ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

優しい言葉

2005-05-31 03:04:38 | 脳みその日常
一昨日の夜に洗車して幸せな気分に浸っていたら、昨日の朝から雨。
思いっきり凹む。ええぃ、ふて寝してやるっ。

昼頃、外の声で目が覚める。何ごとかと思いきや、迷子らしき幼女がシトシト降る雨のなかで連呼していた。

「おかぁさ~ん、おかぁさ~ん…」

「おかあさん」か……なんて優しい響きがする言葉なんだろう。しみじみ思う。

いい響きだなと感じる言葉には、ほかに「ありがとう」がある。普段何気なく使う言葉だが、なんとも味わいのある言葉ではないだろうか。大事なのはひとつひとつの音をゆっくりと発音してみること。そうすると、この言葉の良さが実感できる。ほら、心の底から相手に感謝しているように聞こえるでしょ?

「ありがとう」……いい言葉だね。

それにしても、あの幼女は母親を見つけたのだろうか…
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エシパイ、いいねえ

2005-05-30 04:41:10 | CD/DVD
英気を養う意味で、深夜に軽く飯能へドライブ。カーナビを見たら、青梅方面へ抜ける道があるのを発見。ならば行くしかあるまい。これがまたナイスな道だった。ナイスに感じるのはちょっとの間の距離なのだが、この道はいいねえ。よしよし、覚えたぞ。

青梅方面に向かったのは他でもない。青梅手前に24時間利用できる洗車場があるからだ。深夜に洗車可能なところは、そうたくさんあるわけじゃない。なので、ここは非常によく利用させてもらっている。

それもあって、今年になってから洗車することがマイブームとなった。もちろん洗車するだけでなく、今年はじめにネット通販で購入したコーティング剤を塗る。このコーティング剤は見事にワシのハートを掴んだ。塗り込めば塗り込むほどイイ色になってゆくからである。

気分良く帰って来たので、ナイスな曲を紹介してみようか。アンドレイ・エシパイ(1925- )の《コンチェルト・グロッソ》(1967)である。コンチェルト・グロッソといえばバロック時代を思わせる名称であるが、20世紀になってからこの名称をつけた作品はちらほら書かれている。有名なところではシュニトケ(1934-1998)の作品が有名だが、その《第1番》が書かれたのは1977年だ。

注目してほしい。エシパイはその10年前に《コンチェルト・グロッソ》を作曲しているのだ。それもバロック様式に基づき、独奏楽器群(コンチェルティーノ)とオーケストラ全体(リピエーノ)にちゃんと分かれている。この作品ではコンチェルティーノに相当する楽器はトランペット、コントラバス、ピアノ、ヴァイブラフォーン。形式はバロックを継承しているが、音楽は現代風で実に面白い。何しろ、出だしが賑やかなジャズだし(笑)

でも、このディスクの音質を期待してはいけない。録音年は1974年なのだが、シャレにならんぐらいヒドいからね。迫力があるといえば聞こえはいいが。もっとも、劣悪な録音だからこそ指揮者スヴェトラーノフの「扇風機」の音は聞こえないからいいけどさ(苦笑)

(参考)ファンによるスヴェトラーノフのHP
(参考)スヴェトラーノフの公式サイト(露、英、仏)
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休日の音

2005-05-29 19:52:28 | 脳みその日常
今日は何もしない文字通りの休日。何もしないでいると普段気に留めていない音が聞こえてくるもの。なるほど、ジョン・ケージの偶然性の音楽はこういう発想で生まれたのかもしれない、などと勝手に納得してみたり…。

家の前の道は、日曜日になると自転車に乗った人々が多数通る。もちろんツーリングとかじゃない。散歩感覚でブラブラと走っているらしい。

斜め前が分かれ道になっているせいか、人々はここで立ち止まる。そして、たいていこういう会話となる。

「どっちへ行く?」
「あっ、こっちの道は初めてだわ」
「じゃあ、こっちへ行ってみようか」
「うんうん」

初めて通る道へのワクワクした気持ち。それはワシが深夜にクルマで経験しているのでよくわかる。彼らはそれまである程度ペダルをこいでいるから、それなりに疲労しているハズ。なのに、声は弾んでいる。

そう、初めて目にする景色は疲れを忘れさせるほど心を高ぶらせるものなのだ。子供の頃によくやった冒険、大人になってからの気ままな散歩。それらはいずれも根っこは同じなのかもしれない。付け加えるなら、ワシの深夜のドライブも…。
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乗るたびに…

2005-05-28 22:50:56 | 脳みその日常
電車にはめったに乗らないのだが、乗るたびにマナーや倫理が損なわれていることに気づく。たぶん毎日通勤している人は気づかないだろう。しかし車内マナーの低下は本当に目を覆いたくなるほどである。事例を挙げようと思ったが、思い出すと憂鬱な気分になるのでヤメる。

これでますます電車を利用する気がなくなった。
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さあ、飲み会だ!

2005-05-27 17:38:15 | 脳みその日常
徹夜で3本の原稿を仕上げる。終わったのが昼過ぎ。いやー、てこずった。

これから渋谷で飲み会である。電車で出掛けるのは面倒くさいが仕方がない。

「花金」を楽しんでくることにしよう。(しかし表現が古いな)
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一面だけで判断する愚かさ

2005-05-26 16:22:02 | 脳みその日常
音楽に限ったことではないが、物事をトータルで判断できない奴はダメである。分かりやすい例を挙げるなら、ある人を判断する時にひとりの意見を聞くだけではダメということ。意見する人がどんなに信用のおける人であっても、その意見はあくまでその人の見解に過ぎない。自分で確かめる方法がなければ、複数の人の意見を聞いてみることだ。そうすることにより、「ある人」のイメージが自ずと浮かんでくる。

批評だって基本的にはそのスタンスでなければならないと思っている。もちろん誰かに「この演奏はどうだった?」なんてことは訊ねない。あくまで自分のなかで判断するのみ。ただし、ワシの場合は演奏を感覚だけに依存することはない。むろん音に対する感覚がなければ判断なんて無理。しかし、感覚のみに頼ると、いつの間にか自分の嗜好に近いものが良い演奏のように錯覚しがち。それでは感想に過ぎない。じゃあどうするのか。

演奏を聴きながら、その作品が書かれた時代の特徴などを考える。音楽史や演奏史の視点も考慮しつつ、演奏を聴く。その上でこの演奏が妥当であるか否かを判断するのだ。こう書くと、何だかエラソーに見えるかもしれない。だが、批評する人間の嗜好だけで判断されては、演奏家があまりに気の毒ではないか。もし演奏家のやり方が合理的なアプローチであったとしても、「そんな演奏はキライだ!」というオタッキーな批評家にダメ出しをされたら演奏家の苦労は水の泡。きっと演奏家の恨みだけが残ることになる。それでは批評する意味がない。

とはいうものの、ほとんどの批評家は何の根拠もなく書き散らかしているからタチが悪い。彼らの多くは音楽史のことや音楽理論についてまともに学んでいない。なのに音楽批評をしている。不思議でならない。彼らがそうしたことを学んでいないことを知るには、彼らの書いた曲目解説を読めば一目瞭然。解説の「か」の字にもならないお粗末な文章だから。それがバレるのが怖くて、解説の依頼を受けない者も多い。なのに批評はする。笑止千万だよな? 思うに、彼らが批評の仕事を堂々と受けるのは、長年クラシック音楽を聴いて来たというワケのわからない自信があるからにほかならない。

しかし、いくら聴体験があろうと、基本的なことがわかっていなければどうしても的外れなことしか書けない。なぜそう言えるのかというと、ワシの講座の受講者の話を聞いていて確信したのだ。ちゃんと音楽史を勉強していればトンチンカンな質問などしないはず。なのに悪びれることなく質問してくる。もちろん、この人たちはアマチュアの愛好家だし、知らないことを教えるのがワシの仕事だから質問されるのは一向に構わない。むしろどんどん質問して欲しいくらいだ。問題なのは、長年音楽は聴いているが、実は音楽の構造や歴史などをロクに知らない批評家のほうなのである。仮にもプロとしてやっているのなら基本的な知識ぐらい持てよ。

彼らの悪口を書くつもりは毛頭ない。ただ、そういう連中に批評を依頼する業界の神経が理解できないのである。ま、こんなところでボヤいても仕方ないが…。
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業界は狭い

2005-05-25 17:50:24 | 音楽あれこれ
昼前に同業者のSさんから電話。何やらご立腹の様子。いや、ワシに対してではない。

話によると、演奏会の曲目解説の原稿依頼がFAXで届いたとのこと。正確には、かつて書いた原稿を転載させて欲しいというものだったそうな。今回の演奏会がその転載原稿と同じプログラムならばいいけれど、そうではない。つまり、自分以外の誰かが書いた原稿と自分の原稿とをミックスさせた曲目解説になるということなのだ。

もちろん大掛かりな企画や音楽祭などのように何十曲もの作品が演奏されるものの場合は、数人の執筆者が分担して書くことはよくある。しかし、ひとつの演奏会の解説を複数の執筆者が書くことはあまりない。まったくないわけじゃないが、日常的に行なわれることではない。事実ワシにもそういう経験はあるし。ともかく、彼女はそうした「異例なこと」にひっかかりを感じたという。

「そういうのって、あのマネジメントでは普通に行なわれているのかしら?」
「うーん、まあ、なくはないけど、一般的には珍しいケースだねえ」
「そうよね?」
「で、結局その依頼は受けたの?」
「なんか納得いかないから断っちゃったわ」
「あらまあ…」

愚痴ともとれる話を聞きながら、何気なくメールをチェックしていたら、件のマネジメントからワシのところへメールが届く。何だろうなと思って開いてみると、先ほど彼女が断った曲の依頼だった。ウワサをすれば何とやらである。たぶんマネジメントの担当者は困った挙げ句、ワシのところへ依頼してきたのだろう。

で、その依頼を受けたかって? そりゃ、もちろん受けましたとも。
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「ドイツ命」のバカなジャーナリスト

2005-05-24 15:05:26 | 音楽あれこれ
岸 浩という音楽ジャーナリストがいる。このオッサン、30年以上ドイツに住んでいるせいか、ドイツこそクラシック音楽の本場だと洗脳されてしまったらしい。(参考記事) 視点があまりにも偏狭過ぎてあきれてしまう。

オッサンの論理によれば、20年前にはドイツで活躍する日本人演奏家は大勢いたが、このところ激減している。それに代わり、近年では韓国や中国の演奏家がドイツで活躍するようになった。これは由々しきことだ、と。

おいおい、演奏家はドイツで活躍しなければダメなのかい。確かにドイツには多くの歌劇場があり、歌劇は頻繁に上演されている。またドイツ・オペラに優れた作品があるのも認めるよ。だからといって、ドイツで活躍しなければならないという理由にはならないんじゃないのか? 何も歌劇場はドイツだけにあるわけじゃなく、世界中の各都市に存在するわけだし。

さらに、オッサンは激減した理由を日本の声楽の基礎教育がよろしくないからだと思っているようだ。あのさ、短絡的過ぎませんかねえ。統計的にはドイツで活躍する演奏家は減っているのかもしれない。でも、それって日本人の声楽家の質まで落ちているってこととイコールになるのか? オッサンよ、他国の状況については調べたのかね。他国には一切触れず、ただ単にドイツで活躍する演奏家が減ったから困った困ったと考えるのは、あまりにも浅すぎる考えだぞ。

ドイツでの状況を読んで、ワシなんかが思うのは全く違う。日本の演奏家がドイツで活躍しないようになった理由は別のところにあるんじゃないか、と。つまり、日本の演奏家は今のドイツで演奏することに魅力もしくはメリットを感じてないから、敢えて現地で活躍しようとは思わなくなっているんじゃないか、と。

先にも書いたように、今や世界中に歌劇場がある。すなわち活躍の場は何もドイツだけではない。いまさら「ドイツが本場」などと何の疑いもなく信じているのはあまりに能天気であり、アナクロニズムの極みというほかはない。「木を見て森を見ない」というありふれた諺があるが、このオッサンの視点はまさにそれだ。痛々しいねえ。
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点と点が繋がる時

2005-05-24 05:55:57 | ドライブ関連
長年ドライブをしているので、今や関東近県ならまず迷うことはない。もっとも、それは幹線道路での話。さすがに市道レベルになると知らない道はまだまだある。しかし近年カーナビという便利なモノが登場したので、どんなに知らない道でも不安になることはない。

カーナビがあるからといって、そればかりに頼るとドライブの楽しさは半減する。やはり自分の目で道路は覚えたい。カーナビは迷った時だけに使うのが良いと個人的には思う。知らない景色に出会って感動すること。それこそがドライブの楽しさなんじゃないかなあ。

初心者の頃は誰でも道路のことはわからない。道に詳しくなるには、やはり自分でハンドルを握り走るしかないのだ。初心者ドライバーにオススメしたいのは、まず国道のような幹線道路を走ることである。いろんな幹線道路を覚えたら、次に県道や市道に挑戦するのが最も早く道を覚えられる方法といってよい。

経験するとわかるが、知らない道を走っている時には何が何だかさっぱりわからないものである。ところが、わからないながらも、いつかは幹線道路にぶち当たる。幹線道路を最初に熟知していれば、「そうか、この道はここに出るのか」ということに気づく。そうなればシメたもの。

今まで点と点でしかわかっていなかったのが、急に線に変わる。この瞬間は突然やってくる。喜びの瞬間でもある。しかし、カーナビに最初から依存していると、この快感は絶対に得られない。今走っている道がどこに出るのかなんて、画面でわかってしまうからね。

ワシが深夜にドライブするのは、もちろん道路が空いているからという理由もある。しかし、何より楽しいのは「点と点が線になる瞬間」を味わいたいからなのだ。知らない道をウロウロと走っていても、深夜なら他人に迷惑をかけることも少ないからね。
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フォスのピアノ作品

2005-05-23 05:52:08 | CD/DVD
ある程度クラシック音楽を聴いてくると、いわゆる「マニアックな」作品を探したくなるもの。そんな時ありがたいのがナクソス・レーベルである。このレーベルは、つまるところ「すきま産業」みたいなもので、大手レコード会社がまず取り上げることのない珍曲の類いを、これでもかとばかりリリースしまくることで知られている。それも安価で。もっとも、演奏のクオリティについては当たり外れが大きいので我慢しなければならないこともあるが。

そんななかで今回取り上げるのは、ナクソスの「アメリカン・クラシックス」というシリーズの1枚であるルーカス・フォス(1922- )のピアノ作品集である。彼は1950年頃までは新古典主義的な作品を書いていたが、以後さまざまな技法を用いた作品を書いたりしている。

しかしこのディスクに収められた作品はどれもかなり聴きやすいものといえるだろう。一度聴いたあとでも印象に残りやすい曲が多い。さすがに1981年の作品である《Solo》にはミニマル・ミュージックの影響があるものの、面白い作品であることに変わりはない。

ピアノを演奏しているのはスコット・ダン。録音データには出ていないが、演奏に使われたピアノはおそらくニューヨーク・スタインウェイだと思う。派手で、ちょっと品のない金属的な音はニューヨーク・スタインウェイの特徴だ。同じスタインウェイのピアノでもハンブルク・スタインウェイの音は、もっと「まろやか」だもんねえ。

で、スコット・ダンのオフィシャル・サイトを見てみると自身の演奏がエンドレスで流れるようになっている。聴けばわかるが、その音質は笑っちゃうぐらいシロートのレベル。いや、ライヴとはいえ、演奏も失笑ものである。現時点では9つの曲の「さわり」が流れているが、なんだ?なんだ? 珍しい曲があるじゃないか。

そのうちのひとつが、ミクローシュ・ロージャ(1907-95)の《Spellbound Concerto》。聴くと、すぐにわかる曲だ。そう、これは1945年に制作された映画『白い恐怖』で使われていたもの。この映画では、うるわしのイングリッド・バーグマンさまが出演していたのだ!(笑)

そういえば、ロージャって、チャールトン・へストンがタイトル・ロールである『ベン・ハー』(1959)の音楽も担当していたんだよな。い、いかん…フォスの作品からずいぶん話が逸れてしまったわい。
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モーツァルト交響曲全集

2005-05-22 18:27:55 | 音楽あれこれ
先週木曜日、いつもの「ツケ」を払うためアカデミア・ミュージックへ行く。店に入るや、ベーレンライター社の「モーツァルト交響曲全集」に目が止まった。聞けば通常の41作品のほかに15の作品も収められているという。

ワシは特別モーツァルトに興味があるというわけではない。むしろ、ないほうかもしれない。だが、これだけの作品のミニチュア・スコアが、たった15,000円で手に入るとなれば、ファンならずとも買いであろう。で、即決。

そのほか、ダニエル・アルブライトが編集した「Modernism and Music」も入手。ワシは最近、音楽におけるポスト・モダンについて関心をもっている。ポスト・モダンを考える時、その前の段階であるモダニズムについてちゃんと把握しておかなければ意味がない。そんな動機から購入を決意。決意ったって、そんなオーバーなものじゃないけど。

上記の商品は、もちろん「ツケ」である。いつもながらありがたいことだと感謝している。いうまでもないが、一見さんで来店してもツケはききません。誤解のないように。

それにしても、また衝動的に買ってしまった。こんなことじゃ、カネが貯まるわけがない。とほほ。
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ロンクィッヒ

2005-05-21 12:16:47 | 音楽あれこれ
昨日、飯田橋のトッパンホールでアレクサンダー・ロンクィッヒのピアノ・リサイタルを聴く。この人、1960年にドイツで生まれ、190cmはあろうかという長身。ま、ゲルマンだからねえ。

どんな速いパッセージでもちゃんと音の粒が立っているのは生来の打鍵の強さなのだろう。演奏そのものは安心して聴けるのだが、持ち合わせている音色が「強」「弱」の2種類しかないので作品のイメージが喚起されにくい。20代のピアニストならまだ変貌する可能性もあるが、ロンクィッヒはもう十分オッサンの領域。たぶんこの演奏スタイルは変わらないだろうな。

たまたま会場で知り合いのマネジメントの人と話をする。

「どのようにお感じになりますか?このピアニスト」
「ええ、結構面白いんじゃないの?」
「はぁ…」

面白いのかなあ、こんな演奏で。ワシは退屈で仕方がなかったのだが。たぶんマネジメントの人が言う面白さとは、平均以上の演奏レベルのことを意味しているような気がする。そりゃまあ、超一流のピアニストとは才能に雲泥の差があるわけで、比較するほうが酷かもしれない。

先入観を持たない聴き手は欲張りだから、常に超一流の演奏を期待してしまいがち。事実ワシもそうだ。でも、音楽ビジネスの面からすると、どうやらそこまでアーティストに求めていないような気もする。つまり、「中の上」ぐらいならば合格ラインとみなしているのかもしれない。うーん、果たしてそれで良いのだろうか。

ロンクィッヒについては他のサイトにもあるように、やたらと称賛する文言が並んでいる。確かにチケットを売るための宣伝文句なのだが、こういうのに騙されてはいけない。「深い洞察力と知的なアプローチ」などとあるが、彼はそこまで考えて弾いているとは思えない。

たとえばプーランク《村人たち》には繊細さのカケラもなかったし、リーム《ピアノ曲第5》なんてペダルの使いまくりで音は濁る濁る。また音色の種類が乏しいため、ラヴェル《喜びの島》もメカニカルには弾くが「だから何なの?」というほど面白味に欠ける。後半のシューマン《クライスレリアーナ》におけるフロレスタンとオイゼビウスという二面性の表現にしても、考えて弾いているというより「その場の気紛れな思いつき」というような演奏。

辛口の評価といわれればそうかもしれない。だが聴衆は「中の上」では満足しない。そんなのはホールの「空気」からも明らか。でも、きっと来月あたりに出る音楽雑誌の批評には好意的な評価がなされるんだろうけど。

それにしても、上っ面の曲目解説には閉口した。Hというそこそこ知られた女性評論家なのだが、芸大の院まで出たくせに実にテキトーに書いてやがる。ピアノ曲の解説を専門にやってる割に、書いている内容は実に浅い。明らかに手抜きの仕事である。
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オール電化もねえ…

2005-05-20 17:09:55 | 脳みその日常
家電品、電気がなけりゃただのゴミ。

いやいや、つまらん川柳を書こうと思ったのではない。このところ東京電力のCMで「オール電化はオトクですよ」と声高に宣伝しているのを見て、ふとそう思っただけのこと。世の中の動きもすでにオール電化になりつつある。新築のマンションなどはたぶん100パーセントの確率でオール電化だろう。ガス台とか七輪なんて、現代建築ではもう過去の遺物という扱い。

確かに電気は便利な代物である。ガスのように匂いもないし、防火対策としても有効だ。しかし万一このライフ・ラインにトラブルが発生したらどうなるんだろう。オール電化にしたは良いが、停電になれば冷房や暖房それに食事すら作ることが出来なくなってしまう。もちろんここにブログを書くことだって不可能だ。

そう考えると、生命活動を続けてゆくにあたって、たったひとつの手段に委ねるのは極めて恐ろしいことが分かる。普段何気なく電気を使っているが、「あって当たり前」と思っていることが恐ろしいのだ。関東においては東京電力が突然「もう電気の供給はヤメます」なんてことを抜かしたが最後、我々の日常生活はメチャクチャになるわけだし。

もっとも、そんな状況に今すぐなるわけじゃないし、杞憂だよといわれればそれまでである。ただねえ、みんながみんなオール電化に依存していいのか?と思ったわけよ。
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伊豆半島一周

2005-05-19 05:15:25 | ドライブ関連
このところガソリン価格が高騰しているのと色々なことでバタバタしていたせいもあり、ロクなドライブをしていなかった。たまには景気良くドカンと走ってみたい。で、思いついたのが伊豆半島一周ドライブである。

午後8時過ぎに後輩のT君から打ち合わせの電話が入る。20分ぐらい話した後、早速出発。今回のメインは伊豆半島なので、とにかく半島のそばまで行かなければドライブは始まらない。さあて、どちら経由で行くかな。川崎インターから東名に乗って走りながら考える。よしっ、沼津からにしよう。

午後10時過ぎに沼津インターへ到着。下りてしばらく走ると、雨が降って来た。そんなことはおかまいなしに西伊豆から攻めてみる。R414を南下し、伊豆長岡へ向かう。途中から海沿いの道を走り土肥まで来ると、まるで台風並みの風雨。いやいや、先が思い遣られるわ、こりゃ。

土肥からR136を道なりに南下。堂ヶ島あたりでは濃霧がひどく、視界はほとんどゼロ。こえーっ。突然対向車のライトが見えたりしてワクワクする。

伊豆半島最南端の石廊崎の灯台でも撮影してやろうと思ったが、どうやら灯台までは徒歩でかなり行かないと到着できないもよう。そりゃムリだわ。駐車場に到着したのが深夜零時だから当然あたりは真っ暗。さすがのワシも暗闇の道を歩くほどのチャレンジャーではないので仕方なく撮影を諦め、次のポイントに向かう。

それで、できるだけ南に位置する名所として弓ケ浜海水浴場をターゲットにすることにした。海にほど近いところにある「弓ケ浜」の看板は、もちろん暗くてカメラに写らない。やむを得ず蛍光灯で照らされた観光案内の看板を撮影した。それがアップした写真だ。

よし、あとはひたすら海沿いの道を北上していくのみ。下田からR135をどんどん走る。まだ海水浴シーズンじゃないので、白浜や稲取はまるでゴースト・タウンのよう。そらそーだ、今は夜中だし。

それにしても、深夜1時の伊豆なんて本当にクルマが走ってない。道路はかなりワインディングが多くキツいが、それでもコンスタントに時速70~80キロで走れる。う、うれしい。

熱川から伊東までは、ただただ走る。「おおーっ、有名なハトヤが見えて来たぞ」それを横目にズンズン走る。さすがに網代から熱海くらいになるとチラホラと他のクルマを見かけるようになる。

そして、湯河原を経て早川まで来た。もちろん真鶴道路なんて使わず、クネクネのR135をひたすら飛ばす。あとはR1からR246経由で帰宅する。

今まで伊豆半島一周ドライブは3回ほどやったことがあるが、今回は濃霧に遭遇したこともあって、至極疲れた。でも、久々のベヴィなドライブだったので、言葉にならない充実感で今は満たされている。そりゃそーだよな、470キロも走ったんだし。ええ、ええ、どーせワシはビョーキですとも。
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恐るべし!ダブル・ミーニング

2005-05-18 16:12:55 | 脳みその日常
アップした画像は「だまし絵」で有名なエッシャー(1898-1972)の『騎手たち』(1957)である。説明するまでもないが、これは視点の置き方によって別のものが見えるという目の錯覚を利用したものだ。もっとも、この絵の場合は視点を変えても色の異なる騎手たちが見えるだけなのだが…。

ひとつの対象について2つの意味をもつものを文字通り「ダブル・ミーニング」という。それは何も芸術の世界でのみ存在するわけじゃない。最近「2ちゃんねる」のある掲示板を見ていたら、まさにダブル・ミーニングのものを発見。たとえば、こんなものがある。

でつ


普通に見れば、これはひらがなの「デツ」なのだが、文字としてでなく「ひとつの絵」として見るとスヌーピーの顔に見えてくるから不思議だ。次の例も同じ。

むU


アタマの固い人だと何のことやらサッパリわからないだろう。ひらがなの「む」とアルファベットの大文字の「U」って、まさかキーボードを誤操作したのかと疑いたくなるがそうではない。この2つの文字をひとつの絵として見ると「耳の垂れた犬の横顔」に見えないだろうか。そう、「む」がイヌの横顔を示しているのだ。よく思いつくものだと感心する。つぎの例はわかるだろうか。

にしこり


最初ワシにはサッパリわからなかったが、言われてナルホドと感心した。これは4つの文字をひとつの模様のように見るのである。そうすると顔のように見えてこないだろうか。これは「2ちゃんねる」ではヤンキースで現在活躍している松井秀喜の顔なのだそうである。あはは、そういわれればそのように見えてくるよな?

最後はこれ。

( _ひ )


もうわかりましたね? そう、これは「苦悩する人」の表情である。いやー、確かに苦悩する時の顔ってこうだよね? これ以上の表現の仕方はないかもしれんねえ。この例は必ずしもダブル・ミーニングではないだろうが、感心したので敢えて取り上げることにした。それにしてもスゴイ着眼点だなあ…。
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