ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

ぬのべじゃないよ…布部ダム

2024-09-30 07:00:29 | 島根(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は島根県安来市広瀬町布部(やすぎし ひろせちょう ふべ)にある斐伊川(ひいがわ)水系飯梨川(いいなしがわ)の布部ダムを目指します。アクセスは国道9号から側道を下りて国道432号を八雲(やくも)方面へひたすら進んで行くと到着します。

【飯梨川の由来】(参考
733年に完成した『出雲国風土記』によると、飯梨という地名はもともとは「飯成」であり、大国魂命(おおくにたまのみこと)がそこで食事をしたことに由来するそうな。その後、726年になって飯成は飯梨と改められたという。

【安来/布部の由来】(参考)(参考
市名の安来は『出雲国風土記』によると、その昔、素戔嗚尊(すさのおのみこと)がこの地を訪れた際、「吾が御心は安平(やす)けくなりぬ」と言ったことから「安来」になったという。また、布部はかつてこの地に布を生産する職業集団がおり、それを朝廷に献上していたことに由来するようです。

そんなこんなで、まずはダム下へ行って「御尊顔」を仰ぎます。

続いて、国道432号に戻り、ダム横へ向かいます。おお、なかなか大きなダムです。

近くにある「布部ダムのあらまし」。それと、上のリンク先の説明によれば、当該ダムは洪水調節、発電、都市用水の確保を目的とした多目的ダムで、型式は重力式コンクリートダム。高さは55.9m、長さは190.0m。昭和39年4月、飯梨川総合開発事業として飯梨川と東比田川の合流地点で築造が始まり、昭和43年(1968年)に完成したものだそうです。

実際の竣工は1968年3月。

左岸のダム横には「島根県布部ダム管理所」があります。

左岸から見たダム上の様子。曲線を描いているように見えますが、アーチ式ではなく左岸側が少しカーブしているだけです。

ダム中央のオリフィスゲートの建物の壁面にはダム完成50周年を記念して島根県立情報科学高校美術部の生徒が描いた絵に安来市立布部小学校全児童(24名)の手形を押したものが飾られています。


ダム上、中央から見たダム湖(白椿湖:しろつばきこ)の様子。

ダム下を覗き込みます。

そして、下流側の遠景。

右岸側の白椿湖の壁面には制限水位と常時満水位の表示があります。

対岸(右岸)に来ました。振り返るとこんな感じ。

右岸、下流側から見たダムの様子。


前回の山佐ダムでも書いたように、布部ダムと山佐ダムは松江県土整備事務所広瀬事業所が管理しており、山佐ダムのある山佐川は布部ダムから流れ出た飯梨川に合流して中海へ流入します。その中海から境水道を経て日本海に至るのですが、境水道までは斐伊川なので水系としては斐伊川水系になるんですね。
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山佐ダム

2024-09-29 07:02:32 | 島根(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は島根県安来市広瀬町上山佐(やすぎし ひろせちょう かみやまさ)にある斐伊川(ひいがわ)水系山佐川の山佐ダムを目指します。アクセスは国道9号から県道45号へ入り、そのまま道なりに進んでいくと到着します。

リンク先の説明によると、山佐ダムは昭和48年に山佐川総合開発事業として上水道用水の確保と洪水調節を目的として着工されたとあります。それにより水不足に悩まされていた松江市と出雲地方東部へ水の供給が可能になったとか。

で、到着しました。こんなダムです。

近くにある案内図。それによると、山佐ダムは洪水調節、水道用水の確保、発電を目的とした多目的ダムで、高さ56.0m、長さ220.0mの重力式コンクリートダム。あれれ、リンク先の説明では発電がありませんでした。ということは発電はあとから目的のひとつに追加されたのかな? 案内図をよく見ると発電はダム直下の山佐発電所で2020年9月から開始しているそうです。なるほど。


ダム湖名は「山美湖(やまびこ)」。なかなかおしゃれなネーミングですね。

左岸、山美湖側にあるのが「島根県山佐ダム」の管理所。


管理所あたりからダムはこんなふうに見えます。

では、ダム上を歩いてみましょう。

竣工は昭和55年(1980年)3月。

山佐川を堰き止めて築造されたもののようです。

ダム上、中央から見た山美湖の様子。

ダム下を覗き込みます。

そして、下流側の遠景。

対岸(右岸)に来ました。振り返るとこんな感じ。

定礎は昭和53年10月。

左岸、下流側から見たダムの様子。


山佐ダムは島根県広瀬土木事業所が管理していて、次回向かう予定の布部ダムも同事業所が管理しているそうな(参考)。同事業所の正式名称は「松江県土整備事務所広瀬土木事業所」なのですが、一見すると「松江県」のように見えて「あれっ?これは誤植?」と思ってしまいますが、間違いではないようです。
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笑いの絶えぬ例会

2024-09-28 07:04:47 | 脳みその料理
どーも、ワシです。最近は何かと忙しくてブログの更新ができませんでした。すみません。さて、昨晩は例会をしたのでその模様を。参加者はいつものメンバーに加え、ゲストには横浜から駆けつけてくれた同級生のNさん。で、ワシが用意したアテがこちら。


もやしとモロッコインゲンのナムル、牛肉のしぐれ煮、だし巻き、鶏の唐揚げ、エビフライ、キュウリの浅漬け。

エビフライの横にあるのは自家製のタルタルソース。今回も好評でした。

キュウリの浅漬けには南高梅の梅肉と塩昆布を混ぜ、上に鰹節を振りかけました。

ナムルのモロッコインゲンはメンバーMの畑で採れたもの。

牛肉のしぐれ煮は久しぶりに作りました。これも好評。


Nさんはなかなかのムードメーカーで、会を盛り上げてくれました。メンバーのH君が途中から爆睡なのはいつものこと。しかしそんな彼を尻目に残りのメンバーは話題が尽きず、あっという間に時間が過ぎてゆきました。いや〜、楽しかったです。
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松江市水道事業発祥の地…千本ダム

2024-09-22 07:02:02 | 島根(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は島根県松江市西忌部町(にしいんべちょう)にある斐伊川(ひいがわ)水系忌部川(いんべがわ)の千本(せんぼん)ダムを目指します。アクセスは国道9号の松江西インターから県道24号に入り、道なりに進んでいくと到着します。

見えてきました。これのようです。

まずはダム下へ行ってみます。

ダム本体に付されているプレートには「放乎四海」と刻まれています。これはどんな意味なんでしょうね。

幸いにもその説明が隣にあります。その出典は『孟子』巻之八離婁下に「孟子曰、源泉混混、不舍晝夜。盈科而後進、放乎四海。」があり、意味は「孟子が言うには、源泉から渾々と昼夜の別なく流れ出た水は窪みがあれば満たして進み、やがて四海に至る」。また「経百年而復定礎」とは大正7年(1918年)3月に完成した千本ダムが築造百年を経て補強改修が行われたのを機に、松江市の水道事業を象徴する言葉として再び定礎したと言う意味だそうです。

そして、2008年には国指定登録有形文化財に登録。ダムの高さは15.96m、長さは109.09mの越流式直線重力粗石コンクリートダム。

ダム周辺の地図。

令和2年(2020年)12月には耐震化改修工事が行なわれました。

その際に使われたPSアンカーの断面。

副ダムの末端のところには忌部川水管橋があり、設置は2017年10月。


ダムへ近寄り、改めて落水の様子を眺めます。確かに石積みの工法は大正時代のダムや堰堤にみられるものですね。

では、県道に戻り、ダム横へ向かいます。ダム横にも諸元表があります。

お馴染みの水利使用標識。

右岸、ダム横から見た様子。残念ながらダム上には行けません。

そこから見た上流側の景色。


上の説明にもありますが、千本ダムは松江市水道発祥の地だそうで、まさしくそのシンボルといえるでしょう。ちなみにダム名は右岸側の地名に由来します。
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ほんの10℃の違いで…

2024-09-21 07:00:19 | 脳みその料理
どーも、ワシです。クッキーシューを作って、中に生クリームを入れたのですが中途半端に余ってしまいました。

そこで、やはり余った玉子を使ってマドレーヌを作り、余ったクリームを雑にデコレート。

今回気づいたのはマドレーヌを焼く温度。上の写真を見るとわかるように、貝型のは焼き色が薄いですよね。これは170℃で15分焼いたものです。一方、下の釣鐘型のは180℃で15分焼いています。

ここからわかるのは、たった10℃の違いで焼き色が変わるということ。まあ、当然といえば当然なんですが、比較してみると「なるほど、温度設定には意味があるんだな…」と改めて感じた次第。

ホント、料理ってのは科学実験みたいなものだと思いますね。
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なぜ「新」が付く?…まむし谷池

2024-09-17 14:41:12 | 島根(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回はグーグル先生の地図で島根県松江市大庭町に「新蝮谷池(しんまむしだにいけ)」というのを見つけたので行ってみることにします。アクセスは国道432号沿いにある出雲かんべの里の看板のあるT字路を入り、県道248号を進み突き当たりを左折します。そのまま行き、大きな右カーブのところに斜め手前左に入る道があるのでそこからは歩いて向かいます。

ここはダム便覧に掲載されているダムですが、そこでの河川表記は斐伊川(ひいがわ)水系大庭川となっています(参考)。しかし、大庭川は意宇川(いうがわ)に合流し、その後、中海に流入し日本海へ至るので意宇川水系のようにも考えられますが、どうやら斐伊川は中海から境水道までであり、意宇川がそこに流入するのでダム便覧の表記は間違いではないようです。

到着しました。これが左岸から見た、いわゆるダム上になります。

左岸の池側から見た様子。

ダム上、中央から見た池の様子。

一方、下流側を眺めます。向こうに見えるのは松江市内の景色。

対岸(右岸)の手前にある橋。この橋を渡ると右岸になります。

橋を渡って振り返るとこんな感じ。

この橋は洪水吐からの水路になっていて、写真ではわかりにくいですが、洪水吐は越流式になっています。

そして、洪水吐から溢れ出た水はこの水路を通ってあちらへ流れてゆきます。

近くにある表示板。「まむし谷池」とあります。


ん? ダム便覧には「新蝮谷池」と表記されていますが、現場の表に「新」の文字は見当たりません。これはどういうことなんでしょうね。現場には案内板などがないので築造の経緯も含めなんともいえません。ただ、当ブログでは現場表記を重視するので「まむし谷池」としておきます。ちなみにダム便覧によると高さは16.0m、長さは80.0mのアースダムとのこと(参考)。
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ヨーグルトムース+α

2024-09-16 06:58:09 | 脳みその料理
どーも、ワシです。ヨーグルトムースを作りました。新機軸は上部のスポンジケーキにマンゴーとオレンジのミックスソースを染み込ませています。これがまた爽やかでヨーグルトの酸味に合う!



まだまだ暑い季節にはピッタリ。
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堰堤だったのか…深町池

2024-09-15 06:59:24 | 島根(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は島根県松江市西川津町(にしかわつちょう)にある深町池(ふかまちいけ)を目指します。アクセスはイオン菅田店前を走る国道431号を北上し城北通りに入り、最初のT字路を曲がります。そして今井書店 松江外商部手前のT字路を入っていくと到着します。

その道がいわゆるダム上の道になっていて、道沿いには松江市上下水道局が管理する深町ポンプ場(平成11年3月完成)があります。


それを過ぎるとダム上になります。

ダム上、中央から見た深町池の様子。

一方、下流側を見ると松江市内が見えます。

左岸側には洪水吐があり、草に覆われていますが越流式のようです。そして、増水すると水はここから溢れ出で、

この水路を通って、あちらへ流れてゆきます。

対岸(左岸)に来ました。振り返るとこんな感じ。写真手前の橋のところが洪水吐の水路。


ここには案内板がありません。で、調べてみると松江市ため池ハザードマップによれば深町池(no.55)は高さが14.0mなのでダムではなく堰堤のようです。ダムに相当する高さ15.0m以上のため池は松江市にいくつもあるようなので機会があればそのうち行ってみようと思います。なお、「深町」はここの地名のようですが詳細は不明です。
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恨み節?…鵜ノ池堰堤

2024-09-14 06:57:09 | 鳥取(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は鳥取県日野郡日野町下黒坂(ひのぐん ひのちょう しもぐろさか)にある日野川水系下黒坂川の鵜ノ池を目指します。グーグル先生の地図を見ていたら「鵜ノ池堰堤」というのがあったので行こうと思ったわけですが、ここはダム便覧には登録されていません。とりあえずどんなものなのか向かってみることにします。アクセスは県道46号から鵜の池公園キャンプ場に入るところにあります。

到着しました。池ですが、確かに堰堤がありますね。

鵜ノ池は奥日野県立公園に属しているそうな。

【鵜ノ池の由来】
昔、隣村に卯野左内という浪人がいて、その娘のお藤が池のほとりで友達とわらび取りをしていた時、この池に落ちて溺死してしまったという。お藤は賢く器量も良かったことから村の者が皆悲しんだそうな。お藤の母親は「前の晩、不思議な夢を見た。お藤が白い顔をして『私は今、下界に生まれてきているけれど、元来天上の神としていなくてはならないものだ』と言って姿を消した」と語った。その白い顔はお藤が池に落ちた時、岸に立つ友達を見てにっこりと微笑みながら沈んでいった姿に似ているということからお藤を神様として祀ることになったという。それ以降、この池を「卯(鵜)の池」と呼ぶようになったそうな。うーん、ならば「藤の池」でいいんじゃないの?と思うのはワシだけでしょうか。

それはさておき、これが右岸側から見た、いわゆるダム上になります。歩いてみましょう。

ダム上、中央から見た鵜ノ池の様子。

一方、堰堤の下を覗き込むとこんな感じ。

対岸(左岸)に来ました。振り返るとこんな景色。写真左に見えるのは県道46号。

左岸には「堰堤改築記念碑」があり、

裏側には「昭和10年12月竣工」と刻まれています。

記念碑正面の下には「鵜ノ池返還記念」と題されています。これは昭和56年12月24日とあるので後年になって設置されたものであるのは明らかですね。

以下はその内容を転記しておきます。

「鵜ノ池返還記念
一、コノ池ハ我々ノ祖先カラ、古来幾多ノ危険ヲオカシ、年々歳々、堰堤ヲ築造シ、飲用灌漑等ノ多目的ニ使用シ今日マデソノ維持管理ヲシテ来タ
一、大正二年法令ニ依ル部落有財産統一ニヨリ、旧黒坂村ニソノ使用慣行ヲ永久ニ認メル条件ノ下ニ寄附シタ
一、大正十一年時ノ山陰電気株式会社ト旧黒坂村長トノ間ニ発電事業ノ契約ガ行ワレタ
一、昭和十五年七月、日本発送電株式会社ニヨツテ発電開始トナツタ
一、昭和二十七年旧黒坂町ヨリ一部池敷(新湛水敷)ガ無償払下ゲトナツタ
右ノ経過ニヨツテ旧池敷ハ合併日野町ニ引継ガレ町有ノママトナツテイタ。
昭和四十六年ヨリ部落民ハコノ部落固有ノ財産ノ払下ゲニツイテ町ニ陳情シ数多ノ困難ヲ重ネ昭和五十四年日野町議会ノ払下ゲ決議ヲ得タノデアルガコノ執行ハ容易デハナク、町議会・部落トノ折衝ノ結果十年間ヲ要シ昭和五十六年十二月二十四日町議会ニオイテ政治的解決トナツタ。部落ハ鵜ノ池周辺林野六五三〇九㎡ト現金五〇〇万円ヲ町ヘ寄附スルコトヲ条件トシテ旧池敷一六三、六三六㎡ノ払下ゲヲ受ケルコトトナツタ次第デアルガ部落ハ涙ヲノンデコノ条件ヲ受ケザルヲ得ナカツタノデアツテコノコトヲ子々孫々ニ伝ヘルベク茲ニ記スモノデアル
 昭和五十六年十二月二十四日  下黒坂部落」

いや〜、下黒坂の人々の悔しい気持ちが滲み出てます。恨み節って感じですね。なお、堰堤の諸元についてですが、高さは14.5mと記載しているサイトがありますが典拠が不明なので、これはあくまで参考データとみたほうが良さそうです。
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揚水発電の下池…俣野川ダム

2024-09-11 06:56:13 | 鳥取(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は鳥取県日野郡江府町武庫(こうふちょう むこ)にある日野川水系俣野川(またのがわ)の俣野川ダムを目指します。アクセスは国道181号から県道113号へ入り、俣野川トンネルを抜けた先を右折していくと目的地になります。

到着しました。こんなダムです。でも、いきなりダム横に到着するのではなく、その手前には、

中国電力株式会社 俣野川ダム管理所があります。


ダム横には水利使用標識があります。発電を目的としたもので、ダム下にある俣野川ダム発電所についての使用標識のようです。

右岸、ダム横から見たダム上。では、歩いてみましょう。

いわゆる親柱の部分に嵌め込まれたプレート。1984年12月竣工。

ダム上、中央から見た貯水側の景色。

ダム下を覗き込みます。

ダム下にある四角い建物が俣野川ダム発電所。

そして、下流方向の景色。

対岸(左岸)に来ました。振り返るとこんな感じ。

左岸、貯水側から見たダムの様子。

ダム横周辺には俣野川ダムについての案内板がないので諸元等の情報が不明だったのですが、県道から入ってくる途中にある俣野川発電所ご案内ホールのところに俣野川ダムについての情報が…。これによると、俣野川ダムは高さ69.3m、長さ185.0mの重力式コンクリートダムだそうな。ところがこのダムは単体のダムではなく、県を跨いだ岡山県真庭郡新庄村にある旭川水系土用川の「土用ダム」(未見)を上池とし、この俣野川ダムを下池とする揚水発電のダムらしい。そして俣野川ダムの上流の地下に揚水発電をするための俣野川発電所が置かれていて、先ほど見た俣野川ダム発電所は同ダム単独で発電されるもののようです。



そういうことなら、土用ダムにも行かなくちゃならんな(笑)
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大山町へ供給!…下蚊屋ダム

2024-09-10 06:57:59 | 鳥取(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は鳥取県日野郡江府町助澤(こうふちょう すけさわ)にある日野川水系俣野川の 下蚊屋(さがりかや)ダム を目指します。アクセスは国道482号沿いにあるので迷うことはないでしょう。

【下蚊屋の由来】(参考
ダム名の「下蚊屋」はダムの上流側の地名に由来します。では、地名の由来は? 気になるので調べてみました。一説によると、その昔、後醍醐天皇(1288-1339)がここで休息された際、「蚊はいないから蚊帳を吊る必要はない」と言って休息場所の蚊帳を下げられたことに由来するそうな。ほうほう。

到着しました。こんなダムです。

右岸側から見たこの景色、実は「下蚊屋ダム管理事務所」からこんな感じに見えます。


近くにある水利使用標識。灌漑を目的としたダムのようですね。

ダム横にある「下蚊屋ダム」と刻まれた石碑。裏には平成13年(2001年)12月竣工と記されています。


その近くには下蚊屋ダムの案内板があります。それによると、このダムは高さ55.5m、長さ210.0mの中心遮水ゾーン型フィルダムで、貯水された水はなんと日本海に面した大山町(だいせんちょう)まで水路(40.2km)によって運ばれるそうな。

築造当初は灌漑を目的としたダムでしたが、その後、ダム下に下蚊屋発電所が建設され、2015年7月3日より運用が開始されています。

では、ダム上を歩いてみることにしましょう。手前に見える橋の下には洪水吐の水路があり、

橋から見ると、このような越流式の洪水吐になっていて、

溢れた水はこの水路を通ってあちらへ流れてゆきます。

ダム上をさらに進み、中央から貯水側を眺めます。

一方、下流側はこんな感じ。

対岸(左岸)に来ました。振り返るとこんな感じ。

左岸、下流側から見たダムの様子。比較的なだらかな傾斜になっています。

同、上流側からダムを見るとこんな感じ。

左岸の高台から眺めてみました。


大山町には1993年に築造された「川手川第二ダム」(未見)なるものがあるようですが、おそらくそれだけでは大山町の田畑への農業用水が足りず、この下蚊屋ダムが築造されたのかもしれませんね。
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ナイスな組み合わせ

2024-09-09 10:53:53 | 脳みその料理
どーも、ワシです。ヨーグルトムースとブルーベリーソースの組み合わせは最高です。



ブルーベリーソースを作る際、手を抜いて網で漉さなかったためゴツゴツになってしまいました。いや〜、うっかり、うっかり。
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湯原第二発電所のための…社口ダム

2024-09-08 14:32:21 | 岡山(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は岡山県真庭市社(まにわし やしろ)にある旭川水系旭川の社口(やしろぐち)ダムを目指します。アクセスは国道313号から「奥津/社」方面へ向かい、そのまま道なりに進んでいくと目的地に到着します。

社口ダムは前回記事にした湯原ダムの下流にあり、やはり中国電力が管理しているダムです。で、県道56号からみるとこんな感じ。取水堰堤っぽく見えますが、高さは16.15m、長さは75.0mなので立派なダムといえるでしょう(参考)。

左岸の県道沿いにある水利使用標識。もちろん目的は発電ですが、ここで取水した水は直線距離にして12km離れた旭川沿いにある湯原第二発電所へ送水されて発電に使用されます。(上の参考サイトにデータがあります)

その下には社口ダムの平面図。

上流側から見たダムの様子。


ここはフェンスでガードされていてダムに近づくことはできません。で、ダムはいつ竣工したのでしょうか。上の参考サイトによれば、湯原第二発電所の運用開始が1954年11月なので社口ダムの築造も同時期と思われます。
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ダム下には温泉も…湯原ダム

2024-09-07 13:08:54 | 岡山(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は岡山県真庭市湯原温泉(まにわし ゆばらおんせん)にある旭川水系旭川の湯原(ゆばら)ダムを目指します。アクセスは国道313号沿いに湯原ダム入口の表示板があるのでそこを入り、県道322号を進んでいくと目的地に到着します。 

その前にダム下へ行ってみます。ダム下には湯原温泉があり、露天風呂を楽しむことができるようです。ですが、ワシは興味がないのでダムの「御尊顔」を拝みます。

では、県道に戻り、ダム横へ。こんなダムです。

左岸、ダム横には「岡山県美作県民局 湯原ダム管理事務所」があり、


その壁面に案内板が貼られています。これによれば、湯原ダムは高さ73.5m、長さ194.4mの重力式コンクリートダムだそうです。


【築造の経緯】
昭和23年(1948年)、岡山県は「旭川総合開発計画」を立案。同時期に「中国地方電力増強5ヶ年計画」による湯原発電所の建設計画を発表したことを受け、中国電力株式会社は治水と利水の両方を目的とする多目的ダムの建設を開始します。同年から実地調査が行なわれ、昭和27年から工事に着手。そして昭和30年(1955年)3月29日に完成しました。

管理事務所の横には二種類の水利使用標識がありますが、取水量の数値以外同じものです。これはどういうことなんでしょうか。調べてみると湯原ダムは二つの発電所へ送水しており、この水利使用標識はここから直線距離にして約1.8km下流にある湯原第一発電所で発電するためのもの。

もうひとつの水利使用標識はダム下にある湯原堰堤発電所で発電するためのもののようです。

左岸のダム横にある湯原発電所についての諸元表。ここには湯原第二発電所も記されていますが、これは下流にある社口(やしろぐち)ダムから送水され発電に使用されます。

では、ダム上を歩いてみることにしましょう。

いわゆる親柱に相当するところに嵌め込まれたプレート。完成当時の名称は「湯原堰堤」だったんですね。

ダム上、中央から見た上流側の景色。

ダムの真下を覗き込み、

下流方向を眺めます。写真下あたりに露天風呂があります。

対岸(右岸)に来ました。振り返るとこんな感じ。

竣工時期を記したプレート。

右岸、上流側から見たダムの様子。


訪れた際、ダム下の湯原温泉には多数の観光客がいました。ただ、ダム下には駐車スペースがないので路駐してダム下へいかなければならないのでご注意ください。
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愛吉と傳吉の想い…狼谷溜池(大山池)

2024-09-06 06:53:26 | 鳥取(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は鳥取県倉吉市関金町松河原(せきがねちょう まつがわら)にある天神川水系小鴨川の狼谷(おおかみだに)溜池を目指します。アクセスは県道50号から関金一般農道へ入り、そのまま進んでいくと目的地は左側にあります。

到着しました。なかなか大きな池です。

これが左岸から見た、いわゆるダム上になります。

狼谷溜池は天神野(てんじんの)土地改良区が管理する水利施設で、平成22年にため池百選に選定されたそうな。ただ、狼谷の由来は不明。かつて狼が生息する谷だったんでしょうか…。

狼谷溜池それ自体は天神野耕地整理事業によって作られた人工池で、堤防から水面を見ると大山(だいせん:標高1,729m)がまるで「逆さ富士」のように見えることから別名「大山池」と呼ばれるようになったとか。そもそもこの池は大正13年頃に天神野一帯の灌漑用水として作られた池で、水田の規模が拡大したことから池も拡張されていきます。

また、この周辺には縄文時代から奈良時代にかけての遺跡が発掘されていて、「大山池遺跡」として研究対象となっているようです。

周囲の水田の拡張により狼谷溜池も昭和18年4月から拡張し、昭和20年に一旦は完成したものの、さらなる拡張工事が続きます。そして、昭和25年3月に増築工事が竣功。高さ27.9m、長さ519.0mの規模となって現在に至ります。その記念碑がこれ。


この記念碑の近くには狼谷溜池築造のきっかけを作った立役者である山根愛吉(やまねあいきち:1857-1937)を讃える石碑が立っています。彼は天神野台地の開発計画を立案し、近隣町村と交渉するなどして地域に尽力したそうな。(参考

その裏側には山根の偉業が記されていますが、これを著した益田傳吉(ますだでんきち:1856-1948)も天神野台地の開墾事業に貢献した人物として知られています。大正9年から昭和21年まで天神野耕地整理組合の組合長という重責を担い、開墾事業に必要な費用を私財を投げ打って工事の続行に当てたといいます。その思想の根底には「勤勉と倹約で蓄えた富を地域社会に活かせ」という農政者、二宮尊徳(1787-1856)の報徳精神があったようです。(参考


各地の溜池を巡っていますが、共通するのはそれぞれの溜池の築造には地元のエネルギッシュな名士がいて、彼らの自己犠牲を惜しまない利他精神が形となって現われ、地域の人々の生活を良くしているということ。これは本当に素晴らしいことだと思います。そう考えると現代の我々はなんと利己的なのだろうかと思いますね。よく「自分のことだけを考えるのに精一杯」などと言いますが、それは言い換えるなら「自分は器の小さい人間だ」と告白しているようなもの。そんな人が増えているからなのか、現代には小粒な奴だらけ。これが良くも悪くも社会に影響を与えるような「でかい奴」がいない理由なんじゃないかと思います。

ワシも「でかい人物」になりたい(願望)。
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