして下流方向の遠景。写真左側に見える水路はなんだろう…。

対岸(右岸)に来ました。振り返るとこんな感じ。写真右下に見える屋根のところが石羽根発電所。

先ほど見えた左岸にある「装置」に行ってみます。どうやら取水装置のようですね。



近くにある水利使用標識。灌漑のために取水されるもので、ここから取水された水は先ほど見た水路を通って下流へ向かうようです。

この取水装置は新しく見えますが、この石碑を見ると取水堰自体は昔からあったようです。内容を転記すると次の通り。

「   植樹記念碑
和賀川の流れは永遠である。改良区の幹線水路は三百年前、元祖奥寺氏が和賀川から取水した上堰を、大正十五年県営事業で改修し、石羽根ダムは昭和二十六年東北振興化学工場が築造した。改良区は農業用水優先を前提とする契約の下に取水している。この流れを近代河川に改修し、豊水を後世に伝え、良質米の主産地としたい。幸いに明治百年祝賀の年、昭和四十一年国営和賀中央水利事業が採択、着工、これが完成こそ吾ら最大の念願である。
緑の山と清流は人心を和らげる。奥寺氏三百年、国営和賀中央事業採択、着工、明治百年を記念植樹した。
  昭和四十一年五月一日
    和賀中央土地改良区
      理事長 照井一郎」


和賀中央土地改良区は、他の四つの改良区(更木島東部、鬼柳、和賀川、千貫石)と合併し、現在は岩手中部土地改良区と改称されていますが、この地域の水田開発はなんと文治5年(1189年)頃から和賀一族により開始されたそうな(参考)。和賀川の名称はこれに由来するのかもしれません。また、元祖奥寺氏とは江戸時代前期の盛岡藩士で、建物の建設や修理を司る作事奉行(さくじぶぎょう)を務めた奥寺八左衛門(おくでらはちざえもん:1628-1686)のこと(参考)。

こうしてみると、石羽根ダムはそれ自体が同発電所のために築造されたものですが、実は古くからあった上堰に付随する形で建設されたものであることがわかると思います。
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鍋倉新田用水路からの…新田堰頭首工

2024-08-12 06:59:37 | 岩手(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は岩手県花巻市湯口志戸平(ゆぐち しどだいら)にある北上川水系豊沢川に設置されている新田堰(しんでんせき)頭首工を目指します。まあ、目指すというよりも実は当初ここは訪れる予定でなく、前回記事にした豊沢ダムに向かって県道12号を登っている途中で見かけたというのが実際のところなんですけどね。「あ、なんか、あるじゃん」ってな感じで。

これが新田堰頭首工。よく見ると豊沢川の右岸側にはゴム堰(ゴム引布製起伏堰)があるじゃあ、あーりませんか!

この頭首工名の「新田堰」は江戸時代初期に開田された鍋倉新田(なべくらしんでん)に由来します。そのための用水路が天和(てんな)三年(1683年)頃に作られたそうな。

で、現在の新田堰頭首工で取水した水は、ここから直線距離にして約1.8km下流のところにある花巻市クレー射撃場近くの大分水工で南北にさらに分水され、それぞれ北幹線水路と南幹線水路として周辺の農地の用水として供給されています。
また、同頭首工で分水した水は灌漑だけでなく上下水道の取水、防火用水、発電、生活排水浄化のための水としても用いられており、地域住民にとって重要な施設になっています。


頭首工の建物の壁面には複数の水利使用標識が貼られていて、それぞれの目的の欄を見ると上に書いた「灌漑、水力発電、上水道用水」のための使用標識であるのがわかります。


ざっと水の流れを追ってみます。上流方向から流れてきた水は、

この頭首工で堰き止められ、

この赤色の取水口で分水されます。

実際にはその下部にある赤色のバー・スクリーンのところから取水されます。

頭首工の管理橋の中央から見た下流方向の様子。取水された水は写真左側の水路を通って下流の大分水工へ。一方、右側が豊沢川になります。写真中央に見えるのはお魚さんたちが川を遡るための魚道。なにしろ上に書いたように豊沢川の右岸側はゴム堰で堰き止められてますからお魚さんたちが上流へ行くには魚道を行くしかないわけです。

分水された水の量を見てもわかるように、豊沢川本流の水量よりも大量の水がこの水路を流れていきます。これが下流の農地にとって生命の水となるわけですね。


江戸時代に作られた鍋倉新田用水路は、現代では新田堰頭首工という形で受け継がれているんですね。ちなみに新田堰頭首工は平成11年3月に事業が採択され、同13年1月に工事安全祈願祭が行なわれます。そして同16年(2004年)8月に完工式が挙行されたようです(参考)。
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