ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

ロマンは臭い?

2007-10-28 06:01:47 | 脳みその日常
星空をこよなく愛するワシとしてはこんなサイトを見るとガッカリしてしまう…。

知らぬが仏とは、このこと。

嗚呼
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すこやかな心でいるために

2007-10-22 07:14:03 | 脳みその日常
後輩などからたびたび相談を受けることがある。相談の動機はさまざま。将来が不安ということもあれば、自分に自信がないゆえに助言を欲してくることもある。まあ誰でも若い頃というのは程度の差こそあれ、ある種の情緒不安定の時期。仕方がないことなのだ。彼らからすればワシなんて悩むことのないノーテンキな人に見えるんだろうな。

確かにノーテンキなところはある。というより、どうでもよいと思ったことは気にしないだけのこと。くだらないことにいちいち付き合っていたら疲れちゃうからさ。

そうはいってもワシも生身の人間。健康保険証を使ったことがなくても気分的にヘコむことはある。そんな時はどうやって乗り越えるのか。以下、ワシなりの解決法をお教えしましょう。参考にしてくだされ。

●目的から目をそらす

そもそも情緒不安定になるというのは気持ちのコントロールを自分で操作できないことから生ずることが多い。イライラするのはそのせい。自分自身がパニックに陥っているので、この段階で当初の目的を達成するのは無理。それを押し殺して頑張ろうと思うのは無駄というもの。

こういう状態の時は目的とするものから一旦離れるのが吉。たとえば勉学で行き詰まっていたら机から離れてみるのだ。そして周囲を見回す。すると本来の目的とは異なるどうでもよいことが目に入ってくる。家具の上にホコリがたまっているのを見つけたり、本棚に収納されている書物の順番が気になり出したり…。

ひとつでも気になったことがあればすぐさまそれに取り組むと良い。腹が減ったなと思えばメシを食えば良いし、最近洋服を買ってないなと思ったらお出かけすれば良い。とにかく当初の目的以外のことに着手することが大切。そんなどうでもよいことに時間を費やすと遠回りになりそうだが、道草をすることで気分転換になり、結果的には当初の目的に集中できるようになる。ワシの場合はもっぱらドライヴだけどね。

●目標を低く設定する

「生き甲斐がない」とか「生きる元気がない」といったアリジゴクに嵌ってしまった人にはこの方法がオススメ。このアリジゴクは厄介な代物である。しかしこの症状の人の多くに共通する特徴はある種の理想をすぐに実現したいと思っているところにある。それも実現がかなり難しい理想だったりする。だいたい理想なんてものは健全な精神をもっててもなかなか実現できるものじゃない。

といってその理想を捨てろとは言わない。むしろ実現に向かってもらいたい。そのためにまず大切なのは現在の自分の置かれている状況を見つめてみること。つまりは現状の認識である。そこで今の自分に何ができるのかを考えてみる。理想(目標)に直接結びつかなくても、まずは外堀から埋めてゆくのが大事。簡単に言えば「今できることを、ひとつひとつクリアしてゆく」のだ。

ちょっとしたことでも構わない。その積み重ねが自信につながり、場合によっては新たな目標や興味が出てきたりする。人間なんてそんなものだ。だから、些細なことでよいからまずは行動を起こすこと。これがポイント。

●「誰かのためにやるのだ」と考えてみる

責任を負わされると、どんな人間もストレスを感じる。それは仕方のないこと。また、責任はないけれど、勝手に自分で悩みを抱え込んでしまうこともある。実はこれがストレスやプレッシャーの親玉なのだ。「責任重大だぁ~」「あぁ、どうしよう、参ったな」てな具合。

責任を感じるのは人として大切なことである。また困ったなと思うのも日常生活のなかではよくあること。でも自分のなかにストレスを溜め込んでも何の解決にもならんのですよ。むしろその責任や悩みを良い意味で他人に責任転嫁すると気持ちがラクになることがある。

くれぐれも言うが、それは他人のせいにするのではない。「与えられた責任を自分が放棄すれば、それを管理する○○さんが困るだろうな。だから○○さんのために頑張ろう!」とか「悩んでいる姿を○○さんが見たら暗い気持ちになっちゃうだろうな。だったら、○○さんが楽しいと思ってくれるようにこちらも明るい気持ちにならなくっちゃ!」と考えるのだ。

他人のことなんて考える気持ちの余裕はないという人もいるだろう。確かにそう思うよ。でも、敢えてそこで「いっぱいいっぱいになった自分の心」に他人というものを登場させるのである。そして心の中で自分の重圧を他人のせい(または誰かのため)と置き換えてみるのだ。こういう発想の転換ができれば仕事が捗ったり、悩みを抱え込むことも少なくなる。

「生きる元気がない」という人も実践してみたらよい。「○○さんのために生きよう」と思えたら自らをアヤめることはできなくなるよ。だって、○○さん、悲しむでしょ? ○○さんを悲しませちゃいけないよ。

●寝る(機が熟すの待つ)

以上の方法でも心が晴れない場合は、寝るのが良い。それもウンザリするほど寝たらよろしい。睡眠というのは人間の基本的な欲求のひとつなので、睡眠という欲が満たされればそれ以上寝たいとは思わなくなる。そうなった瞬間がまさに行動を起こす時だ。今まで無為に過ごしていた時間を取り戻すために頑張ろうという別の「欲」が出てくる。そんなものだ。

とりあえず、思いつくままに。
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視点を広く

2007-10-19 13:35:12 | 脳みその日常
2ヶ月ほど前、ひとりのオバさんが「歌い方教室」に入会。以来、毎回前掛けをして来るので商売をしている人なのかと思っていた。でもその割に表情は硬く、笑顔もこわばっている。何か不自然だな。そんなことを思っていたら、先日オーナーの話でナゾが解けた。

実はこの人、代々農家を営む家に嫁いだのだそうだ。そして数年前から痴呆症を患った姑の世話に明け暮れる毎日だったという。で、2ヶ月ほど前に姑が老人ホームに入所することが決まり、晴れて姑の介護から解放され自由な時間ができたそうな。

ところがその家の周囲も代々の農家。良い意味でも悪い意味でも近所の「目」を意識しないわけにはいかない。いくら長年にわたり姑の介護をし、もう介護しないでもよくなったからといって「さあ、自分の人生を楽しむぞ!」と胸を張って出かける雰囲気ではないとか。もしそんなことをしようものなら、近所の「目」は見逃さない。

「あのウチの嫁は姑のことなんか忘れて遊んでいるヒドイ嫁だ!」

と、たちまちウワサが広がるそうな。だから本当ならお出かけのための服装をしたいのだけれど、あらぬ誤解をされないように「さも買い物に出かけるような格好」をして教室にくるらしい。今時の東京でそんなことがあるのかと俄には信じがたい話である。でも現にそういう人がいるのだから信じるほかはない。なんたることだろう!

なるほど、表情が硬いのはそのせいだったのか。長年の介護によるいわば強制的な「ひきこもり」状態と周囲の封建的な環境によってストレスが溜まり、この人から笑顔を消してしまったのかもしれない。好きでもない前掛けをしなければ出かけられない境遇を知って、思わず胸が詰まった。

オーナーによれば、幸いなことに本人は毎週一度の教室を楽しみにしているという。そういえば入会以来一度も休んだことがない。歌うことはストレスの発散になるから本人にとってはいいんだろうな、きっと。最近その人の表情が柔らかくなってきたのはストレスを溜め込んでいない証拠だし。

ワシが教えていることは決して高度なものではない。クラシック音楽の連中からすれば低俗な内容にみえるだろう。でもワシは恥ずかしいとは思わない。むしろ貴重な経験をさせてもらって感謝しているし、いろんな人に出会えて楽しくて仕方がない。

19世紀ロシアの「ヴ・ナロード」運動ではないが、こうした経験こそが一般の人々の目線を理解する最も有効な手段とも思える。彼らが音楽をどのように捉えているのかが即座にわかるからだ。もちろん一方で高度な音楽教育は必要である。否定はしない。ただ、専門的になればなるほど一般の人々の「息づかい」が理解できなくなるのは事実。果たしてそれでよいのだろうか。限られた人にのみ理解されるものでよいのだろうか。

専門バカとオタクになるのはある意味で簡単だ。好きなこと、興味のあることだけ追究すれば良いのだから。でも何事もバランスが肝心。音楽の専門教育を受けた我々は、このへんのことをもう一度考えてみる必要があるように思う。
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スマル亭を目指す

2007-10-16 04:59:03 | ドライブ関連
以前、静岡県内を走っている時、しばしば目にしていたのが「スマル亭」の看板。食堂らしいことはわかっていたが、これまで一度も立ち寄ったことはなかった。仕事がやっとひと段落したので気分転換に静岡に行って「真相」を確認してみることに…。

だいぶ前にスマル亭のサイトを見た時、由比あたりに最初の店があり24時間営業だった記憶があったので、そこを目指す。中央道で河口湖まで行き、そこから富士山の西側をぐるっと回るR139で富士宮市と富士市に。そしてR1に合流して清水方面へ向かう。

さてさて、どこだったかなあ。キョロキョロしながら走っていると上り車線側に店舗の看板を発見。すぐに右折したいところだが、このあたりは右折する場所がない。やむを得ずそのまましばらく走り続ける。

すると前方にまたまたスマル亭の看板が。よし、とりあえずここに入ってみよう。深夜2時なので店内はガラガラ。腹も減ったし、とりあえず「唐揚二色そば」(450円)を注文。桜えびと白魚の唐揚げがそばの上にきれいにのっかっている。桜えびの風味が何とも言えず食欲をそそる。濃いめのツユだがダシがよく利いていてウマい。この写真では油でギトギトしているように見えるが実際にはそれほどでもない。

店番をしていたオバちゃんに「ここがスマル亭の一番最初の店かい?」と尋ねる。オバちゃん、けだるそうに「違うよ」と答える。そのリアクションにちょっとムッとしたが、気を取り直してその場所を聞く。すると、先ほど上り車線で見かけた店がそうらしい。ならばとその店に向かう。

R1沿いにある「1号店」は小さな店だ。夜中はトラックがメインでビュンビュン走っているので、店を見つけたら早めにウィンカーを出して停止する意思表示をすること。そうでないと追突される恐れがある。駐車場はあるにはあるが、ほとんど使えないといってよい。なぜならトラックが駐車場を塞ぐ形で停車しているから…。まったく困ったもんだ。仕方ないので、路肩にクルマを停車させ店内へ。

ここもオバちゃんがひとりで店番をしていた。狭い店内には駐車場を塞いで駐車しやがった憎たらしい運転手がひとり。よく見るとその人は典型的な中年体型のオバちゃん。あぁ、これから東京方面へ荷物を運んで行くのか…。大変だな。そう思うと憎たらしい気持ちも消えた。

さて、研究熱心(?)なワシの中には「もしかするとここの味はさっきの店とは違うのでは?」という疑念がわく。でも、さっきと同じものを食うのはツラい。そこで「桜えび天せいろそば」(500円)をオーダー。(また食ったのかよ!)

これもウマいにはウマい。ただ、ガッカリしたのは天ぷら。チェーン店ということもあるのだが、この天ぷらはファミレスの場合と同様、あらかじめパックされているものが使われる。注文を受けてからそのパックされた天ぷらを取り出し、電子レンジで温め直すシステム。だから揚げたてのサクサク感はない。まだカップ麺の天ぷらのほうがサクサクしている(と思う)。

ガッカリなのはここに載せた写真!手ブレでピンボケじゃないか! しっかりしろ、ワシ。

腹一杯になったところでR1をトラックに囲まれつつ東京へ。今回の走行距離は370km。
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良い口癖

2007-10-09 17:19:51 | 脳みその日常
「ありがたいですね」
「いつも助かります」

これらはワシが懇意にしている整備工場の社長の口癖。文字だけを見ればどうってことはない。誰もが使うフレーズかもしれない。でもそれが口癖になっている人はどれほどいるだろうか。

通常、こうした文言は他人から何かをしてもらった時に発せられる。この社長の場合も例外ではないだろう。しかし我々はどんな時であっても即座に感謝の言葉を発することができるだろうか。

ちょっとしたことをしてもらった時、確かに誰でも「ありがとう」とは言うだろう。でも果たしてそこに心が込められているだろうか。挨拶程度の意味合いで「ありがとう」と言ってはいないだろうか。

仏教の教えのひとつに「身・口・意の三業(しん・く・い・のさんごう)」というのがある。これは簡単に言えば、どんな行ないも、どんな言葉を発しても、そして心で思ったことであってもすべて業(ごう)になるというもの。

たとえば、暴力を振るったり、口汚く罵ったり、良からぬことを考えるだけでもそれらを発した人の因縁になり、やがて因果応報となって本人に帰ってくる。だから良き人生を送りたい、もしくは極楽浄土に行きたければ「身・口・意の三業」のことをいつも心しておきなさいといった教えだ。

この教えを別の視点から捉えるならば、こうなる。人のために何かをしたり、感謝の言葉を述べたり、他人を恨んだりしないといったことをしていれば、もしかすると良い人生を送ることができる(かもしれない)。-◎

理念に同意するしないを問題にしているのではない。ただ、現代の処世術として考える時、少なくとも後者(◎)を実践していれば他人から悪い評価を受けずに済むのは事実だろう。そりゃそうさ、自己中心的な振る舞いをしたり、「ありがとう」も言えず、年がら年中悪意を抱いていたら嫌われ者になるのは確実なワケだし。

エラソーなことを言ってるが、ワシがそれを実践できているのかというと、否である。目指してはいても、なかなか実践できないでいるのが実際のところ。そもそも他人のことを評価するのが仕事だったりするから、悪口で発言しているつもりはないにせよ結果的に悪口と解釈されてしまうことも多い。だからというわけじゃないが、ほかの要素、すなわち「身」と「意」だけでも実践しようと日々努めている。なかなかうまくいかないけどね。

話を社長に戻そう。ワシが常々感心するのは社長の発する口癖のニュアンスだ。文字でうまく表現できないのがもどかしいけれど、同じ感謝の言葉を発するにしてもそこには「ありがたい」という気持ちが込められている。決して棒読みではないし、営業的な発言でないことは実際に聞けばわかる。

気持ちが伝わるからこそ、こちらもできることがあれば社長に何かしてあげようという気になる。そんなこんなで付き合いは20年以上になった。社長にはまだまだお返ししなければならないことがたくさん残っている。良いことは真似したいものだ。
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まずは、こちらが…

2007-10-03 05:56:29 | 脳みその日常
年に一度のインターバルで、ある雑誌から原稿の依頼がある。嬉しいことであり、またありがたいことでもある。ところが先日送られて来た見本誌を確認したら、何と脱字を発見! それが次の写真。



「オーケストレーション」と書くところが「オーケストーション」となってるではないか。あっちゃー、「レ」が抜けてる。は、は、恥ずかしい。一体、編集者は何をしてるんだ! 原稿のチェックすらしないのか…。

そういえば、ワシが昔から一緒に仕事をしてきた編集者はそのほとんどが優秀で、出した原稿に対して容赦ないチェックを入れてくれたものだった。提出する直前に「ここんところはツッコミが来るかもしれんな」と思っていると、案の定「表現がよくわかりませんのでご検討を」と突き返してくる。

さすがとしか言いようのないリターン。そうした編集者と仕事するのは毎回緊張するけれど、相手を信頼できるのでこちらとしては安心していられる。また鋭いツッコミをされることがわかっているから書くほうも手を抜けない。その意味では表現する上での良い勉強だとも思っている。だから書き直しや再考するのは面倒臭いが、反面で楽しい。

ところが、近年原稿依頼する側(敢えて編集者とは呼ばない)のなかには「編集作業」をまともにしない奴が増えてきたような気がしてならない。特に若年の依頼者にはその傾向がある。仮にツッコミがあったとしてもその指摘がトンチンカンだったりして苦笑せざるを得ないこともしばしば。

酷いケースは著者校すら送ってこない。著者校というのは実際の印刷をする前に著者へ「ゲラ」(仮印刷したもの)を送り、書いた本人にチェックしてもらうプロセスのこと。もしその段階で変更するところがあれば著者の権限で訂正させることができる。鋭い編集者はこの段階で的を射た質問・疑問をゲラに書き込んでくる。こうしたプロセスを経て雑誌もしくは書籍は商品として店頭に並ぶわけだ(実際にはもっと多くのプロセスがあるが、ここでは省略)。

いずれにしても、原稿は書いた著者はもちろんのこと、編集者や用語専門の校正者などの「目」を経て結果的にクオリティの高いものになってゆく。でも依頼者が原稿をチェックしなかったり、著者校を送らぬまま商品になったら、必ずどこかで誤字、脱字、もしくは不適切な表現となる。冒頭のワシのケースはまさにそれ。

だから、編集者と名乗る限りはきちんと「編集作業」をすべきなのだ。送られてきた原稿をそのまま印刷所に転送するだけなら何も編集者がやらなくてもよいのだし。いくら著者の原稿を尊重するという考えから原稿内容をいじらないという方針が仮にあったとしても、それとこれは別問題。

というわけで、ちょいとクレームの電話をしてやろうかと思った矢先、ふとあることに気づく。待てよ、もしその依頼者がワシの原稿をチェックしないまま印刷所に転送したとしたら今回の脱字はワシが送った原稿にそもそも問題があったのかもしれない。

で、念のため確認してみたら…



あひゃひゃ、オリジナルが打ち間違っとるではないか! うーむ、これは明らかにワシのチェック・ミスである。メールで送る前にじっくり確認するのを怠った結果がこういう形で出たというわけだ。もちろんクレームの電話は取りやめ。

依頼者がチェックせず、ゲラも送ってこないのであれば、まずはこちらがしっかりせねばならんのだなぁ。以前よりわかっていたことだが、今回改めて認識させられた次第。反省および感謝。
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