ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

クロネコの手も大変

2005-04-30 17:46:58 | 脳みその日常
アップした写真は、某宅急便のセールス・ドライバーご愛用のアイテムのひとつ。別に何の変哲もない軍手なのだが、甲の部分にプリントされているトレードマークが格好よく見えたので、いつも来るドライバーに頼んで入手。ワシがそこのドライバーをしているわけじゃないので誤解のないように(笑)

この軍手は作業しやすいように手のひらのところに「滑り止め」がついている。もちろん一般の作業用軍手にも同じものはある。だが、甲のところに燦然と輝く緑のマークのついた軍手は、そのへんの店では買えない代物。セールス・ドライバーにとっては日常使うものであっても、ワシら一般人にとっては「お宝」なのだ。もっとも、それを「お宝」と思える人にとってはね。

このアイテムにはほかにもいろいろな種類がある。すべてのアイテムが載ったカタログがあり、それらは通称「ネコマーク付きグッズ」という。軍手にもいろいろあって、指が露出するタイプとか、手の小さい女性用の軍手もある。そのほか、Tシャツ、ロゴマーク付きリストバンド(白・緑)、ロゴマーク付き靴下(男性用・女性用)などなど…

これらはすべてドライバーが作業する際に使用する目的で作られたものだ。驚いたのは、こうしたアイテムはドライバーが身銭を切って購入するのだそうである。さすがに作業着は貸与だそうだが、そのほかは個々のドライバーが必要に応じて注文するとのこと。もっとも、アイテムの価格はべらぼうに高いわけじゃないが。

でも、こうしたアイテムって仕事をする上で必要なものじゃないのかねえ。業務に必要なものは、普通は会社が負担するものだと思うのだが。これじゃ社員も大変だわ。
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聞かねばならん時もある

2005-04-29 15:26:55 | 脳みその日常
昨晩9時頃、夕飯をまさに食おうとした瞬間、電話が鳴る。九州の小倉に住んでいるKさんからだ。昨年の夏に話をして以来である。(参考)

Kさんは先月に実父を亡くされたそうで、ひとり息子のKさんはその対応に追われていたとのこと。気持ちがようやく落ち着いてきたので報告がてら電話してきたようだ。昨年10月頃まで携帯で簡単なメールのやり取りをしていたが、突然来なくなったので「これは何かあったな」とは思っていた。ひょっとして彼の実父に異変があったのかと想像していたが、やはりそうだった。ご冥福をお祈りするほかはない。

元マル暴とはいえ、やはり人の子である。いや、身内を亡くして悲しくない人はいないだろう。悲しみに暮れている時、ふと誰かと話したくなることはある。Kさんは今そういう状態なのだ。侠気があるから彼は決して口には出さないが、声のトーンから心理状態はわかる。わざわざ遠方のワシに電話をしてきたというのは理由があってのこと。そういう時は、相手の気の済むまで話を聞いてやるしかない。そうすれば相手の沈んだ気持ちも少しはラクになるからね。

ワシは彼の実父とはもちろん面識はないが、Kさんはその思い出や闘病時のことを訥々と話し始めた。病院のずさんな対応についての怒りはごもっともである。いまやマトモな病院を探すことのほうが大変だからね。それにデリカシーの欠片もない医者はゴマンといるし。まったく困ったものだ。

結局、いろいろな話をしていたら夜が明けてしまった。気づけば午前6時過ぎ。恋人同士でも9時間近く話すことは、まずないだろう。でも、たまには仕方ないか…。(苦笑)

食おうと思っていた夕飯はとうの昔に冷めて、半ば乾燥した状態。でも旨かった。
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偽造DVDを確認するツール

2005-04-28 16:06:34 | 脳みその日常
近年、テクノロジーの進歩とともに光学ディスクの安価な作成が可能となった。ということは消費者である我々にとっても嬉しいわけで、安い値段で音や映像を楽しめるのはまことにありがたい。

ところが悪い奴はこの技術を利用することで金儲けを企む。音響/映像メーカーが作った製品を生ディスクにコピーすることで偽造品を大量に作って売るというのが奴らの作戦。

確かにそれは安いからユーザーが買いたくなるのもわかる。しかし偽造品はやはりインチキなのだ。テキトーにコピーしたことによって内容のクオリティは劣化するばかりか、場合によってはさまざまな問題が起きる可能性も秘めている。

そこで、偽造品かどうかを確認できればひと安心。この記事で紹介しているのがそのツールだ。詳細は記事を読んでいただきたいが、残念なことにこのソフトを使用できるのはWINDOWSに限られること。ワシのマシンはMacなので当然使うことは出来ない。

あぁ、残念!
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立花千春フルート・リサイタル

2005-04-27 12:16:34 | 音楽あれこれ
25日(月)に東京オペラシティ・リサイタルホールで立花千春のリサイタルを聴く。そろそろ中堅の領域にさしかかってきた彼女。特定のマネジメントに所属していないわりに、積極的に演奏活動を行なっていることは評価に値する。演奏会案内もおそらく自分で作成し送付しているのであろう。

それは良いのだが、演奏についてどうかというと、率直なところ中途半端のような気がする。可もなく不可もなくといった感じなのだ。ここでは具体的なことについては触れないが、面白いことに気づいたのでそれを記すことにしよう。

好みもあろうが、この人の容姿は美しい時もあれば、そうじゃない時もある。演奏中もそうだし、前記のリンクをみてもそう感じる。両要素が慌ただしく入れ替わるのは実に不思議なのだ。万華鏡を覗いているような感覚に近い。

そうした不思議な感覚が演奏にも反映している。もちろん一定以上の技巧はあるのだが、へえーっと思える時があるかと思うと、ごくフツーの時もある。両面がいつ表れるのかが全く予測できない不思議さ。これもある意味でのチャンス・オペレーションなのだろうか……いやいや、違うよな(笑)

それにしても中島由紀のピアノはまるで能面のようである。もちろんこれは悪い譬えだ。つまり面白くも何ともない音楽をするのである。真摯な演奏といえば聞こえはよいが、それとも違う。今回のプログラムがすべてフランスものであるのに、音色について全く無関心なのだ。演奏していて楽しいのだろうか。

万華鏡と能面のコラボレーション。うーん、なんだかなあ。
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初歩を教える難しさ

2005-04-26 18:51:36 | 脳みその日常
今日は講座の日。本日のネタはリスト《愛の夢第3番》の説明をベースに、「夢」と題する作品をいろいろと聴く。そこまでが前半。

後半は楽譜を用いての楽典入門。このところ、こちらがメインになりつつある気がする。受講者はロクに楽譜も読めない人たちなのだが、基礎の基礎からお話しするので、今のところは何とかなっている。

いや、実際「いまさら人には聞けないこと」ってあるでしょ? 楽典といっても、小中学校で学ぶ程度のことなのだが、高齢者には遠い昔の出来事。耳だけはクラシック音楽を聴き続けていても、音楽の仕組みについては、彼らの記憶からスッポリと抜け落ちている。ワシの講座ではそれをもう一度思い出そうというわけだ。

知らないことは決して恥ずかしいことじゃない。知れば済むことだし。でもなかなか「先生、これはどういう意味なんですか?」と聞く勇気は出ない。彼らにも長年生きてきたというプライドがあるからね。

その気持ちがわかるから、ワシは決して「はい、○○さん、これはどういう意味ですか?」と受講者を名指しすることはない。あまりにバカバカしいことであっても、受講者はわからないのだという前提で「これはですね、これこれの意味なんですねえ…」などとほとんど独り言をするかのように話を進める。

本当なら、対話形式でやるのが一番楽しいのだが、受講者がそれを苦痛と感じることもあるようなので残念ながらできない。受講者が子供なら話は別だ。半分冷やかし、つつきながらやると面白がってついてくる。でも、さすがに高齢者にそれはできない。その点が一番苦労するところだな。

こうした入門コーナーをやってどれだけ意味があるのかはわからない。一所懸命やったあとで、帰りしなに受講者から「いやー、ちっともわかりませんでしたよぉ」と悪意のない捨て台詞を残されることもある。そんな時は、ただただ苦笑するしかない。「あはは、あはは、あは、あは、はっはっははっ…」

まあ、いいや。今度こそ工夫して理解させてやる…と、毎回思うんだけれど。
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保身も仕方がない

2005-04-25 16:56:12 | 脳みその日常
昨日のブログとも関係するが、それだけ批評をしているということは、極端に言えばそれと同じだけ恨まれている可能性があるということでもある。特にワシの批評は辛口で知られているからね。とあるサイトには「辛口批評でお馴染みの…」とか書いてあるし。おいおい、ワシは何も辛口で書いているわけじゃない。思ったことをそのまま書いてるだけなんだけどな。まあいいけど。

それにしても、レギュラーで執筆している雑誌の編集部は、近年ワシの扱いを変えたようだ。変えたといっても、ギャラが高くなったとかそういうのではない。批評する対象を外来アーティストや国内オケに切り替えて依頼してくるようになったのだ。これはワシが偉くなったとかそういうことじゃない。理由は別のところにある。

思い返せば、最初の頃は若手をはじめとする国内のアーティストの批評が多かった。それはそれで面白くて、彼らから直接手紙をもらい、僭越ながらアドヴァイスをしたこともあった。そのうちの数人とは今でも交流がある。

もちろん良いことばかりじゃない。ワシの指摘が気に入らんという人だっている。編集長は多くを語らないが、演奏家からワシへのクレームはどうやらあったようだ。たぶんクレームが来るたびに編集長は演奏家やマネジメントに謝ったんだろうな。実際、直接ワシのところへも苦情の手紙が届いたこともあるし。

しかし、いちいちそんなことを気にしていては批評などできないのである。第一、クレームをつけてくる奴の言い分は、根拠のない言いがかりがほとんどだから。彼らには演奏家としてのプライドがある。つまりプライドを傷つけられたと感じるから抗議したくなるのだろう。

気持ちはわかるさ。わかるけれど、その前にちゃんと演奏しようよ。聴き手に「なるほど」と思わせる演奏ができないくせに文句を言うのはどうかと思うね。

少なくともワシは自分の嗜好で批評することはない。自分の好みでない演奏であっても、総合的に見て優れた解釈だと判断すればその演奏は評価する。もちろん批評のなかでその理由は記してある。逆に、なぜその解釈は良くないのかということも常に書いている。

もし演奏家が独自の解釈をしたとしても、結果的にそれが聴き手に伝わらなければダメなのだ。本当に伝えたかったら、伝わるような工夫をすべきなのである。その工夫すらしないとすれば、それこそ怠慢。こちらはこちらでその演奏をあらゆる知識を駆使して真剣に聴いているのだから、彼らに何らかの意図や解釈があればすぐに気づく。だってこっちは聴くプロなんだぜ。

もっとも、批評家のなかにもいい加減な奴はいる。大半は自分の好みに合う演奏じゃないと評価しないようであるが。世の中の人たちが「批評家は勝手なことばかり言う奴だ」と思うのも無理はない。でもね、良心的に批評する奴もいるのですよ。

まあ、ワシがどんなスタンスで批評をしようと編集部にクレームが来ることはなくならないだろう。雑誌社だって広告料をもらわないと経営してゆけない。それに編集長だって自分が悪くもないのに謝りたくはないだろうし。

とすれば、できるだけクレームが来ないようにするには、ワシをクレームの来そうにない演奏会に行かせればよい。編集長はきっとそう考えたに違いない。

ええ、ええ、ワシはどんな演奏会でも構いませんよ。むしろ、この編集長にはいつも感謝しているんですわ。自由に書かせてもらってますから。どこかの雑誌とは違ってね(苦笑)
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演奏を続けることの難しさ

2005-04-24 16:24:51 | 音楽あれこれ
前々からオフィシャルのHPを作ると言っておきながら、コンテンツが貧弱なため、なかなか公開できずにいる。先日、意を決してトップページから改訂しようとしたところ、うっかりJavaScriptの内容をいじったため作動しなくなった。あひゃー、苦労してせっかく作ったのに…。最初からやり直しである。

いや、とにもかくにもコンテンツをどうにかしなければ。そちらを優先すべく昨晩から、今まで雑誌に掲載された批評をデータベース化する作業を行っていた。それによって気づいたことがある。

ひとつは、よくもまあこれだけの原稿を書いたな、ということ。もちろん今は批評原稿だけを打ち込んでいるが、曲目解説などを含めたらその文字数は気絶しそうになるほどの量であるに違いない。だから今は批評原稿のことだけに集中しよう。でないと、本当にユーウツになりそうだから。

過去の批評を読み直してみて思うのは、我ながらなかなか鋭い指摘をしていることに感心する。今のほうがダメかもしれないなあと、ちょっと凹む。いやいや、凹んでいる場合じゃない。

もうひとつ気づいたのは、今ではもう見かけない演奏家がいるなということだ。特に邦人にそういう人が多い。ある一時期、活発な演奏活動をしていても、数年するとその活動を停止もしくは休止するということなのだろうか。

もっとも、彼らは知らないところで演奏しているのかもしれないが、かつてのような表立った活動はみられない。そんな人を幾人もみつけた。まるでテレビ番組じゃないが「あの人は今」である。

日々、目先の活動に追われているが、たまに振り返ってみると意外なことに気づくものである。いや、そのうちワシも思い出されるほうになったりして。明日は我が身か…

くわばら、くわばら。
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ミイラの気持ち

2005-04-23 22:17:04 | 脳みその日常
江戸東京博物館では今月の16日から7月3日まで「新シルクロード展」が開かれている。今回最大の目玉は新疆ウイグル自治区博物館収蔵の「男子ミイラ衣装」。2世紀~5世紀頃のものとみられるこのミイラは身長が190cmほどの大きなもので、それだけでも迫力がある。しかしタイトルの通り、ミイラが纏っている衣装のほうがどうやらメインらしい。素晴らしい装飾の施された衣装は、まさに芸術品といってよい。

過去の遺物を知ることは我々にとって大きな刺激となる。その意味でこうした企画が行なわれるのは良いことだと思う。しかし改めて考えてみると、展示されている「男子ミイラ衣装」は乾燥した死体にほかならない。立派な刺繍の施された衣装を纏っているとはいえ、モデルは死体…。そう考えると、ちょっとシャレにならん気もする。うん、あまりにグロいよなあ。

当のミイラ本人にしてみたって、よもや自分が後世の展示品になるとは思ってなかっただろう。晒しものである。「オレはこんなつもりでミイラになったわけじゃない!」 そんな声が聞こえてきそうでコワい。また、そんなことを想像してしまう自分もコワいが…

ワシはオカルトを全面的に肯定するつもりはない。だが、このミイラ様が我々によからぬ呪いをされんことを願うばかりである。それにしても人間のすることってコワいな。長い時間が経過すれば、発掘という名目で平気で墓地を掘り返すんだから。埋葬されて間もないうち、そんなことをすれば罰が当たるとか祟りが起きると信じてるくせに、考古学という学問のもと、そうした恐怖をすっかり忘れている人間たち。

いや、学者だけを責めるわけにはいかない。見物する我々だってグロいぜ。極端な話、みんなで寄ってたかって「死体を鑑賞する」んだからさ。でも、誰もそれが気味の悪いものとは思わない。なぜなら我々はそれを死体とは思っていないし、歴史的に貴重な展示物としか考えていない…いや、そう割り切って見ているのかもしれないな。
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新歓二次会

2005-04-22 05:19:57 | 脳みその日常
今日は、といっても実際には昨日から本日にかけての話。夜、仕事で演奏会に行ってからその足で大学の新入生歓迎会へ向かう。午後10時前に到着し携帯で幹事に連絡するも留守電になっとる。

仕方がないので同じOBでワシの後輩にあたるT君に連絡すると、彼はまだ会社で仕事中だという。ありゃー、仕事忙しそうだねえ。身体を壊さんように気をつけなさいよ。

電話を切った直後、幹事から連絡が入る。歓迎会の一次会は終わったが、まだその店にいるとのこと。ならば突撃するしかない。

店に行くと、ほとんどの先生は帰ったあとだったが、新入生3人を含む学生達がいた。みんな帰り支度をしている。よし! そうなれば次は二次会である。

「ハイッ、二次会行く人、手を上げて!」「はーい、はーい、はーい…」

結局、二次会参加者はワシを含め6名。うーむ、ワシの人気もイマイチだな(苦笑) もちろん初対面の1年生にも声をかけたが、いきなり馴れ馴れしいオヤジに誘われて着いてくるわけがない!(そらそーだ) まあ、1年生とは夏の合宿の時にでも改めて親睦を深めることにしよう。

途中、終電と睡眠不足を理由に3名が脱落。最後まで残ったのは、Iさん、Kさん、ワシ。すべて学部を既に卒業した人間ばかりだな。そして午前4時の閉店まで、あーでもない、こーでもない話をする。うーん、これって新歓じゃないよな…(苦笑) まあいいか、いろんな話ができたことだし。

面白かったのは、後輩たちがワシを見て異口同音に「痩せましたね」だとさ。ほぅ、そうなのかな。自分では全く気づいてなかったので驚く。もっとも思い当たることがないわけじゃない。最近は一日一食の生活が続くと同時に、あまり睡眠を取ってなかったから痩せたとしても当然なのだ。これぞ究極のダイエットだな。うははは。

もちろん後輩には「ええ、ええ、不治の病でして…ゴホ、ゴホ」とボケをかましておいたが。
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価値って何だろう

2005-04-21 10:45:12 | 脳みその日常
庶民にとって訳の分からんままに終結した感のあるライブドアとフジテレビの問題。そのなかで企業価値を高めるとかいって数十億だかのカネが動くらしい。我々外野にとっては数十億と言われてもピンとこないが、企業価値というのはもっとわからないよな。

シロートに言わせたら、たかだか業務提携したぐらいで何で数十億もの価値があるんだろうかと思ってしまう。もっとも、我々の知らないところで金儲けをする奴がいるから、それなりの価値が生まれるのかもしれないが。さらに、世の中は需要と供給で成り立っているから、我々にとっては必要ないと思うものであっても、必要とする奴もいるってことなんだろうな。それにしても価値というものはわからないものである。

需要と供給で成り立つ社会ではあるが、どーでもいい(と思われる)需要に目ざとく価値を見いだすのは、どうかと思うね。それが商売なのさと言われればそれまでである。だけど、世の中には目立たないながらも良い仕事をしている人は大勢いる。本当ならそういう人たちにこそ数十億のカネを提供すべきなんじゃないだろうか。たとえば、誰にも真似のできない技術を持った職人とかさ。

いや、技術ばかりじゃない。見返りを求めず献身的なボランティアに携わる人たちには、利潤追求に血眼になっているバカどもにはない「美しい心」がある。こういうものに価値はないのだろうか。

無償の行為だから仕方がないという声もあるだろう。また、今の世の中で価値というのは利潤を生み出さなければ意味がないというのも、もっともな意見だと思う。資本主義社会だから否定はしない。

だけどさ、無償の行為とか目立たない人たちの働きによってこの社会が動いているというのも、また事実なんだよ。そんなの、綺麗ごとじゃないかって? そうだな、そうかもしれない。所詮カネで動く世の中だもんな。

でも、そういう訳の分からん世の中だからこそ、清らかな心にワシは価値を見いだしたいのさ。たとえそれが理想論だと言われてもね。
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あら、変わっちゃってる

2005-04-20 05:21:22 | 脳みその日常
先週、講座の世話人であるMさんから7月以降の講座テーマを出して欲しいとメールが来る。その締め切りが今日なのだが、なかなかアイディアが浮かばない。そういう時は気分転換にドライブである(笑)

今回は軽めのルート。甲州街道から山手通りを北上し、川越街道に合流し下る。そして浦和所沢バイパスに入り、所沢方面へ。途中で小金井街道に入り南下してきたら、ふと東久留米の文字が。

ああ、そういえば遠い昔、音大受験の時、このあたりにソルフェージュのレッスンに通っていたっけ。急に懐かしくなったので教室の場所まで行ってみることにした。

と、ところが、教室があるはずのマンションが見当たらない。いやー、確かこのあたりだったんだが。ド深夜にもかかわらず、駅周辺をクルマでグルグル回る。うーん、やっぱりない。というより、景色が一変しているぢゃないか。年月は場所の風景を変えたばかりか、記憶までも流そうとするかのよう。

当時お世話になったN先生はお元気なんだろうか。受験以来、とある出来事が原因で音信不通になってしまい、心残りではある。そういえばN先生はレッスン中、突然真顔で「君は指揮者になったらいいんじゃないの?」とか仰ってたな。その時は「そんなー、無理に決まってますってば」などと苦笑したことを思い出した。もしあの時の提案を真に受けていたら、今頃どういう人生を歩んでいたのだろう。ふと、そんなことを思ったりもした。

結局、場所が分からぬまま東久留米を後にする。帰宅してからネットでN先生を検索してみると、あった。まだ活動はされているらしい。いろいろと見ていくと教室の場所が判明。なーんだ、駅の反対側に変わってるじゃん。ま、何はともあれ不明な点は解決したわけだ。

おぉ、そういえば、そもそも今回のドライブの原因を解決しなければ…
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高いが代えがたいもの

2005-04-19 05:29:15 | ドライブ関連
ガソリンは相変わらず高騰したままである。クルマを運転しない人にはどうでもよいことだが、当事者としては深刻な問題だ。特にワシのようにフラっと100~200km走る者にとっては。しかしそれをヤメるわけにはいかない。フラっと走ることがワシにとって唯一のストレス解消なのだから。

というわけで、先ほど走ってきた。今回は平塚、大磯、二宮周辺である。もちろん無目的に行ったわけじゃない。それなりの理由があってのことだ。

それはさておき、平塚から二宮に抜ける狭い道路は適度なワインディングがあって面白い。だが今回はスゴイ霧で、ロクに前が見えなかった。たまにすれ違う対向車のヘッドライトが遠くから突然「…フワッ…」と現われる。それはまるで「ひとだま」のようにも見えてドキッとしてみたり。途中に土屋霊園というのがあるのを知っていたせいか、よけいに恐怖の迫力は増した。いや、半分冗談です。

なんだかんだで、今回のルートは150kmほどだった。それにしてもクルマに付着する花粉は何とかならないかなあ。なかなか洗車する機会がなくて、思わず途中の海老名サービスエリアで洗車しちゃったよ。もちろんコソコソとね(笑)
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数十年も前の…

2005-04-18 17:03:59 | 脳みその日常
クラシック音楽の演奏会に行くと、たいてい入り口のところでプログラム冊子を手渡される。そこにはこれから演奏される曲目の解説が書かれている。開演する前に時間があれば一通り目を通す。

そのプログラム冊子には、ほかに演奏者のプロフィールも掲載されている。ちょっとカネをかけたものだと、演奏者の顔写真が載っている。写真を載せることは構わない。問題は載せた写真なのだ。

いわゆる一流どころのアーティストならば、近影の写真を載せることは普通だ。ところが、こと日本人の演奏家で、特にベテランの域に達した人たちにはそうでないことが多い。率直に言うと、数十年も前の写真を載せて知らん顔しているのだ。

初めて聴く演奏者の場合、その人の顔を知らないのだからプログラム冊子の情報がすべてである。経歴を見て、「へぇー、この人ってもうベテランなんだな」とか「どこそこ大学で教えてるのか」といったことを知る。それと同時に載せてある写真を見て、「その割に若いねえ」なんて思ったりもする。

そのうち開演時間となる。ステージの袖から本日の主役が登場。と、ところが、である。冊子の写真でない人が出てきたではないか! いや、よーく見ると、写真に似ている(ような気がする)。やっぱり本人なのか…。

そこまで極端な例は稀だが、限りなくそれに近い例は実際にあるのだ。どう考えても20年以上前だよな、その写真ってのが。でも、たとえば証明写真などは、撮影から3ヶ月もしくは半年以内のものを使用することがほとんど。もしウン十年前の写真を使ったら同一人物として証明されないだろうし、最悪の場合、詐欺罪で訴えられる可能性だってある。

「そりゃ極端過ぎますぜ、ダンナ」と言うかもしれない。ならば、次のパターンだったらどうか。単なるミーハー好きなオッチャンが、たまたまある演奏会のチラシを目にした。そこには美貌の女性歌手の写真が載っている。オッチャンはまるで脊髄反射のようにチケットを購入。その演奏会を楽しみにしていた。

ところが当日ステージに現われたのは妙齢ではあるが、お世辞にも美しいとはいえないオバチャン歌手だった…。オッチャンにしてみれば、騙されたと思うに違いない。告訴するかどうかは別にして。言うまでもないことだが、このオッチャンはワシじゃないよ。

確かにチラシの見せ方によって人が集まるかどうかは決まる。その「みてくれ」も良いに越したことはない。だからといって、かなり昔の写真を載せるのはどうなんだろう。やっぱり、それ、ちょっと違うんじゃないかなあ。
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KJ法

2005-04-17 23:49:57 | 脳みその日常
若い学生と喋っていたら、論文の書き方に話が及ぶ。「どうやって書いたらいいんでしょうか」と。つい「KJ法を使えばいいんじゃないの?」と言うと、「何ですか、それ」と切り返されてしまった。そうか、これってもうパソコンでできるんだよな、としみじみ思う。

KJ法とは1965年頃当時東京工業大学教授だった川喜田二郎氏によって考案された整理法である。1967年に『発想法』というタイトルで中公新書から出版されるや、その方法論はパソコン出現まで定番とされたものだった。これは簡単に説明すると、論文などを書く際、思いついたことや調べたことをどのようにまとめたらよいかというもの。川喜田氏の考案したのはカードを使う方法だった。ちなみに「KJ」とは言うまでもなく川喜田氏のイニシャルに由来する。

常にカードを携行し、何かを思いついたら、その都度カードに記入するのだ。思いつきというのはまさに脈略のないものである。しかし、項目ごとにメモされたカードはあとになって並べてみると意外なことが発見できるのだ。つまり脈略のない個々の項目も、並べてみれば論理的な整合性が見えてくる。論文を書く場合、数百数千枚というカードを使えばいいと言うのだ。

当時この方法論は画期的なものであり、誰もがKJ法を用いて論文を書いた。ワシの卒論、修論もKJ法のおかげで書けたようなものだ。だが、今はパソコンのデータベース・ソフトを使えばよい。何も数百枚のカードを持ち歩かなくてもよくなっている。何かを思いついたら、その都度データベースに打ち込むだけ。あとは好きなように項目をソートし、各メモを文章にすればよい。あぁ、なんて便利な時代になったのだろう。

もちろん、現在でもKJ法についての研究は続いているようだ。詳しくはここのサイトを参照されたい。
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手を離れたら執着しないが…

2005-04-16 15:07:08 | 脳みその日常
何事も引き際が肝心だ。原稿を書く仕事の場合、依頼主に原稿を送るまでは内容にトコトンこだわる。メールで送ってしまえば、もうそれに執着することはない。もちろんその後出版社から「著者稿」というものが届けられ、原稿のチェックをする作業を行なう。

なぜ「著者稿」が必要なのかといえば、記述のうっかりミスや訂正をその時点で修正することができるからだ。実際に印刷されてからでは、もう直すことはできない。どんなにわめこうと泣き叫ぼうと無理なものは無理なのである。それゆえ、「著者稿」の段階でしっかりと見直すことが著者には求められるのだ。

内容が学術的なものである場合、「著者稿」が何度も行なわれることもある。いわゆる事典の類いなどはそうだ。どんなに見直しても見落としというものはある。プロの編集者ですら100パーセント大丈夫ということはない。だから編集レベルでも最低2度(初稿、再稿)の見直しを行なう。そうしたプロセスを経て印刷された書籍や雑誌は初めて世に出る。

ところがヒドイ出版社だと「著者稿」すら送って来ない。万一記述ミスがあったとしても、確認した時点で既に印刷物になっている。これはもう泣くに泣けない。だから最悪の場合を想定して、原稿を送るまでトコトン吟味するのだ。そうすれば泣く回数は最小限で済むから(笑)

我々ライターはそこまで考えて書いているのに、相手の編集者が愚かだったりすると許可なく書き直し(リライト)たりするので困る。だいたい愚かな編集者ほど、こちらの意図を理解せずに書き直すのでたまったものではない。文体やリズムといった著者独特の「呼吸」もすべて無視してリライトするのだから、結果としてオリジナルの文章よりも駄文になるのは明らか。でも彼らはそこまで知恵が回らないから始末が悪い。

もっとも、そんなことをする編集者は稀であり、めったに遭遇することはない。大半の編集者はリライトするにしても、こちらの「呼吸」を汲んでスッキリとした文章に仕上げてくれるものだ。したがって愚かな編集者に遭遇したら運が悪いと思って諦めるしかない。そう、ジョーカーを引いたと思うしかないのである。

いずれにしても印刷物は出来上がる。そしてサンプルが送られてくる。現物を確認するという意味でサンプルは必要であるが、ワシにとってはもうどうでもよいもの。すでに原稿を送った時点で「終わった」と思っているからね。サンプルを見て一喜一憂しても仕方のないことだし。

でも、いるんだよな、もう手直しは無理なのにワァーワァー言う奴が。困ったもんだ。

(メモ)
ある教育委員会から年末に子供向けのレクチャーを頼まれる。うはーっ、大変だ。
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