ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

むぅ…

2004-05-31 04:45:58 | 脳みその日常
ドライブに出掛けると言いながら、イマイチ気が進まなくてヘタレになっとるワシ。
「えー、じゃあ、おもろいネタはないのぉ?」
という読者の方々のお怒りの声が聞こえてきました。
ええ、ええ、わかってますとも。探せばいいんでしょ、探せば…

ネタ その1
てなわけで、ネットを見ているとこんな記事を発見。
うわーっ、ベンツの幼稚園バスかいな…。
し、しかも、156馬力で、ターボ仕様とな。
たかが送迎用なのに、なんでターボが必要やねんっ。
ターボが作動した時、シートに押し付けられるアノ感覚。
幼稚園児を、そんなスリリングな気分にさせて、どーするっ。
いや、それより何より、園児はみな車酔いするんちゃうか?
おまけに、価格が1260万円だってさ。
うっはー、ゼイタクな送迎バスやな。

ネタ その2
1997年以来、愛用している携帯電話が、いよいよオシャカに?
いえね、電話本体に不具合はないんですが、
どーやら充電器のほうがアカンよーになっとる。
さっきも、充電しようと思ったら、充電器のやつ、「いやいや」しよる。
コラーッ、オノレは充電だけしとけばええねん。わがまま言うでないっ。
でも、断固拒否しやがる。
しゃーないな、外科手術してみっかな。
おもむろに取り出したマイナス・ドライバー(キラーン☆)
フフフ、オノレのわがままも、これまでや…。

と、ところが、充電器の内臓を観察してみても、原因がわからん。
電話機本体との接触部分の不良か?
いーや、そうでもなさそうだ。
うーむ、原因は、いずこに…。

それにしても、充電ができんのは、はなはだ困る。
でもなー、同型の充電器なんぞ、もう売ってないだろうなあ。
電話機本体も、すでにプレミアが付きそうなほどの稀少品。(同型の写真)
音質も感度も悪く、周囲からはクレームの声もチラホラ。
もちろん、このタイプは、メール機能すらない。
カメラ?そんなもん、付いとるわけがないっ。
文字だって、英数の2種類しか入力できないのだ。
はっはっはっ…(空虚な笑い)

あーあ、この際、機種変更すっかな。
思案橋ブルース。
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ううううう

2004-05-30 21:35:24 | 脳みその日常
暑うてかなわんな。
おまけに、久しぶりに実施した断食とバッティングしよるし。
まさにダブル・パンチやわー。

いえね、みなさん、断食ってのは身体にええんよー。
カネがなくてモノが食えへんっちうわけやないねんでー(苦笑)
ただなー、暑うて、暑うて、それがまいるねんな。

こういう時は、やはり涼みにドライブやな…
なんかおもろいネタ、転がっとらんかな。
あれば、あとで書くことにしませう。
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おもろいか?

2004-05-29 22:53:55 | 脳みその日常
ワシは、お笑いが好きである。同じテレビ番組でも、ドラマは、まず見ない。クサイ演技を見て、イライラしたくないからである。ノン・フィクション番組とかドキュメンタリー番組は、嫌いではない。でも、お笑い番組とどちらが良いかと言われれば、迷うことなくお笑いのほうを選ぶ。それほど、お笑いが好きなのである。

ところが、最近のお笑いは、ワシの期待にことごとく応えてくれない。番組表を吟味した上で、「この番組だっ」と判断して決めたのに…。ワシの苦労をどうしてくれるねんっ。

いや、取り乱してはアカンな。

ともかく、ほとんどのお笑いがおもろないのである。特に腹が立つのはコントだな。なんやねん、あの出たとこ勝負みたいなネタは。ただテンションが高いだけだろ。スタジオにおるお客もお客だ。番組の演出なのかどうか知らんが、みんなつられて笑っとる。なにがおもろいん?

笑いというのは、こちらが予測してないことをされるから面白いんであって、たぶんこういう展開になるなということがわかっていれば、ちーとも面白くないのだ。また、お客を笑わそうという姿勢が見えている「笑い」も面白くない。面白いことを言ってやろうとか、変わったことをしてやろうというのは、残酷な話だけれど、見る側ですぐにわかるもの。なのに、若手芸人たちは、やってしまう。結果として面白くないのは当然なのだ。

まだ許せるのは、関西の芸人かもしれない。一応、ボケとツッコミという役割が明確になっており、両者のコントラストがはっきりしていればしているほど面白さが増すからだ。もちろん、白々しいボケとかもあるから、油断は禁物なのであるが。

お笑いが面白くなくなっている理由は、良い意味での師弟制度がなくなりつつあることに起因しているのかもしれない。師匠と弟子という関係は、確かに封建的なものであり、今の時代に相応しくないという面もあろう。だが、何にしてもそうであるが、一人前になるには必ず下積み時代がなければ大成しない。苦労に苦労を重ねてはじめて「プロの芸人」になれるのではないか?

下積みという意味でいえば、クラシック音楽にも相通ずるものがある。たとえば指揮者。世界的に活躍する指揮者のほとんどは、まずどこかの歌劇場の指揮者として修行するケースが多い。あのカラヤンだって、有名になる前には各地の小規模な歌劇場で修行していたのだ。

しかし、近年の若手指揮者たちは、いきなり通常のオーケストラを振ってデビューしたりする。これは長い目で見た時、彼らにとって決して良いことではない。なぜなら、総合的な意味でのバランス感覚が養われないからである。オペラを指揮するというのは、単にオーケストラで歌の伴奏をすることではない。声を生かさなければならないところはどこなのか、そしてオーケストラが前面に出なければならないのはどこなのか。

つまりは、そういったことを的確に判断するのが、歌劇場での指揮者の役割であり、それがひいては修行になるのである。このプロセスを経ないで指揮者になっても、一時的には注目されても、グレイトな指揮者にはなれない。これはワシの意見というわけでなく、偉大な指揮者たちの経歴をたどった時、共通してみられる事実なのだ。

話をもとへ戻そう。芸人についても同じこと。むしろ問題なのは、そんな底の浅い芸人を使うテレビ局の姿勢なのである。どの人間にもチャンスを与えることは必要であろう。しかし、それは番組制作する前段階のオーディションでの話ではないのか?お笑い番組を制作することで視聴率を取りたいというのが最終目標であるとすれば、これらの番組プロデューサーは、まったくわかっていないと言わざるを得ない。

お笑いの世界はもとより、近年の文化のありかたは、どうもレヴェルが下がっている。いや、シロートに毛が生えたような奴を、あたかもプロであるかのように扱い、それが本物であるというような宣伝をする態度が気に入らないのだ。こんなことでは、文化そのものが衰退するのは目に見えている。( ´△`)アァ-
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バカを観察しにいく

2004-05-28 05:15:07 | ドライブ関連
あーあ、ついにスモハラだってよ。確かに、上司から「吸っていいか?」と言われたら、なかなか断りきれんやろなあ。とても他人事とは思えん。つーても、ワシの場合、部下でなく後輩たちになるんやけど。近年は、大学の合宿に行ってもタバコを吸うのはワシだけになってもうたしなあ。きっと「けむたい先輩」と思われとるに違いない。いろんな意味で・・・・・( ̄。 ̄ )ボソ...

さて、習慣となっている深夜のドライブ。今回は夢の島あたりを徘徊する。なんやらモヤがかかっとったせいで、東京湾の夜景がうまく見えんかったのは残念。で、帰りはR357で台場方面に行く。なーんや、今回はハズレやなあと思いながら、六本木方面に戻ると、そこでヒットが…。

あのね、午前三時半でっせ。思いっきり真夜中でっせ。なのに、六本木交差点は大渋滞。ありえねー。まあ、いいや。渋滞にハマりながら、このあたりの見物でもしとくか。と思っていると、カモがワシのクルマの後ろにおった。

コイツ、渋滞にイラついて、しきりにエンジンの空ぶかしをしよる。アホ、そんなことしたって意味ないんぢゃ。ま、だいたい、こーゆー奴に限ってトラブルを起こすもんや。よしっ、コイツに焦点を合わせたろ。

と、そこへ、ウマい具合にアフリカ系の男が2人登場。いやー、ワシの願いは神に届いたな。神様、グッジョブ ! 彼らはワシのクルマと後ろのクルマの間を通って横断しようとした。もちろん、そこは渋滞のまっただ中。確かに、横断歩道のないところを渡ろうとしたんやから、彼らにも非はある。

ところが後続車のアホめ、黒い人たちの無謀な行為にカチンときたらしく、窓を開けて「ヘイ、ユー、うんたらかんたら」と吠えよってん。黒い人たち、最初は何のことやら理解できんようやったが、どーやら自分たちが怒鳴られていることに気づく。

さあ、そうなると車道上はリングと化す。相変わらずの渋滞やから、前におるワシは、ルームミラーからゆったりと観察。このアホ、どこまで黒い人たちをぶちのめすことができるんやろな。なんせ、自分からケンカを売ったんやし。期待は否応なしに高まる。

しかし、ワシの期待は見事に外れた。アホからロクなパンチも繰り出されてないねん。その代わり、黒い人たちからパンチとキックの嵐を受けてやんの。な、なさけない奴。オノレには日本男児としてのプライドはないんかいっ。格好悪いったらありゃしねえ。イキがるのは勝手やけど、みっともないマネをすんなよなっ。

そんなこんなしとるうちに、クルマも動き出す。で、そのあとどうなったのかは、しらんけど。

それにしても、たかだか300mほどの距離を通過するのに、なんと40分もかかった。何度も言うが、午前三時半でっせ。ほんま、ありえねー。

てなわけで、今回のドライブは、エンターテインメントも含め、90kmの旅でした。
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情報の中で失われるもの

2004-05-27 07:11:32 | 脳みその日常
インターネット(以下、ネットと略す)の普及は、我々の生活を大きく変えるものとなった。あらゆる情報がそれこそ世界中に配信される。地球の裏側の出来事ですら、オンタイムで知ることができるようになった。わざわざ現地に出掛けなくとも、ネットで検索すれば、知りたい情報は得られる。ありがたい時代になったものだ。

情報が筒抜けになってしまい、また氾濫する一方で、最近なぜか抜け落ちていると思われるのは、優れた業績を残した研究者や偉人たちのことである。ネットが普及する以前に書かれた多くのエッセイなどには、しばしば彼らの言葉や業績が引用されたものだった。たとえば、「バーナード・ショーはこう言っている」とか「アインシュタインの理論を鑑みれば…」とか。

もちろん現在でも「日本バーナード・ショー協会」なるものも存在しており、着実に活動を続けているようだ。また、アインシュタインに関する情報もネットで検索すればたちどころに出てくる。だが、うまく表現できないのだが、なんというのか、そうした偉人たちをこんにちの我々は軽視しているんじゃないか?そんな気がするのである。

彼らの業績を学問として研究する場合に、その言説や業績が紹介されることは当然あるだろう。だが、かつては、どーでもよさそうなエッセイにすら彼らのことが出ていたのである。駄文にすら偉人が登場したというのは、いったいどういうことなんだ?一種の流行だったわけ?

ワシは別に偉人たちの熱狂的な信者ではない。それに、「あの頃は良かった」などと懐古趣味に耽るつもりもない。ただワシが危惧するのは、どーでもよい情報が氾濫したせいで、優れたモノの存在が見えにくくなっているということである。

記録媒体にしても、そう。かつてなら、行動の軌跡は紙媒体に残されていた。だから後世の研究者は、その記録を参考にして歴史を捉えることができたわけだ。ところが近年はどうだろう。現代人の多くは、ただでさえ日記なんぞつけないのではないか?仮に日記をつけるとしても、紙媒体に直接綴るという人は少ないのではないだろうか。これだけパソコンが普及してくると、自分のワープロ・ソフトを用いて日記を「打ち込む」。もしくは、ワシみたいにネット上でブツブツと呟く。

いや、ワシのつぶやきなんぞ、どーでもよいことさ。問題は、現代の記録媒体がいかに脆いものであるかってことだな。自分の記録をいくら自分のパソコンのHDDにバックアップしておいても決して安心とはいえない。なぜなら、パソコンなんて、ある日突然「お釈迦になる」し、外付けHDDだからといって、こちらもどうなるかわかったもんじゃない。このブログみたいにネット上の記録だって、サーバーがイカれたら、もうどーにもならん。

ネット生活というのは、ある意味で刹那的には有益で便利なものかもしれない。しかし、本当なら残すべき重要な情報は、ひょっとすると残らない可能性だってあるんじゃないだろうか。特に個人の行動記録とか。そうなると後世の歴史家は困るだろうねえ。だって、オーバーに言えば、20世紀末以降の記録が残ってないんだもんな。そうなると歴史家たちはどうするのか。うん、きっとこの時代のことを「新・暗黒時代」なーんて命名するに違いない(苦笑)
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ε~( ̄、 ̄;)ふぅ~

2004-05-26 03:16:11 | 脳みその日常
月に一度の音楽講座も無事終了。相変わらず、受講者が増えんなあ。幹事のおっちゃんは、ずいぶんと頑張って宣伝してくれとるようやけど。

苦労してもなかなか結果がでーへんっちうのは、よくあること。ワシはワシなりに、クソおもろくもない講義でなしに、毎回工夫を凝らしてるつもりなんやけどなー。学生には、受講料はタダやから来い、いうてもスルーされるし。幹事のおっちゃんの苦労を思うと、なんとかせにゃならんなとも思う。

今回は、Aさんの生演奏というオマケまでつけたのに、反応はイマイチ。いやー、Aさんにも悪いことをしたわ。これに懲りず、また声をかけますんで、よろしゅうたのんますわ。

講義終了後、Aさん夫妻とメシを食う。聞けばAさん、これまで以上に演奏活動を充実させたいという。ワシもまったく同感である。Aさんほどのキャリアのある人がくすぶっとるのは、もったいない気がするねん。

んで、僭越ながらワシがさまざまなアイディアやプランを提案してみた。すると、Aさんの表情が輝き始めたではないか。なんだかとても嬉しそうだ。よし、そうとなれば、あとは行動あるのみ。さっそく、明日、いや正確には本日、相談に乗ってくれそうな方面に声をかけてみるとしよう。それでうまく話がまとまれば、Aさんの演奏家としてのステップアップにつながるわけやし。

うはは、なんだかワシもウキウキしてきたわ。その勢いでHPも更新終了(爆)
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モノ・オペラ

2004-05-25 05:04:43 | 音楽あれこれ
もう昨日のことだが、可笑しい1日だった。いや、何が可笑しいって、夜に上野の文化会館の演奏会に行ったのだが、途中、高田馬場付近で信号待ちをしていると、何気にタレントの「そのまんま東」を発見。そして、雑踏の歩道のところでカメラマンとおぼしき人に撮影されてる。しかも、とびっきりの作り笑顔で。だけど、しなびたおじいちゃんみたいだったな。オーラもなかったし…。ひとり、車中で腹筋を揺らす。腹、イテー。

文化会館に無事到着。目的は、日テレ主催の「ジェシー・ノーマンのモノ・オペラ」。これは、シェーンベルクの《期待》とプーランクの《声》をセットにして上演するというもの。2002年10月5日にパリ・シャトレ座で絶賛された企画の、いわば日本再現版。面白そうな演目なので、出かけてみたという次第である。

実際に観て、確かに面白かった。もっとも、ここでいう面白いとは、腹を抱えて大笑いっちうもんではない。むしろ、苦笑に近いかもしれんな。いや、ノーマンの演奏に対してではない。モノ・オペラとは、いうまでもなく登場人物がひとりのオペラのこと。つまり、ひとりですべてを演じきらなければならないのだ。ノーマンの、各作品に対する熱意と集中力は凄まじいものがあった。その意味では聴いてよかったと思う。

その一方で、醒めてるワシがいた。《期待》に登場するのは、いうなれば「イッちゃってる女」。また、《声》のほうの主人公は「ダメダメ女」。それぞれ、異なるシチュエーションなのだが、ストーリーというか、セリフのいたるところに、ツッコミどころが満載なのである。

《期待》では、主人公が闇の中で死んでいる恋人を発見する。彼女は、その事実がわかってるのに「あなたの目つきは妙だわ」などと呟く。もう、その時など、ワシの心の中では「死んどるっちうねんっ」とツッコミが入ってしまう。そんなことの連続。

《声》のほうも同様。部屋の中で彼と電話で話す女。彼とのコミュニケーション・ツールは、電話なのである。昔の電話なので、時にはよその会話が入ってきたり、間違い電話だったりして、混線する。そのたびに、電話が途切れる。彼を一途に思う女。他の女に対して嫉妬の炎を燃やしたりもする。フツーなら、会話が途切れたら、こちらから掛けたくなるだろう。でも、女は掛け直さない。「ああ、神様、もう一度電話がかかってますように…」。すかさずワシの心の叫びが炸裂。「電話せいっちうねん」…などなど。

ワシが、どちらの主人公にも共感できないってのも、作品を冷ややかに受け取る理由かもしれん。いやー、ワシに限らず、どんな男も、こんな女は勘弁やわ。情念を前面に押し出した表現主義の《期待》。それに、グダグダ抜かす「しょーもない女」の《声》。これって、本当に素晴らしい作品なんだろうかねえ。ワシの感覚がおかしいのかな。興味本位だけで来場した一般の客は、どう思ったのかねえ。

うーん、ようわからんな。


(2019年10月3日:追記)

2019年9月30日、アメリカのソプラノ歌手ジェシー・ノーマン。脊髄損傷の合併症による敗血症性ショックと多臓器不全のためニューヨークの病院で死去。享年74。類まれなひとつの才能が天に召されました。合掌
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縄張り争いの犠牲

2004-05-24 07:58:47 | 脳みその日常
ここしばらく、ただでさえ睡眠時間が2時間なのに、その貴重な睡眠を妨げる「敵」が出現。それも思わぬところからである。

「敵」というのは、鳥。しかし、みなさん、鳥のさえずりをナメちゃいけない。1羽、2羽ならともかく、異なる種類の鳥が一斉に啼くのを想像してみたらよろしい。オーバーに言えば、まさにヒッチコックの映画『鳥』状態。

自慢じゃないが、ワシは、どんな鳥が鳴いているかなんて、ほとんどチンプンカンプン。ホーホケキョか、ピーヒョロロか、その程度(泣)

それにしても、こんなことは珍しい。ま、まさか天変地異の予兆か?

いや、どうもそうではないようだ。というのも、このあたりは、鳥による周期的な「縄張り争い」がよくあるからである。ある時期は、カラスの大群がクワー、クワーと叫び、そしてまたある時期になると、コウモリどもが昼夜を問わずヒラヒラと縦横無尽に宙を舞う。その流れからすれば、今回の主役は得体の知れない鳥たちなのだろう。

しかし、断っておくが、ワシの住んでいるところは決してド田舎なのではない。東京23区に限りなく隣接する地域なのだ。そこのところは、しっかりと押さえておいてほしい。

ところで、冒頭に書いた睡眠時間であるが、2時間というのは、何もワシが忙しいという意味ではない。寝ても2時間で目が覚めてしまうのである。これって、もしかして睡眠障害の一種かしらん?

そういえば、前にテレビを見ていて気になったことがある。成長ホルモンというのは、睡眠後2時間すると分泌され始めるのだとか。つーことはだ、ワシの場合は、成長ホルモンが分泌される前に目覚めてしまうっちうことか?成長でけへんっちうことなのか?

いやいや、とうに成長しきってる歳なのだが、そのホルモンは一生出続けるそうな。ふーん、ならば、成長ホルモンの分泌は老化の進度にも関係があるんかな。とすれば、ワシは老化が止まっとるっちうことなのか?まあ、それは違うと思うが。

ともかく、この「貴重な」睡眠時間を見ず知らずの鳥どもに邪魔されて、ワシは大いに憤慨しておる。もちろん、そいつらの「糞害」もゴメンだが…
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「愛」に注意せよ!

2004-05-23 23:34:12 | 脳みその日常
昨日に続き、「愛」について考えてみる。

恋人たちの会話の中で「あなたを愛してるわ」ってなフレーズがよく出てくる。その発言にウソはないかもしれん。しかし、こういった場合、注意せんといかんのは、相手を愛してる(と思っている)自分に対していとおしく感じているという誤解があることやな。いうなれば、発言した本人は、相手にうっとりしている自分に酔ってるということ。ひぃぃぃぃぃ。

この場合は、ナルシズム的な側面がある。「あぁ、私、いまロマンチックな気分なんだわ」ってな感じ。これは、相手に惚れることに意味を見出しただけで、当の相手に対して本当に愛情を持ってなくても、そうした状態に陥ることは可能だ。したがって、ナルシズム的な状態にある相手のことがわかっていないと、ある日、突然フラれることにもなりかねない。だって、あなたの目の前の相手は「恋に恋している」だけで、極端なことを言えば、あなたのことなんて、どーでもいいんだからなあ。

いや、ワシがここで言いたいのは、そういうことじゃない。愛というのは、恋愛のような限定されたものではなくて、際限のないもっと大きなものを意味しているということなのだ。恋愛の場合の「愛」は、そのほんの一部に過ぎない。

そもそも、愛するという言葉の語源は古代ギリシャ語のフィロ(filo)に由来する。哲学は英語ではフィロソフィー(philosophy)というが、これは知(sofiva)を愛する学問という意味。明治時代の初期にはフィロソフィーは、読んで字のごとく「愛知学」とか「希賢学」と訳されていた。それを哲学と命名したのは、思想家の西周(1829-1897)である。

いや、さかのぼりすぎか。
もとい…

もうちょっと身近な例にしようか。オーケストラの名称には「○○フィルハーモニー管弦楽団」ってのがあるでしょ?このフィルハーモニーも似たような例なんだわ。つまり、調和(ハーモニー)を愛する(フィル)ってことが名称の由来になってるわけよ。

好ましい響きにしたいと願う気持ちは、金銭の問題じゃない。あぁ、こういう響きがあればなあ、という純粋な願望だね。音楽家は、そうした理想の響きを出すために時間を忘れて練習する。そこには無意味な打算などは、ない。彼らは無心に練習しながら、「そう、そう、この響きがいいんだよ」と随喜の涙を流す(かもしれない)。

自己満足といわれれば、それまでである。でも、それは命令されて嫌々やるという性質のものではない。理想の響きを出すために、自発的に行なわれるものなのだ。

調和した響きを愛するからこそ、何もかもなげうって練習に励む。それは、まさに無償の愛ではなかろうか。いや、愛とは元来無償であるはずのもの。だから、愛に打算があってはならないのである。

もっとも、演奏家はプレイすることで食ってるわけだから、厳密には無償とはいえないかもしれん。でも、彼らは演奏中に「いひひ、これで儲かるでぇ」とは思っていない…と、ワシは信じているのだが。
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政治家も愛がなくちゃダメやな

2004-05-22 23:55:50 | 脳みその日常
拉致被害者の子供5人が帰ってきた。それはそれで喜ばしいことである。一方、脱走兵として訴追される可能性のある旦那と子供2人は帰ってくることができんかった。この場合は、他の家族の場合とは事情が異なるから難しい問題やったかもしれん。

首相は、それでも旦那に1時間かけて説得を試みたという。どのような仕方で説得したのかはわからない。日本に帰化すれば、米国の訴追を逃れられるっちう方法を伝授したんやろか。せやけど、国を代表する首相から1時間も説得されても、首を縦に振らなかったっちうのは、ある意味でスゴイよな。だって、フツーなら根気負けして「はいっ、わかりました」となるやろ?それとも、この旦那、よほどの頑固者か、訴追がコワくてビビる腰抜けだったのかもしれん。わからんけど。

今回の訪朝は、一体なんだったんやろね。拉致被害者の家族の返還は当然のこととしても、生存の不明な人たちの情報なりを引き出すのも大切な任務やなかったんか?「家族会」の方々が激怒するのは当然やろ。

しばしば思うんやけど、結局は他人事なんやな。自分の家族が不明者やったら、何が何でも情報を取ってくるやろ。まあ、政治の世界ということを考慮したとしても、もうちょっと何とかする方法はあったんちゃう?

今後の行事、つまり六カ国協議や参議院選挙のためのパフォーマンスと思いたくはない。しかしなあ、いくら血のつながりがないとはいえ、拉致された家族の人々の「心の痛み」を感じられんようじゃ、「今回はこれだけの成果がありました」と言われても、誰も信用せんよ。

医者による医療ミスの問題と同じく、政治家にしても、民衆の心を知らんと理解はされん。己の政治的立場とか野望を満たすためだけやったら、そんなやつ、いらんわ。何のために政治をするのか。根本にあるのは国家の平和を実現させるためやろ?そのためには、どうしたって海よりも深い愛がなくちゃアカンのとちゃうか?

愛のない政治……あぁ、実に不毛やわ。
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そ、そんなつもりじゃあ…

2004-05-21 04:28:26 | 脳みその日常
ありゃま、食うもんがないやん。おぉっ、タバコまで切れとる。ったく、雨だっちうのに、面倒くさいのぉ。しゃーない、買い出しに行くか。

しかし、クルマに乗った瞬間に血が騒ぐ。うーん、しゃーない、ひとっ走りしてくるか。どこへ行こうかなあ。そや、久しぶりに奥多摩方面にでも行ってみるか。そう考えながら、すでに五日市街道を走っとるワシ。
(* ̄m ̄)プッ

最初は、適当なところまで行ったら戻ってこようと思ってたんやけど、そうはいかん。前に大学の合宿で行った旅館あたりまで行くと、「おーし、奥多摩一周したれっ」と心に誓う。ところが、奥多摩周遊道路は夜間通行禁止ということをすっかり忘れておった。ちぇっ、オモロないやん。んじゃあ、上野原方面に軌道修正。こんだけ雨が降っとると、おなじみの「走り屋さん」も定休日。うはーっ、マイ・ロードやな。それがまたワシの血を騒がせる。

もうちっとで上野原っちうところまで来た時、藤野方面に行く道が出てきた。おっしゃー、ついでに寄り道したれ。このへんあたりなんて、もう林道みたいに道路は細い。万一、対向車でも来ようもんなら、大変、大変。でも、雨だから安心、安心(爆)

それにしても驚いたのは、道の脇に「通学路注意」なんて書いてあること。ヲイヲイ、このへんの子供は自然児かよっ。すげーな、おいっ。ついつい脱毛。いや、ワシはまだハゲとらんから、脱帽にしときます。

そんなこんなのワインディングを繰り返していると、またまた分かれ道に。藤野方面と和田峠か…。ここまで来たら、和田峠も制覇したろ(時すでに午前2時半)。実は、ワシはこっちから登ったことがなかったんで、いつかはチャレンジしてみようと思うとったとこやねん。相変わらず、対向車は皆無。(そら、そーだ)

で、陣馬街道をトコトコ下り、そのまま八王子に来るのでは芸がない。そこで、途中から秋川街道に入り、滝川街道経由でそのまま明るい町並みへ戻る。そして、もちろん下道で帰宅。今回は、160Kmぐらい走りましたわ。

で、買い物はというと、
ええ、ええ、ちゃんと買い出しは済ませましたよ。
帰宅直前にね(爆)
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ギヴとテイクの関係

2004-05-20 21:33:05 | 脳みその日常
Give and Take。これは、公平にやり取りするとか、互いに譲り合うといった意味。ところが、人間関係においては必ずしもそうではない。

極端な例を挙げれば、限りなくおおらかな人は、与えることを当たり前と思い、見返りなど求めない。これを「Give派」としよう。一方、図々しい人は、もらえるモノは何でもカモーンというアッパレなタイプ。こちらは「Take派」とする。

どんな人も、これら両派の要素をもっている。異なるとすれば、その比率であろう。世の中がうまくいくには、両方の要素のバランスがとれていればよい。

またまた極論であるが、世の中の人間が完全「Give派」と完全「Take派」に分かれていても理論上は平和なはず。しかーし、それこそ机上の空論であって、そんなことはあり得ない。なぜなら、人間にはみな感情があるからである。

心の狭い人間であればあるほど、「あのヤロー、もらってばっかりで、何もリターンしやしねえ」と恨むものだ。そうした恨みつらみが鬱積して、やがては犯罪や戦争へと発展していく。

けれども、人間には「他人を傷つけてはならない」という道徳も、一方にはある。道徳といえば聞こえは良いが、それ以前にDNAへの刷り込みがあるのだ。どんなバカタレであっても、人間のDNAには種を保存せよという命令がもともとインプットされている。バカタレが凶悪事件を起こしたり、戦争を始めたりするのは、種を保存するというDNAをどこかに置き忘れてきたからにほかならない。いや、もしかしたら、置き引きにあったのかもしれんな。

冗談はともかくとして、フツーの人が、些細なことで、すぐに相手を殺ってしまおうと思わないのは、つまりは本能のなせるワザなのだ。「世間体があるから我慢している」なんてのは、ちっぽけな理由にすぎない。そう、本能的にストッパーがかかるから、相手をぶち殺さないだけである。もし、そうした本能が人間に備わっていなければ、ギヴ・アンド・テイクなんていうものはなかっただろう。もう世の中、血の雨が降りまくってるに違いない。

ありゃ、ずいぶんと話が殺伐とした感じになってきたな。
あぶない、あぶない。
話をもとへ戻そう。

人間社会がそこそこウマくいっているのは、本能的な命令は別にして、それなりにバランスがとれているからかもしれない。そのバランスは個人の中のことではない。つまり、ギヴの人とテイクの人がいて、それぞれが役割を担っているのだ。ただし、両者の関係は絶妙なバランスの上に成り立っているので、その関係に少しでも利権が絡んできたりすれば、たちまち険悪なムードになりかねない。国家間の紛争は個人同士の争いとは別の問題だとする意見もある。でも、ワシに言わせれば、そんなのは五十歩百歩である。国と国の間の利権が絡むからこそ、ドンパチが始まるのさ。あー、なんて醜いんだろうねえ。

もっとさー、みんな鷹揚に構えてみない?
目先の損得だけでヒステリックになっても、しゃーないやろが。
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桃屋だな、まったく…

2004-05-19 23:47:30 | 脳みその日常
いえね、まるで「つゆ」みたいなんで。
さぶい小話は、これぐらいにして。

おいっ、東フィル、どっちやねんっ。
たまたま今日届いた演奏会の招待状。
チラシには14:00開演ってあるが、招待状のほうの開演時間は19:00になっとるやん。
こーゆー基本的なミスをしとること自体に問題があるな。
アンタんとこはブランド志向なんやろ?
上を見るのはええけど、もっと足下も見ようや。
油断すると、ほんま足下、すくわれるで。
きっと、数日中に訂正のハガキが届くんやろなあ。

あのね、ハガキ代もバカにならんのよ。
そういった経費こそが、まさにムダやん。
ちょっと見直せば、こんなミスなんかせずに済むのにねえ。
ここも、まだまだトーシロやな。
まあ、この演奏会、ワシは行かんからええけど。
(* ̄m ̄)プッ
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何しとんねんっ

2004-05-18 04:56:47 | 脳みその日常
世の中の動きを見とると、ホンマ、どいつもこいつも…ってな感じやわ。

年金問題にしても、オノレが納めてないくせに、エラソーな顔して演説するアホがおる。
これを、厚顔無恥と、昔の人なら表現したわな。
拉致問題かて、何しとんのやろって感じやな。
人道的援助と核問題は、拉致問題とは全く別の話やろが。
イカレた国家の責任者である金豚が、すでに拉致を認めとるやん。
そやったら、相手があーだこーだ難癖つけてきても、スルーすればええこと。
そう、無条件に被害者を返してもらえば済むことやろが。
なのに、難癖をつけられることに慣れとらん我が国は、ビビリっぱなし。
なんで被害者の国家が相手の顔色をうかがわなあかんねんっ。
借金取りよろしく、こっちは堂々と乗り込んで救出すればええやん。
ったく、腰抜けばかりで見ておれんわ。
サムライは、この国にはおらんのかな。
あ゛ー、情けない。

情けないといえば、この前の昼間かかってきた営業の電話。
おいっ、自信のなさそうな奴が営業の電話なんぞ、すなっ。
アンタ、何をワシに売り込みたいの?
そこんところが、ちーともわからんのやけど。
ええか? 営業っちうのはな…(略)
あまりにヒマやったから、営業のイロハを説教したったわ。
迷惑電話は、うまいこと活用すると、こっちのストレス解消に役立つでー。
カワイソーな奴には説教を、そーでない生意気な奴には、すごんだらよろしいw

細かいことやけど、Kさん、早朝の9時に電話してくるのはやめてください。
熟睡モードに、まさに入りかけていたのでねw

追記
こらっ、ローズ、無免許運転したら、あかんがな。
もっと有名人っちう自覚しとけよ。
かっこわるぅー。
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自信がないのか?

2004-05-17 04:40:35 | 脳みその日常
昨日、サボったので、もうひとつ。

最近の若い人を中心とした日本語の使い方で、ワシには違和感を覚えるものがある。
たとえば、自分の考えを相手に伝える場合、従来であれば、
「○○のことなんだけどさー、▲▲だよねー?」である。
ところが、最近の使い方だと、こうなる。
「○○のことなんだけどさー、▲▲なくない?」という使い方だ。
些細なことかもしれんが、この2つの違いは大きい。

「▲▲だよねー?」のほうは、話し手に明確な主張、もしくは断言が感じられる。
つまり、自分はこう思うと明確にした上で、その意見を相手に問いかけている。
これに対し、「▲▲なくない?」にも確かに話し手の主張はある。
しかしながら、自分の意見に自信がないのか、
あるいは話す相手に気を遣っているのか不明であるが、その主張自体に弱さを感じるのである。
違う見方をすれば、「▲▲なくない?」のほうは、
話し手が最初から自己防衛をしているようにも受け取れる。
話し手は、相手から万一その意見を否定された時にショックを受けないために、
あらかじめ、問いかけに否定語をつける。
自分の意見なのに、である。
そうすれば、相手から否定されても
「そうだよね、ワタシもそうじゃないと思うしー」ってな感じで受け流すこともできるからね。

この見方が仮に正しいとするならば、これはワシには由々しき問題のように思えてならない。
なぜなら、会話において、意見が対立するのは当たり前のことだからである。
なのに、最初から意見の対立を恐れて、
どっちつかずのようなスタンスの発言をするというのは、どういうもんなんだろうね。
ワシみたいな「古い」人間には、そうした日本語の使い方を耳にするにつけ、
コミュニケーションの希薄さを思わざるを得ないのだがねえ。
だって、「▲▲なくない?」の発言を用いて議論してごらんよ。
きっと議論にならんと思うよ。
自分の意見が明確でないから、常に主張の軸がブレることになるわけでしょ?
てことは、「どっちやねん」とツッコまれることは目に見えてる。
議論にならんやん。

ただね、若い人がそのような使い方をするのも、わからんではない。
若い頃というのは、とかく感受性が強い時期だから、傷つくのが怖いという気持ちがあるんやろな。
ワシみたいなオッチャンには「かすり傷」のようなものに思えても、
若い人にとっては「致命的な傷」に思えるかもしれんからなあ。
そのほか、自分に自信がないことと、将来に対する不安ということも関係があるかもしれんな。

でも、自分を守ることばかり考えていては、なんにもできんのよ。
人間としての「うつわ」も、ちっこいまんまや。
自分の意見はこうだとハッキリ言うたら、よろしい。
それで傷ついても、ええやん。
若い頃に傷を多く受けた人ほど、人間としての「うつわ」は結果としてデッカクなっとる。
まーちがいないっ ! (どこぞの芸人ふう)
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