ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

立川の花火大会

2005-07-31 17:35:07 | 脳みその日常
昨日は同業者のIさんの家に行く。彼の家は非常に見晴らしの良いところにあるため、昨晩の立川の花火大会をそこで見ようということになったのだ。9人ほどが集まり、それぞれが何らかの食材や飲み物を持参する。

19:20の開始に合わせ、2階へ移動。花火を見るにはやはり部屋の灯りを消さないとよく見えないし、雰囲気も出ない。真っ暗のなかで花火の始まりを待つ。

スターマインが夏の夜空を華やかに演出。「おぉっ、すげぇ」「いいねえ」「キレイだわー」 各々が花火に見入る。しかし、室内の暑さには勝てない。無性に喉が渇き始める。花火は夏の「華」だが、やはり団子のほうが優先されるのだ(笑)そこで、部屋の灯りをつけ、早速宴会の開始。もう全員、花火のことなんて気にかけない。ひたすらアルコールを浴びながら音楽談義に花を咲かせる。

気づけば、花火大会の時間はとっくに終了していた。その部屋にはエアコンがないので、とにかく暑い。そこで階下の涼しい部屋へ移動する。さあ、そうなれば通常の飲み会へ突入である。

出席メンバーはワシらのようなライター以外に、ピアニスト、オルガニスト、雑誌の編集者などが集まったので話題は尽きない。それこそあっという間に時間が過ぎる。そこでうっかり油断すると最終電車を逃すことになる。理性のある4人はちゃんと電車のある時間に帰って行った。ワシはクルマで行ったので関係ないが、家主であるIさん以外の3人はまんまと電車を逃した(笑) そうなると「朝まで生テレビ」ならぬ「朝まで生飲み会」の始まり。

ワシなどはいつも明け方に寝るタイプなので慣れているが、ほかの人はフツーの社会人なので夜中じゅう起きているのは、ほとんど拷問に等しい。それでもそれぞれの立場から音楽について熱く語る。なかばボーッとしながら。

結局、明け方5時半頃にお開き。お疲れさんでした。
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甘い話にゃワケがある!

2005-07-30 04:54:29 | 脳みその日常
暑くてかなわんので深夜のドライブ(笑)といっても、今回はただ下町を流しただけ。永代橋通りから三ツ目通りを北上し、R6に合流。しばらくして右折し、大門通りを南下。突き当たりの深川まで行き、左折してすぐにまた左折。今度は四ツ目通りを北上して明治通りを左折。そしてR6に戻って、帰宅方向へ。

そう、要するに今回はただ南北を行ったり来たりしただけの話。それにしても信号がムチャクチャ多いな。深夜は特に空いているので、こうも信号にひっかかるとケーサツに悪意すら感じてしまう。まあ、特別目的があってこの時間までに行かなくちゃならんわけじゃなかったからいいけど。

ちょっとクルマが汚れていたので、山手通り沿いにある24時間営業の洗車場へ行ってみる。「初台下」の信号近くにあるこの洗車場。こんな時間だから利用者はほとんどいない。

セルフ洗車は2Fらしい。急勾配をヨイショと登ると、あった。いざ洗車しようと洗車機を見ると、カネを入れるところが見当たらない。何度も確認するが、ない。ありゃ、どうすればいいんだ?

よくよく見ると「無料」と書いてある。おぉ、ラッキー!あとは洗車したいコースのボタンを押すだけ。ゴキゲンで洗車。

すべての水滴を拭き取り、帰ろうと出口へ向かう。そういえば、入場する時に駐車券みたいなものをとったな。それを出る時に差し込めばいいのか。よしよし。

すると、精算機のやつ、「1000円でございます」とかアナウンスしやがった!ナヌッ? たかだか30分ほどの時間なのに。

なるほど、それで「無料」の意味が解けたわい。というより、ぜんぜん無料じゃないし(泣)
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強制休養

2005-07-29 19:40:02 | 脳みその日常
何のことはない。ただ暑くてヤル気が起こらんだけ…ふぅ。
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成り行きの渋滞

2005-07-28 04:34:44 | ドライブ関連
ふと湾岸沿いの道路が走りたくなり、環七からR357で千葉方面へ行こうとしたら、気づくと首都高速湾岸線に乗っていた。まあ、仕方がない。せっかくだから久しぶりに周回して遊んでみるとするか。うん、いわゆるローリング族っちう奴らを見物するのもいいかもしれない。

とりあえず湾岸線に沿って走り、途中から第2環状線へ。そのまま真っすぐ行ってしまうと東北道へ行くので、さすがにそれはマズい。首都高速5号線への道を選ぶ。

池袋から飯田橋へ近づいた頃、何と思いっきり渋滞してやがった。おや?事故でもあったか?

何のことはない。点検作業とかいう、利用者にとっては誠に腹の立つ工事で、二車線あるうち片方の車線を規制したために渋滞が生じていたのだ。午前2時ですぜ! 一般道路はたぶんガラガラなのに、カネを払ったこちらは渋滞に巻き込まれるとはねえ。とほほ。

このストレスをどう解消してくれようぞ。そうだ、今度は第1環状線をひとまわりしてスカッとしようじゃないか! よし、決めた。そうしよう。

霞ヶ関から渋谷方面へ向かって進み、こりゃいいぞとゴキゲンに走っていたら、またまた渋滞が…。なんだよ、今度の渋滞も同じ工事で京橋からかよ。もうね、ストレス倍増計画ですよ!

環状線がガラガラならば、あと2周ぐらいしてやろうと思っていたが断念。悔しいので、7号線で小菅のほうへ向かい、もう一度第2環状線を北上する。いや、さっき通ったら夜景が綺麗だったからね(苦笑)

で、再び5号線を回って帰ろうと思っていたら、うっかりそのまま真っすぐ行ってしまった。あちゃー、東北道へ行っちまうルートではないか。うーむ、さすがにそこまでのアドヴェンチャーをする気にはなれない。というのも、帰ってから原稿を書かなくちゃならないからなあ。

そこで、東北道へ向かう手前で外環道経由で帰ることに。くそー、別料金だし…(泣)

まあ、なんだかんだで120kmぐらいは走った。気分転換にはなったが、後味は悪いドライブだったなあ。ま、こんなこともあるさ。

あはは、あはは。
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タイム・ラグ

2005-07-27 19:24:19 | 脳みその日常
今いくら原稿を書いたところで月末にタンマリ原稿料が支払われるわけではない。我々の業界に限って言えば、今書いた原稿料が支払われるのは最も早くて来月末。通常は2~3ヶ月後に振り込まれる。ひどいクライアントになると数年後にようやく支払われるケースだってある。いや、どことは言えないが。

だから「いやー、仕事したなあ。こりゃウハウハだわ」なんて思ってすぐに遊び呆けると大変なことになる。もしかすると、クライアントによっては原稿料を振り込むのを忘れることだってあるからだ。しかも、よくあることだし。この仕事を始めた頃はそうした「慣習」を知らず、調子こいて散財したらエラい目に遭ったな、そーいえば。まったく…。

アップした画像は単にタイム・ラグにひっかけただけのもの。もっとも、原語では異なる。タイム・ラグのほうのラグは「lag」で、「のろのろ歩く」とか「遅延」という意味。一方ラグタイムのほうのラグは「rag」で、「ぼろ切れ」とか「断片」といった意味である。だから何?というツッコミはなし、ということで。ええ、ええ。

まあいいや。とにかく久々にこのアルバムを聴いてみたが、なかなか面白かった。これは1999年にリリースされたもので、いろいろなラグタイム・ミュージックが収められている。お馴染みのスコット・ジョプリン(c.1867-1917)をはじめとして、アーティー・マシューズ(1888-1958)、ジェリー・ロール・モートン(1890-1941)、ゼズ・コンフリー(試聴可)(1895-1971)、ビックス・バイダーベック(1903-31)、トーマス・ファッツ・ワーラー(試聴可)(1904-43)、ジョー・サリヴァン(試聴可)(1906-71)、エリック・サティ(試聴可)(1866-1925)、クロード・ドビュッシー(試聴可)(1862-1918)、イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882-1971)、ジャンフランコ・ペルナイアーキ(b.1951)、マルコ・ディ・バーリ(b.1958)、そして映画音楽の巨匠エンニオ・モリコーネ(公式サイト。いきなり音が出ます。注意!)(b.1928)で締めくくられる。
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ちょっとした嬉しいこと

2005-07-26 23:25:59 | 脳みその日常
昨日は原稿をひとつ仕上げ、夕方から国立音大に勤務しておられるAさん及びHさんと立川の味吉兆で呑む。ここは言わずと知れた高級店であるが、Hさんの馴染みの店ということで感じの良いサービスに満足する。そこそこ呑んだが大して酔うこともなく、さまざまな話ができて楽しかった。いやー、ご馳走さまでした…って、見てないか(苦笑)

本日は例の講座の日。さすがに台風の影響からか出席者は半減。まあ仕方がない。そうなることは予想していたものの、実際に目の当たりにするとこちらのヤル気まで半減。といって手抜きをするわけにはいかない。こんな悪天候であってもわざわざワシの話を聞きに来てくれるのだから。

今回はバロック音楽のロマン性について話す。講座終了後、最近聞きに来るようになった老婦人に感想を聞いてみた。この人はクラシック音楽の基本から学んでみたいということで参加し始めたらしい。こちらとしては大歓迎なのだが、逆に自分の話していることがちゃんとこの人に伝わっただろうかと多少の不安はあった。だから感想を聞いてみたのである。

すると、嬉しいことに「この話が面白かった」とか「あの曲は初めて聴いたけれど、説明を聞いてなるほどと思った」など、ありがたいお言葉を頂戴する。講義をしていて何が嬉しいかといわれれば、何かひとつでも受講者にとって役に立つことがあったと思ってもらえることである。

もちろん、ワシの話がつまらんと思う人もいるだろう。それはまあ相性みたいなもので、その人はもっとレベルの高い講座に行ってもらえば良いだけのこと。すべての人を満足させるなんておこがましいことをワシは思ってはいないし。とにかく、誰かの役に立てればワシは満足なのである。受講者のひとりでもそう思ってくれるのなら、こちらも準備して行った甲斐もあるというもの。

帰宅してメールをチェックする。するとまたチョット嬉しいことが。ある編集者が「ある雑誌をご紹介しますので書きませんか?」というもの。もちろんすぐに快諾の返事をする。自分で売り込んだわけでもないのに、ワシの知らないところで誰かがワシを紹介してくださるというのは本当にありがたいことだ。頑張らねば。
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音を言葉で表現する

2005-07-25 12:32:39 | 音楽あれこれ
これはワシが日常行なっている仕事である。仕事とはいえ、毎回本当に苦労する。特にどうでもいいような演奏の場合には…。

もともと音楽は抽象的なものであるから、それを言葉で表現することは難しい。しかしながら特徴のある演奏だったり、明確な解釈だったりすれば表現することはたやすい。加えてその演奏に感銘したりすれば、その演奏会が終わる頃にはすでに頭の中で原稿は出来上がっている。

もっとわかりやすく説明しよう。たとえば、勉強をしていて面白いなと思えば容易に記憶できるけれど、つまんないなと思ったが最後、どんなに勉強してもなかなか頭に入らない。

音楽も同じ。ある曲を聴いて「いいなあ」と思えば、敢えて覚えようと思わなくても何となく記憶に残るだろう。でも、何だか良く分からないやと思えば、覚えようと思ってもなかなか覚えられない。

しかし、特徴のない演奏だからといって「わからない」と書いたのではプロ失格である。仮に理解できない演奏だったとしても、その演奏が分かりにくい理由を突き止められなければ批評なんぞすべきではないと思う。もっとも、多くの評論家はそうした理由すらわからずに、ただ自分の好みに合致するかどうかで書いているようであるが…。

今さら言うまでもないが、専門家とはある事柄について学問的かつ体系的に学んだ人のことをいう。ところが、こと音楽評論家に関してはそうでないから不思議だ。長年、趣味で音楽を聴いてきた人なんて、結局は自分の好みの世界、つまりは狭いテリトリーでしか音楽を捉えていないはず。

でも、体系的に音楽を学ぶというのは、自分の好き嫌いに関係なく音楽のあらゆる仕組みについて勉強することなのだ。もう、その段階で趣味のレベルと専門のレベルとでは違いがあることが明白であろう。長年音楽を聴いているからとか、いろんな曲を知っているからというのは、少なくとも批評する際には大して役に立たないのである。

それでも「趣味で」のし上がってきた評論家が幅を利かせているのは阿諛追従するのがうまいからにほかならない。その人のなかでは「この演奏がいいのかどうなのかわからない」としても、とにかくレコード会社の言うがままに提灯記事を書いておけば食いっぱぐれることはない。そういう処世術に彼らは長けているのである。

しかし、その記事を読む一般の人にしてみれば、なぜこの演奏が素晴らしいのかなんて、これっぽっちも理解できない。そりゃそーさ、書いてる本人すら素晴らしい理由がわからないんだからね。

「わからんけど、まあ褒めとけばいいか」

ぐらいな気持ちでしか書いてないからさ。本当に素晴らしい演奏だと思うのなら、その理由をきちんと説明できなければ説得力はない。逆にダメな演奏なら、なぜそれがダメなのかも説明できなければプロとして活動してはイカンだろ。

評論家と名のつく世界で、音楽ほどいい加減なものはない。たとえば、いかにもウサンクサイ「軍事評論家」とか「航空評論家」ってのもいるけど、彼らはそれなりにちゃんとした知識をもっている。だからテレビなどに出演しても、彼らはそれなりの理屈で説明するではないか。その理屈が正しいか否かは別にして。

でも、音楽評論家ぐらいなもんだぜ、わけのわからん抽象的な用語を持ち出して煙に巻くのは。だからワシらはナメられるんだよな…。とほほ。
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ベートーヴェンおたく

2005-07-24 14:53:24 | 音楽あれこれ
世の中にはいろんなオタクが存在する。ここに紹介するのはベートーヴェン専門のオタクである。そのサイトを見ると、どうやらベートーヴェンが紙に書き付けた音符をすべて音にしてやろうという試みらしい。確かに、これまでこんな全集はあった。しかし、作品になっていないスケッチや草稿の類いまで完全に音にしたものはなかったと思う。

もっとも、音ではないが事典の類いにはベートーヴェンのスケッチ帳やら草稿についての情報を網羅したものはある。1999年に東京書籍から出版された『ベートーヴェン事典』がそれだ。ワシはたまたまこの本の編集に加わっていたので覚えているが、ベートーヴェンの記したものを、まさにケツの毛まで抜く勢いで徹底的に調べ上げ、すべての情報を網羅したはずである。

ただし、冒頭に紹介したオタク・サイトを見てみると、ワシらが取り上げていない作品目録の番号が登場していることに気づく。それはジョヴァンニ・ビアモンティが1968年に出版した作品目録だ。ビアモンティの目録番号についてはコチラを参照されたい。

ビアモンティの目録がどのようなものであるかは、ベートーヴェン研究者でないワシにはわからない。しかし、ざっと見た感じだと、そこにはワシらが手掛けた『ベートーヴェン事典』にも載っていない断片が含まれているような気もする。それは今後の研究に委ねることにしよう。

それにしても、オタクのエネルギーというのはスゴイねえ。感心するわ。
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無意味なノスタルジーは好かん

2005-07-23 20:11:25 | 脳みその日常
夏から秋にかけて憂鬱なのは地域の行事である。今宵も近所では納涼大会とかいう非日常的な催しが行なわれるようだ。ワシは別に祭りそのものを否定するつもりはない。ただ、うまく表現できないが、そういう催しの時だけわざとらしいノスタルジーみたいなものを前面に出すところが嫌いなのだ。

今もどこからか太鼓の音がドンドンと鳴り響いている。それが祭りの象徴だといえばそれまでであるが、現代の日常生活においてまずお目にかからないこの楽器が、ここぞとばかりに登場するのは何となく不自然に思えてならない。象徴だという理由ならば、百歩譲って認めよう。だが納涼大会だからといって、そこに集う人々がなぜ浴衣を着用するのかがワシには理解できない。

ワシの理想とするスタイルは「自然体」であること。その観点からすれば、納涼大会だからといって特別な格好をする必要はどこにもないのだ。なぜ納涼大会で浴衣を着るのかといえば、昔の人たちは夏にはみな浴衣を着ていたからにほかならない。つまり昔の人たちにとって、その格好は普段着だったというわけである。

じゃあ、現代の我々はどうかというと、夏だからといっていつも浴衣で過ごしているか? そうじゃないよな? 昔は着物文化だったろうが、現代ではそうじゃない。逆に和服を着用することはむしろ特別な場合に限定されつつある。なるほど。となれば、現代の納涼大会は特別な行事というわけか。いやー、本来はそうじゃないだろ。

そもそも納涼大会なんてのは、近所の人たちが

「いやー、このところ暑いねえ」
「んだなあ。暑くてかなわんなあ」
「じゃあ、今夜あたり踊って暑気払いでもしますか」
「おうおう、そうすべ」

なーんて軽いノリでやったんだろう。決して特別な行事ではなかったはず。だから和服であっても、正装でない浴衣で踊れた。この意味では至極「自然体」だったと思う。

ところが、妙なもので、形式というのはしつこく残るもの。だから今でも納涼大会といえば浴衣を着用するのが「それらしい」スタイルとされている。でも、そんなスタイルはワシに言わせれば過去の遺物であって、浴衣を着ることにノスタルジーを見いだしているとすれば、ちゃんちゃらおかしいと言わざるを得ない。

現代において、「暑くてかなわん。じゃあ、みんなで盛り上がるか」という単純な理由でやるのなら、そこに古ぼけた太鼓を登場させなくたっていいのだ。ラップ・ミュージックでも、シンセ・ドラムでも使えるものはいくらでもある。

でも、そんな楽器や音楽を用いたら高齢者は絶対に来ない。だって、これらは彼らにとって非日常のものだからね。じゃあ、皮のたるんだような古ぼけた太鼓が日常のものかというと、それも実は違う。でも、現に太鼓が主役となっているのは、やはり彼らがそこに古き良き時代を懐かしむノスタルジーを抱くからにほかならない。

それを良いと思うのを否定はしない。でもワシはそんなノスタルジーに耽るほど耄碌していないし、何より現代からみたらあまりに不自然な事例なので好かないだけ。今という時代の「自然体」が好きなのだ。
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笑える病棟

2005-07-22 05:05:18 | 脳みその日常
昨日の昼過ぎ、まどろんでいると電話が。講座のYさんからだった。なんでも世話役のMさんが入院したらしい。日頃お世話になっているので、さっそく見舞いに行く。

病室は大部屋で、そこにいるのはもちろんオッサンばかり。Mさんは思ったより元気そうだった。入院の経緯など聞き、しばらく談笑していると別の患者のところへ担当医がやってきた。するとその担当医が開口一番、

「●●さん、またここで酒を飲んだでしょ? ダメだよ、アンタ、入院患者だよ!」
「えっへへ…△◎☆?*!□・・・・・」

その患者がアルコール依存症なのかどうかはわからない。ことによると、糖尿病なのかもしれない。何せここは内科病棟だし。いずれにしても病室で酒を飲むとは、このオッチャン、なかなかの猛者である。この人にとって病院は、病気を治すところというより、病気の進行を早めるところなのかもしれない(苦笑)

なかば呆れながら病院をあとにする。帰路、このあたりがどうやら労働者の街であることに気づく。まだ日も沈まぬ6時頃というのに、そこここに作業服姿のオッチャンどもが地べたに座って酒盛りをしていた。なんだ、なんだ、まるで飯場だな。

さらにクルマで走ると、その先にはてんこ盛りの廃品を自転車の荷台に乗せたオッチャンがフラフラしながら県道を走っていた。もちろん、前のカゴには焼酎のビンが必須アイテムであるかのように置かれている。さ、さすがだ…。

このあたりは昔よく深夜に配送のバイトで通ったものだが、まさかこんな街だとは思わなかった。ある意味、ドヤ街である。でも、なんとなく人間臭くて微笑んでしまった。

なるほど、あの病室に酔っぱらい患者がいても不思議じゃないわい。医者に注意されても悪びれることなく「えへへ」と笑ってるし。今後の彼のよき人生を祈りたいものだ。
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新陳代謝と老化

2005-07-21 04:29:16 | 脳みその日常
恐ろしいほど昔の友人に久々に会う。開口一番「おいおい、学生時代と同じ風貌というのはどういうことなんだ?」と。これはどう解釈すべきなのか。見た目が変わっていないのか、成長していないという意味なのか。そいつが言うには、なぜ歳を食ったくせに老けないのかということらしい。いやー、そんな問いつめられてもなあ。

そいつに限ったことでなく、久々に会う人からは異口同音にそう言われることが多い。

ふと思いついたのは、睡眠時間が圧倒的に少ないから?というもの。人間は睡眠時に最も新陳代謝が活発なのだそうだ。新陳代謝とは言うまでもなく「古いものが新しいものにとって代わること」。つまり古い細胞が新しい細胞に変化することでもある。女性のスキンケアなどでよく寝不足はお肌に良くないといわれるのは、そのため。寝不足だと皮膚組織の代謝活動が低下するので、みずみずしいお肌が保てない。だから睡眠は十分に摂りましょうという理屈だ。

違う見方をすれば、睡眠時間が少なければ活発な新陳代謝を行なう時間が少ないということでもあろう。細胞の新旧交代が滞れば、老化の速度も緩やかになる? だからワシは歳の割に老けていないのか?

いや、たぶんその仮説はかなり怪しいような気がする。睡眠時間を減らすことで老化を予防できるのであれば、とっくにみんな睡眠時間を減らしているだろうからね。不老長寿の薬なんてのがあるとすれば、寝なけりゃいいのだ。要はそれぞれの細胞が衰えなければいいんだよな?。ワシの怪しい仮説からすれば、そうなる。

しかし、実際にはそんなことはできっこないし、非現実的な話だ。きっと老化には別の原因があるのだろう。生物学者でないのでまったくわからんが、たぶんそうだと思う。

それにしても、人によって老けるのが早い人と遅い人がいるのはなぜなんだろう。早老症というコワイ病気もあるが、それは別格のものとして論じなければならないだろう。ともあれ、とても同い年とは思えない奴が現にいるわけで、なんなんだろうなあと思ったりもする。いや、向こうもワシを見てそう思っているのかもしれないが。

中年になったらシブく、ニヒルに決めたいと思っていたが、どうやらそれは夢に終わりそうである。

あーあ。
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うっかり読書

2005-07-20 14:49:58 | 脳みその日常
昨晩、本棚を整理していたら懐かしい本が出てきた。『Russian Theoretical Thought in Music』(UMI RESEARCH PRESS, 1983)である。これはワシが修論を書く時に参考文献のひとつとして活用したもの。ページのあちこちに引かれたアンダーラインは当時の記憶を呼び覚まし、しばし感慨にふける。

しかし、この本はあくまで参考にしたにすぎず、じっくり読んだわけではない。参考文献というのは、論文執筆にあたり自分の展開したい論理を補強するために用いるもの。いってみれば、オイシイ部分だけを頂戴するようなものだ。もちろん引用する際には、論文のどこかに「どこそこから引用した」という断りをすれば問題はない。論文とはそういうものである。

だが、典拠すら明らかにせずに一部分を引用したり要約したものを、さも自分が考えたかのように発表すると、あとでバレた時にシャレにならない。もっとも、学者のなかには厚顔無恥な奴もいて、他人の脳みそが生み出したものを自分の名前で書物として出版している高名な不届き者もいるが…。まあ、武士の情けに免じて、それについては触れないでおこう。

話をもとへ戻す。そんなわけで、ふと見つけたこの本をパラパラとめくっていたら思わず読みふけってしまった。当時は単なる資料として読み飛ばしていたから、内容の濃さについてあまり気にも留めなかった。しかし改めて読んでみたら、どうして、どうして面白い。そして、気づくと昼過ぎに。

あちゃー。
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変わり者

2005-07-19 06:34:08 | 脳みその日常
思い立って、いつもの「安楽の場所」へ向かう。当初はそのまま帰宅するつもりだったのが、またもや思いつきで深夜でも営業している青梅の洗車場へ。ピカピカになって帰宅。思わぬ遠回りで200kmほど走ってしまった。

駐車場に戻ると「奴」がいた。いたといっても、コイツ、自分のクルマの中で熟睡中なのだが…。いったいなぜクルマの中で寝ているのか理由はわからない。そもそも車中泊ってのは疲れが取れないもの。でも、コイツ、時々車中泊をしているのだ。深夜に駐車場に戻ってきて、いきなりコイツがいると本当に驚く。もっとも、突然トンカチを振りかざして攻撃してくるといった凶行に走らないからいいんだけど。でも、いやだなあ。

だいたいコイツ、まだ20代前半だと思うのだが働いているようにも見えない。たぶん親のスネをかじっているという近所のもっぱらのウワサ。でも、スカイラインなんちう立派なクルマに乗っていながら、一番笑えるのは自動車税を払っていないこと。なぜ払っていないのがわかるのか。それは毎年3月末になると決まってスカイラインがこの駐車場から姿を消すからである。

自動車税が課税されるのは4月1日現在の所有者なので、その前に一旦廃車にしてしまえば本人が税金を払わなくてもよい。そして4月1日過ぎに再び登録すれば、引き続きスカイラインに乗ることができる。これは税金を払いたくない奴の常套手段だ。念のため確認したが、このクルマの車検は3月でも4月でもなかった。まったく、しょーもない奴だ。

もっとも、夜中にフラフラとドライブしているワシも一般の人からすれば十分「変わり者」と思われていることだろう。そういえば、最近ウチの近所によく地域の広報車がまわってくる。何を言うかと思えば、

「最近、このあたりで夜中に不審人物が現われるそうです。怪しい人を見かけたら、お近くの警察までご連絡ください」

だとさ。

おいおい、まさかワシのことじゃないよな?(汗)
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継続は何とやら

2005-07-18 16:44:26 | 脳みその日常
本ブログはほぼ毎日更新している。書くことは仕事上慣れているので苦痛ではない。もっとも、書く内容はくだらないことばかりなのだが…。

ところで、最近あることに気づく。ポータル・サイトで本ブログのタイトルである「ライターの脳みそ」を検索してみた。すると、驚いたことに「YAHOO! JAPAN」でも「Google」でもこのブログがトップに来ているではないか!もちろん、本ブログの元締めでもある「goo」で検索しても同じ結果だった。

笑えるねえ、検索エンジンって。毎日更新していれば、内容はどうであれ、そのサイトは自動的に上位に来る仕組みなのか。

なるほど。
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たまには古いものを

2005-07-17 22:50:01 | CD/DVD
このブログでは比較的現代モノのCDを紹介しているが、たまには古い音楽を取り上げてみよう。

アップしたCDは、カテリーナ古楽合奏団の演奏によるアルバム「ドゥクツィア」である。これは93年にリリースされたものであるが、12世紀から17世紀までの素朴な音世界を楽しむにはもってこいのCDといえる。今でも気分転換に聴いてはホノボノとした気分に浸ることもある。

そもそも、ワシがカテリーナ古楽合奏団の存在を知ったのは古楽情報誌『アントレ』を通じてであった。ワシの専門はバロック音楽ではないが、今は亡きW先生が『アントレ』編集部のSさんと懇意にしていた関係で仕事をさせてもらったのである。そして確か「栃木・蔵の街音楽祭」の何度目かの取材に行った時、Sさんからこのアルバムを紹介されたのだと思う。

ちなみに、この時宿泊したのは女優の山口智子の実家でもある「ホテル鯉保」。ホテル内にある居酒屋「どんぐり」で食ったホタテバター焼きは何だか知らないが旨かった記憶がある。相当酔っぱらったはずなのだが、それだけは覚えているのはなぜだろう(苦笑) 機会があればまた行ってみたいなあ。

話は逸れたが、そんなこんなでカテリーナ古楽合奏団の存在を知る。最初はSさんに勧められるままにこのCDを購入したのだが、聴いてみたら意外に面白かった。ここには従来のバロック音楽のイメージにはない響きがあったからである。もちろんそれはワシの不勉強によるものでもある。

いずれにしても、ここで使われている楽器はむしろ民族楽器のようなものがほとんどで、出てくる音楽はいわば中世の民謡集みたいな感じなのだ。最初に素朴と書いたのはそういう意味である。

現在再発売されているか知らないが、これはとにかく聴いていて無条件に楽しくなるアルバムである。たぶん子供なんかに聴かせたら、ついつい踊り出す子もいるだろう。思わず微笑んでしまうような曲が満載だからだろうか。
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