ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

元気をもらう

2006-03-30 07:30:48 | 脳みその日常
昨日は昼まで原稿にてこずる。そしてようやく完成。それをメールで送りホッとしていたら若い後輩のIさんからメールが届く。来月から小学校の先生に正式採用となるらしい。いやー、めでたい。

今の時代、教員になるのは大変だ。一般大学の教育学部を卒業した人ですらなかなか合格しない。そうしたなかにあって音大出身の彼女は見事に難関を突破。本人は何としても教員になりたいと語っていただけに喜びもひとしおだろう。

ワシは何もアドヴァイスしたわけじゃないし、ましてや教員でもない。ただ見守る立場だったのだが、採用の知らせを聞いて本当に嬉しい気持ちになった。思わず、ひとり、部屋でガッツ・ポーズをとってみたり(笑)

若い人が新しい環境に進んで行くのを見ると、何だかすごく元気をもらった気持ちになる。言葉ではうまく表現できないが、ある種のエネルギーをそこに見るからだろうか。よく運動選手の活躍を見て、視聴者は「勇気を与えられた」と発言する。ワシが感じたのも、たぶんそれに近いのかもしれない。

いずれにせよ、Iさんには頑張って欲しいと思う。そうか、もう4月なんだよな。4月は門出の月。新入社員や新入生などは気分も新たにスタートである。ワシの生活に何も変化はないけれど。

(業務連絡)
Yさんは仕事を辞め、すでに福岡へ引っ越したようですぜ。
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桜を横目に見ながらの講義

2006-03-29 04:51:12 | 脳みその日常
昨日は例によって講座の日。晴れだったこともあり、受講者数はまあまあ。あとで知ったことだが、今回は小学校の音楽の先生がワシの話を聞きにきていた。少しは参考になったのかな。

今回はベートーヴェンの《悲愴》と作曲の話をする。作曲の話といっても難しい理論にまでは触れない。一応ビギナー向けの講座だし、実際に楽譜が読めない受講者もいるから。

理論の話をしないといっても、全く触れないわけにはいかない。初歩の和声連結が《悲愴》のなかでどのように使われているのかを説明するわけだからね。

ただ、困ったことに今回の部屋にはピアノが置いてなかった。それが一番マイッタ。ピアノを弾きながら説明すれば一発でわかることも、音なしに説明するのは本当に難しい。こういう時、言葉の無力さを痛感する。そう、まさに百聞は一見にしかずとはこのこと。

講義後、案の定クレームが。「言いたいことはわかるんですが、やっぱり音で説明してもらったほうが…」ええ、ええ、仰る通りです。ワシもそう思うのだが、まさか今回の講義がピアノの置いてない部屋になるとは想定していなかったからねえ。講座のスケジュールは半年前には決まっていたが、講義する部屋は世話人があとで申し込んでから決まるので今回のようなことになったりするわけだ。毎回同じ部屋で講義できるわけじゃないので、これは仕方のないこと。

本当なら、その状況を見てその場で講義内容を変えることも決して不可能なことではない。しかし講義内容は事前に配られているので当日まったく違うことを話すわけにもいかないのがツライところだ。それこそクレームの原因になりかねない。

とはいうものの、ここの受講者はみな寛容だ。クレームとはいっても、スクリームするわけじゃない。ましてやシャウトして涙の抗議をするわけでもない。あくまで笑みをたたえながら指摘してくれる。場合によってはそのほうが恐ろしかったりもするが、まあ話しぶりから悪意は感じられないので「ご忠告」を素直に受け止めることにしている。

ささ、原稿を仕上げねば…。
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見られてるねえ

2006-03-28 04:27:06 | 脳みその日常
このブログの話ではない。ある雑誌の本年1月号に掲載されたワシの評論のことだ。何気なくネット・サーフィンしていたら、とある地方の人が書いたブログに行き当たった。どうやらこの人、クラシック・ファンらしい。もちろん愛好家なので自分の好きなアーティストについて書いている。愛好家ならそうしたスタンスをとるのは当たり前だし間違っているとも思わない。むしろ熱心だなあと感心させられるほど。

で、そのブログにはどのように書いてあったのか。手前味噌で恐縮だが、ワシの評論を高く評価してあった。この人のお気に入りの演奏家について書かれた文章のなかで唯一分析的に記した批評である、とか何とか…。

ありがたいねえ。全く知らないところでちゃんとワシの文章を読んでくれている人がいるのがちょっと嬉しかった。もっとも、ワシはその演奏について諸手を挙げて評価したわけじゃないけれど。

音楽評論というのは無論感覚に頼る要素はある。しかし、だからといって文学的な香りとか抽象的な用語を散りばめれば良いというわけでは必ずしもない。ワケのわからんレトリックを多用したところで結局何を言っているのかわからない評論は何の意味もない。むしろその演奏がどのような内容で、どこが良くてどこがマズいのかを理由を添えて明確に記したほうが読者にとっては親切というもの。根拠とする理由もないのに「形而上学的な美しさ」とか言われても読むほうは困るよな?「何だい、それ?」と思わずツッコミを入れたくなるだろうし。

でも、評価する理由を示しておけば、当の演奏家にとっても、(もしかしたら)今後の参考になるかもしれない。また、ワシの発言に同意しない人にも、具体的な根拠を示すことは重要だ。なぜなら同意しない人はワシとは異なる根拠(価値観)をもっているのだから、その人にしてみれば「なるほどそういう根拠で聴いているんだな」と理解してもらえるからである。少なくともこちらの根拠を示すことにより、論争は起きたとしても無意味なケンカに発展することはない。

抽象用語で適当に書くのなら評論なんてこれほどラクなものはない。でも、そんなのは書いた本人が満足しているだけであって、読み手のほうはちっとも面白くもないし、当の演奏がどうだったのかすらわからない。読むだけ時間の無駄ということになる。といって、便所のちり紙にすらならないのだから困る。

読者は貴重な時間を割いて文章を読むのだから、書き手としては何らかの有益な情報を提供したい。理想を言うなら読者に「なるほど」と思わせる文章を書きたい。ま、なかなかそれは難しいことだけどね。
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半田屋(川越店)へ行く

2006-03-27 05:05:34 | ドライブ関連
うわっ、今月は日曜日が休「脳」日になってるではないか。いや、別に忙しかったわけじゃない。偶然、偶然。

さて、お詫びというわけではないが、今回も写真が盛り沢山なブログでお送りしようと思う(笑)向かったのは24時間営業の大衆食堂でチェーン店になっている半田屋の川越店。ネット・サーフィンをしていて偶然見つけたので突撃してみることにしたのだ。

そのHPを見れば分かるように、半田屋の本店は仙台。現在は北は北海道から南は広島や愛媛にまでチェーン展開している。そのほとんどが24時間営業なのでワシのようなモグラには本当にありがたい。何せ深夜に営業している食事処なんてなかなかないからねえ。

深夜営業している店ってのは往々にして暗い雰囲気が漂っているものだが、少なくともこの店は違う。それは左の写真を見れば明らかだ。写真では客は写っていないが、午前2時半の時点で奥のほうには5人ほどいた。

ここは学生食堂のようにセルフサービスになっている。トレイを手にして、自分が食べたいものをチョイスし最後に精算するシステムだ。日曜日は朝からほとんど何も食べていなかったので、こんな時間にもかかわらずご覧のようなメニュー。これだけの品目で780円!な、なんたる安さ!しかも、大衆食堂を謳っているだけあってフツーに旨い。

ちなみに、この白飯は「中めし」。普通の店なら大盛りに相当する量だ。じゃあ、ここには大盛りはないのかという疑問がわくだろう。あるにはあるようだ。しかし、HPに「大めしはとても食べられません」とあるから、もしかするとバケツ一杯ぐらいの白飯なのかもしれない。実際のところはどうなんだろうな。ワシは白飯が好物なので「中めし」程度なら楽勝。あと1、2杯はイケるかも(笑)
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夜更けのウォーターフロント

2006-03-25 05:49:43 | ドライブ関連
今回は大田市場から有明埠頭あたりを走る。少し前に大田市場付近を通った際、時代錯誤も甚だしい強烈な電飾を施したデコトラを見たので、コイツに出会えないかなというのがそもそもの動機。夜中なのにそこだけ昼間というぐらいピカピカ、テカテカ輝いている。まるで光の固まりといった感じ。

もちろんそんなのは違法だ。でも一度見たら忘れられないほどスゴイ電飾なのですよ。残念ながら本日は遭遇することができなかった。うーむ、あの時に撮影しておけばよかったと、つくづく後悔する。

気を取り直していこう。世の中ではウォーターフロントなどという表現をするこの地域だが、オシャレな場所なんてほんの一部。残りの部分は海運業のトレーラーやトラックの集合地といっても過言ではない。最初の写真は大田市場のそばにある駐車場。写っているのは恐竜の骨のようにも見えるがもちろん違う。そう、トレーラーのいわば台車部分だ。この上にコンテナを載せてトレーラー・ヘッドで牽引するのである。まるでガイコツみたいな台車がこの一帯にはゴロゴロ「駐車」している。町中ではまず見ることのない光景だ。

城南島から海底トンネルをくぐるとお台場のある13号地に出る。お台場のフジテレビ周辺はオシャレなスポットだが、青海や有明埠頭あたりはトレーラーとコンテナのまさに寝床。左の写真は決してマーシャルのアンプを積み上げたものじゃない。このあたりにはコンテナが積み上げられているのだ。ちょっと幻想的な雰囲気でしょ?

コンテナの居住区とは別に、こちらはトレーラーの寝床。写真ではわかりにくいが、お行儀よくきちんと並んで眠っている。牽引するトレーラー・ヘッドがついてないと、やっぱり不気味だねえ。これらは朝になったらどこへ運ばれて行くのだろうか。なんとなく擬人化して考えてしまう。

有明埠頭の先端にあるのが「東京港フェリーターミナル」だ。この時間にはもちろん営業していない。周囲は車中泊をするトラックのエンジンの音以外何も聞こえない。夜が明けたらここは考えられないほどの賑わいになるんだろうねえ。今は束の間の休息時間というわけか。
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オイル交換へ行く

2006-03-24 06:11:34 | 脳みその日常
今年初めてのエンジン・オイルの交換。ついでにタイヤもスタッドレスからノーマルに履き替える。もちろん作業はいつものMoMoGarageだ。

以前にも書いたかもしれないが、ワシは3ヶ月に一度エンジン・オイルの交換をすることにしている。月に1,500km走ったとしても3ヶ月なら4,500km。交換するには良い時期である。季節の変わり目ごとに行くようなものなので、社長とはついつい話し込んでしまうのだが(苦笑)

それにしても、この3ヶ月でワシにしては随分走った。なんと7,500kmも走行していたのだ。単純に計算しても月に2,500km。抜き取ったオイルを見ると、さすがに粘度は低下しており、劣化したことを示す泡沫も多数あった。

世の中にはオイル交換なんてしなくたっていいよとうそぶく奴もいる。ゲージを見てオイルが減っていれば継ぎ足せば良いのだ、と。いやいや、そんなことをしていると某番組のナレーションじゃないが「大変なことになりますよ」。

そもそもエンジンではシリンダーとピストンとの間で摩擦が起きる。その結果、否応なしにスラッジが発生する。スラッジはエンジンに悪影響を及ぼすなにものでもない。へたをすればオイルに混じったスラッジがシリンダーの壁にキズをつけることにもなる。だからスラッジは、ないに越したことはない。

またオイルそのものが劣化してくるとエンジンにも不具合が発生する確率が高まる。ガスケットの劣化も早まり、それにより、組み上げられたエンジンのすき間からオイルが滲んでくることもある。場合によっては修理代がかさむなんてことにもなりかねない。だからオイル交換はこまめにすべきなのだ。

幸い、ワシのクルマにはまだオイルの滲みは出ていない。もうすぐ10万キロに達するというのに。ある意味、これは「アタリ」のエンジンだったのかもしれない。ここだけの話だが、現在でも余裕でリミッターいっぱいスピードが出せるし。

いずれにしても、タイヤをノーマルにして走りやすくなった。ワインディングもかなり高速で攻めることができる。うーむ、ますますドライブする頻度が増してきそうだ。いや、確実に増えるだろう。
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思いが「こめ」られている

2006-03-23 06:51:10 | ドライブ関連
原稿の内容をいろいろ考えていたら袋小路に陥った。ふと気づけば外はシャバシャバと雨が降っている。うん、雨の中をドライブすれば何か閃くかも。あぁ、やっぱりドライブ依存症か…。

言い訳するつもりはないが、雨の日のドライブは趣きがある。フロンド・ウインドウには雨粒が絶えず滴り、いつもとは違う景色が何とも新鮮。また、極端にスピードを出すこともないので運転しながらいろいろ考えごともできる。

もちろんボーッとしながら運転するわけじゃない。安全を最優先にして運転するのである。そのうえであれこれと考えるのだ。だから、考えごとをしながらの運転はいけませんぜ。危ないですからね。決して真似しないように。

そんなこんなで横浜市の瀬谷区あたりを流していたら、右のような看板を発見。自動販売機ならぬ自動精米機である。説明によると5kg精米するごとに100円かかるらしい。

ま、そんなのはどうでも良い情報か。それに自動精米機なんて郊外に行けばどこにでもある。珍しくもなんでもない。でも、そぼ降る雨のなかでこの看板がちょっと寂しげに見えたので注目したのだ。

撮影時には気づかなかったが、看板をよく見ると「処」の一部に米粒の絵がハメ込まれているではないか!これもどうでも良いことだが、ちょっと驚き。いや、看板を作った人のこだわりみたいなものが感じられるよね。だって、何もそんなところに米粒をハメ込まなくてもいいのにさ。そんな米粒がなくたって別に売上が変わるわけでもなし。だけど、どうしてもこだわりたかったんだろうな。そんな気がする。
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カッコいいマダム・ピアニスト

2006-03-22 17:56:17 | 音楽あれこれ
齢五十、いや六十を越えてなお颯爽と演奏する女流ピアニストが我が国には何人かいる。敢えて名前は伏せるが、彼女らは演奏はもとよりステージでの立ち居振る舞いがとにかくカッコいい。カッコいいという表現に語弊があるなら、「凛々しい」とか「潔い」という言い方が適切かもしれない。

もちろん年齢が年齢だけに豪快な演奏をするわけではないし、驚嘆するテクニックがあるわけでもない。しかし、毎回きっちり暗譜で全曲を弾ききるあたり、もう流石としか言いようがない。それも安定した弾き方でである。

いったいこれは何なのだろう。この世代に共通するものがあるのだろうか。舞台のソデから優雅に登場し、作品をさらりと弾く。そして演奏が終わると何事もなかったかのように上品にお辞儀をし、入場時と同様にソデに戻ってゆく。これはもうステージ作法とかいうものでなく、むしろ彼女たちにとっては一種の美学なのではないか。

その意味でいえば、演奏のクオリティは別にしても彼女らはカッコいい!
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お届けに行く

2006-03-21 06:11:52 | 脳みその日常
あるところから大量に酒をいただく。しかしワシは家では呑まないことにしているので邪魔なことこの上ない。なぜ呑まないのかって?簡単な理由だ。呑んだら仕事にならないからである。だからワシが呑むのは仲間と外で集まった時だけ。いったん呑むと決めたら呑み続ける。たいがい朝まで呑むというパターン。

でも、ひところに比べ近年は「呑み仲間」が激減した。かつてはムチャクチャに呑む奴が大勢いたが、みんな歳をとって大人しくなってしまった。始発で帰るなんてホントになくなったなあ。あぁ、あの頃は楽しかった…。ま、そんなわけで邪魔になっている酒をアルコールを得意種目とする実姉の家にお届けに行くことにしたのだ。

届けに行くといっても実姉はウチから片道50kmほどのところに住んでいるので、これは軽いドライブ。一昨日といい昨日といい、なんだかドライブばかりしている気がする。まあいいや、これから月末にかけて忙しくなるから今のうち走っておこう。とかいいながら、ワシのことだ。忙しくてもストレス解消を理由に走りに行くのだが。

到着したのは昨日の午後10時半。義兄はいなかったが、実姉と2人の子供が団欒していた。正月に行かなかったので、子供らには今さらながらのお年玉をやる。高校生の甥は何やら勉強しながら団欒に参加していたので、ひやかしに数学の図形問題を出してやった。簡単に解ける問題だと思って出したのに意外に苦戦している様子。あらら。とりあえず宿題にして帰宅する。ま、そのうち「できたよー」というメールが来るだろう。

さてさて、月末までに書く原稿のなかで、ひとつはちょっとした爆弾発言をしようかと考えている。しかし、いきなりムキ出しの爆弾を投げても逆に自爆しそうなので、爆弾にどう導火線をつないで「ちゅどーん!!」とやれば効果的かな、などと今考えているところ。ま、どうなることやら。
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きのこ山もイイ!

2006-03-20 05:25:35 | 夜景スポット
昨日の関東平野は凄まじい風が吹き荒れた。予報では翌日も晴天とのこと。ということは、汚れた大気は一掃され、空気は澄むはず。ならばと気になっていた夜景ポイントに行ってみよう。さぞやキレイに見えることだろう。

目的地は筑波山の北隣に位置するきのこ山。常磐道の谷和原インターで下りると合流するのはR294。それを水海道方面へ。交差するR125を過ぎたら適当なところを右折する。そして上曽峠方面に向かう。

途中で右のような交差点をみつけた。「田」…シ、シンプル過ぎる。このあたりは、ほかにも「鯨」など1文字の交差点があって面白い。でも、そばに海はないんだけどなあ。きっと何らかの由来があるんだろうな。

そんなことを考えて走っていると上曽峠の分水嶺地点に。ここに「きのこ山」という看板があるので左折する。注意しなければならないのは道が狭いこと。舗装されているが、対向車とすれ違うにはギリギリの幅。また、ご丁寧に側溝があるので夜間のすれ違いは気をつけないとたぶん落輪する。そうなるとシャレにならん。

グニャグニャ走ること10分ほど。明確に「きのこ山」という表示はない(と思う)が、場所はすぐにわかる。というのは、信じられないほどの夜景が目に飛び込んでくるから。ネットなどで調べてみるとここの標高は530mほど。パノラマ・カメラではないが、2枚を並べてみるとこんな感じ。実際には気が遠くなるほどキレイである。たぶん「全米が泣く」と思う(笑)


実は、ここはパラグライダーの離陸地点でもある。それが証拠にこの近くには右の写真のような看板があり「テイクオフ」とある。まあ、こんなところから離陸したらさぞかし気持ちいいだろうな。

ちなみに写真がブレているのは、あまりに寒くて手が震えてしまったから。いやいや、冗談抜きで寒かったのさ。
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ついに花粉症か?

2006-03-18 04:57:28 | 脳みその日常
「あらゆるアレルギーを悉く蹴散らし、ウイルスなぞ全く寄せ付けてこなかったワシの身体にもついに異変が?」

「超合金の身体も、ついに終止符?」

これはワシの脳内新聞のトップ記事の見出し。スクープは脳内のあらゆるシナプスを駆け巡り、各方面で大々的な議論に発展…するわきゃーない!

いやいや、かなりフィクションが入ってます。でも、一時は「こ、これは!…」と思ったわけでして。なにせ突然鼻水は出てくるわ、目は痛くなるわの大騒ぎ。いよいよ年貢の収め時、税金の納め時か、と。まあ確かに納税時期ではあるけれど。

そんなさぶいギャグはさておき、残念ながら花粉症の発症ではなかった。症状の原因はズバリ、香水。昨日行った演奏会で、たまたま隣に座った老女の放つ尋常ではないフレグランスがワシの五感をマヒさせたというわけだ。欧米人ならいざ知らず、この人は典型的な日本人。なぜそんなキツイ香りのするものをつけるんだよ!意味がわからん。

そもそも香水は体臭のキツイ欧米人が自分のクサイ臭いをごまかすために考案されたもの。もっとも、目には目をじゃないが、クサイ臭いにはキツイ香りでという論理がワシにはわからん。クサイんだったら、まずはその臭いの元を消せばよいのだ。それをクサイのは棚に上げてキツイ香りでごまかそうとするから話がややこしくなる。こんな方法じゃ、問題の抜本的な解決にならないのに。欧米人の思考はよーわからん。

香水をつけることがいつの間にか「文化」みたいになって、それが我が国にも普及した。単に欧米に憧れを抱く愚かな日本人は何も考えず、我先にと香水をつけ始める。あのさ、日本人なんて大してクサくないんだぜ。なのになぜ香水をつけなくちゃならんのだ。せいぜい石けんの香りで十分と思うのに。こちらも意味不明である。

そんなことを心の中で叫びつつ、溢れ出る鼻水とヒリヒリする目の痛みをどうしたものかと思案に暮れる。当然のことながら、演奏なんて耳に入らない。まあ、今回は仕事じゃなかったからいいけど。とりあえず、その場から逃げるのは男らしくないと考え、ひたすらキツイ香りと闘う。

実はこんな経験は初めてではない。仕事柄、欧米各国の大使夫妻と隣席することは珍しくない。場合によっては、今回以上にキツイ香りがすることもある。思わずグーで殴りたい衝動に駆られるが、脳みそが「まま、ここは穏便に穏便に」と宥めるので傷害事件にならずに済んでいる。

てなわけで、今回もなかなかの試練であったが、何とか刺激臭に耐え抜く。もうね、心の中では勝利の祝杯をあげたい気分。「わっはっはっ」ですよ。いうまでもないが、花粉症デビューはまだのようである。これについても「わっはっはっ」だ。

そういえば、右のような掲示を発見。あちゃー、ついにここにも規制が入ったか。のんびりと紫煙を燻らす場所がどんどん減ってゆくなあ。そのうちコッソリとトイレでしかタバコが吸えなくなったりして…って、中学生かよ!
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越えられない壁

2006-03-17 11:21:07 | 音楽あれこれ
昨日はヴァイオリンのリサイタルへ行く。演奏にはこれといった瑕疵があるわけではない。良く言えば優等生的な演奏であるが、意地悪な言い方をするなら何の面白味もない演奏だ。

もちろん本人はこの日のために大変な練習をこなしたには違いない。凡庸な奏者なら、きっと譜面を見ながらでないと演奏できない作品だったから。その意味では立派である。

しかし、頑張りはそこまで。残念なことに、この人の演奏には努力以上のものは感じられない。別の言い方をするなら聴き手に感銘を与えるまでの演奏ではないということ。

勝手な物言いをと思うかもしれない。でも先入観のない聴き方をしたワシの正直な感想なのだ。たぶんそこにいたほとんどの人も同様の感じ方だったのではないだろうか。

芸術はある意味で残酷である。表現者がいかに頑張ろうとも、その人にある種の狂気がないと相手にうまく伝わらないから。いや、狂気というより何かに馮依されるというほうが正しいかもしれない。

一般にヴィルトゥオーゾと言われる人には大体演奏を開始した瞬間に何かが馮依する。その「何か」が聴衆を魅了するのだが、それが何であるのかは未だにわからない。才能?狂気?

いずれにしろ、ソリストにはそうしたファナティックな要素は不可欠である。いくらミスの少ないこぢんまりとした演奏ができても、ソリストとしてやっていけるわけではない。何らかのオーラが発せられないとしたら、その人はオケの一員かアンサンブルのメンバーとして活動するほうが無難だと思う。
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足柄はイイゾ!

2006-03-16 05:06:43 | ドライブ関連
ナイスな夜景ポイント探し。今回はちょいと足を伸ばして御殿場まで。探検をする前にまずは腹ごしらえ。昔から言うではないか、「腹が減っては戦はできぬ」と。いや、別に戦争をするわけじゃない。モノの譬えですよ、譬え。やだなー、シャレのわからん人は。

正直なところ、昼間何も食っていなかったので単に腹が減ったというだけの話。とりあえず東名の足柄サービスエリアに立ち寄る。何かないかなと物色していると「そば、うどん、カレー」の類いはまだ営業中だった。よしよし、それではっと。

注文したのは「足柄そば」。といっても、単に「山菜、きのこ、ねぎ」が放り込んであるだけ。いったいどこが足柄風なのかイマイチわからない。ただ、メインのそばは手打ち風っぽい食感。いくぶんザラついた感じがそこここにある製麺所の麺とは明らかに違う。歯ごたえもあり、まずまずといったところ。540円という値段は微妙なラインか。

おっと、ワシは何を語っているんだろうか。今回は食うために来たのではない。本題はこれからなのだ!

御殿場インターを出て、ちょいと山中湖方面へ向かう。しばらく走るとR246と交差するのだが、そこまでは行かない。手前の信号を右折し、細い道を行く。要するに足柄峠のほうへ向かう。このあたりからワシの心はワクワク状態になる。

足柄駅を横目に見ながらさらに山を登ってゆく。道はどんどん細くなり街灯もなくなる。その一方で急カーブの連続に出くわすことも。でも気にしない。どんどん進む。

足柄峠というのは江戸時代に関所のあったところ。関所跡はちゃんと残されているが、あたりはシャレにならんほど真っ暗。なのでマトモな写真はムリ。代わりといっては何だが、すぐ近くにあった「足柄峠」の表示板をご覧下され。

そばとか関所なんてのは、本当はどーでもよいのだ。実は、この関所付近の夜景がものすごくキレイなのである。関所の少し手前の場所では、ナ、ナ、ナント御殿場市のピカピカ光る夜景の上方に雪化粧をした富士山がドワーンと見えるのだ!!!ちょっと幻想的ですらある。ここだけの話だが、ワシの心の中では「全米が泣いた」。いや、冗談抜きでナイス・ビューである。

さらに、関所を過ぎてしばらく行ったところでは、今度は反対側の小田原市内の夜景がバッチリ見える。もうね、強烈なワインディングをしながら瞬間的に見るステキな夜景に心の中は「キャーキャー」ですってば。

御殿場から箱根の仙石原へ向かうR138の途中でもナイスな夜景を見ることはできる。しかし足柄峠のほうは街灯がほとんどないぶんキレイに見える。それに走り屋も箱根ほど出没しないので静かに夜景を鑑賞できるのは嬉しい。暗闇は平気という方はぜひ行かれるとよいだろう。期待以上の夜景がアナタの目に飛び込んでくること間違いなし!
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歯歯歯歯

2006-03-15 05:55:03 | ドライブ関連
(ケータイでご覧になっている方はたぶん意味が分からないと思いますのでPCからどーぞ)

都内某所でみつけた看板。シンプルもここまで来ると大したものだ。



…って、あーた。

まあ、確かに言わんとしていることはわかる。フツーに解釈すれば「ここは歯医者ですよ」ということなのだろう。まかり間違っても

売ってます
とは思うまい。いや、たとえ思ったとしても絶対に買わない。うん、自信はある。

でも、ここまでシンプルだと色々と遊びたくなる。たとえば、ある大物女性歌手の歌で表現するなら、

♪「あーのころは、」ってな感じ。

え、つまらんって?そんなことを言われると、思わずため息が出てしまうではないか。

ァ~」って。

唐突だが、二葉百合子の代表作といえば1974年にヒットした「岸壁の

やだな、こんなタイトルだったら…。まるでリアス式海岸に立派な歯茎が仁王立ちしているようじゃないか!

もちろんこれは冗談で、正式のタイトルは「岸壁の母」である。この曲はつい最近までこの人のオリジナルだとばかり思っていたが、違うんだな。この曲を最初に歌ったのは菊池章子で、リリースは昭和30年(1955)らしい。そうだったのか。知らなかった。

読者のなかには、菊池章子はもとより二葉百合子すら知らない方もいるだろう。そんなアナタの心境を表現するなら…

ぁ?」だろう。

しつこいって?こりゃまた、シツレイしました。

……
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生き続けるサイト

2006-03-14 10:30:56 | 脳みその日常
何か面白いソフトがないかと、あちこちのサイトを見ていた。ふと目に留まったものがあったので、そのサイトを訪れてみる。すると、サイト管理者はすでに2年前に他界していた。ちょっとショック。その事実はネットに詳しいご兄弟により発表されたものであり、もしその親族がホームページのアップデートに疎ければ管理者が亡くなった事実は未だに誰も知らないということになる。

改めて考えてみると恐ろしいものがある。作成した本人はすでに彼岸の人なのに、そのサイトは活用されているのだから。もっとも、プロバイダーのように第三者が運営しているサイトなら、利用者が所定の金額を納めなければ自動的に退会となって、そのサイトは消滅する。またここのように無料で使用できるサイトであっても、サーバーの運営者がサービスを停止すれば、やはりこのブログも自動的になくなる。

いずれの場合にしても、誰かがサービスの停止をしない限りいったん作成されたサイトは生き続ける。利用者もしくはファンにとって、それは嬉しいことかもしれない。しかし管理者の立場からすれば、何となく嫌だなと思う。まるで火葬されないまま、屍が公開され続けているように思うからだ。

考えすぎ?そうかもしれない。でも、自分がこの世から消える時にはすべてを消去させて逝きたいと考えているので、主のいなくなったサイトなんてやっぱり嫌だなと思う。ただでさえ、こんな駄文のブログなんて存続させる意味はないと思うし。

もっとも、いつ彼岸からお呼びがかかるのかは誰にもわからない。となると、遺言書にサイトやブログへのアクセス方法を具体的に記して、消去する手順を書いておかなければならないというわけか…。うーむ。
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