ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

工法に注目!…妓王井川支流砂防堰堤

2023-04-19 06:55:26 | 滋賀(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は滋賀県野洲市三上(やすし みかみ)にある淀川水系の妓王井川(ぎおういがわ)支流砂防堰堤を目指します。アクセスは国道8号の「三上山登山口」信号を三上山登山道方面に入り、緩やかに右カーブするところにある「天保義民碑」を左へ。民家の間を抜けて右に入って行くと目的地に到着します。なお、この付近は道が細く駐車する場所がないので、やはり国道8号沿いにある御上(みかみ)神社の駐車場を利用すると良いでしょう。

【妓王井川について】(参考)(参考
さて、堰堤名の「妓王井川」ですが、これは野洲川から取水して現在の野洲市野田まで延びる長さ約12kmの川で、1174年に完成した灌漑用の水路のこと。で、妓王とは誰なのか。それは平清盛に寵愛された白拍子(しらびょうし)の名手だった女性の名前。白拍子は平安時代末に始まった男装の舞妓で、簡単な歌を歌いながら踊ったそうな。また彼女たちは権力者の愛妾になることもあり、例えば源義経の妾であった静御前も白拍子だったようです。話を戻しましょう。妓王の郷里であるこの地域では度々干ばつに悩まされていたことから彼女はパトロンである清盛に治水整備をして欲しいと請願。それにより水路は完成することになり、慢性的な水不足は解消され有数の穀倉地帯へと発展しました。妓王の請願により水路が完成したことで「妓王井川」と呼ばれるようになったそうです(祇王井川とも表記されます)。

…てなわけで妓王井川支流砂防堰堤に到着しました。おー、今までに見たことのないデザイン!


堰堤本体に貼られているプレート。完成は2018年6月。堰堤形式のダブルウォール工法ってのはなんでしょうね。調べてみると、これは上流側と下流側に貼られた壁面材の間に現地で発生した土砂を流し込む工法のことで、コンクリートで築造するよりも経費がかからないメリットがあるようです。(参考


接写してみます。おおっ、なんだかオシャレ!


堰堤下から副堰堤を見た様子。中央には透過型の設備が置かれていますね。


左岸の堰堤の横から見ると、こんな感じ。


これが堰堤の上です。でもフェンスがあって進むことはできません。


仕方がないので、そこから上流側を眺めます。


下流方向を眺めると、こんな感じ。あの先に民家があり、来る時はそこから登って来ました。


高さ8.0mの小規模砂防堰堤ですが通常のそれと比べ、なかなか目を引くデザインだと思います。
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川べりからドーンと見える!…天神川堰堤

2022-09-05 07:00:19 | 滋賀(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。えー、今回は滋賀県大津市枝(えだ)にある淀川水系の天神川(てんじんがわ)堰堤を訪れます。アクセスは大戸川(だいどがわ)沿いに走る県道108号を草津方面へ行き、「里五丁目」交差点を田上小学校に沿う形で直進し県道109号に入ります。しばらく進み、株式会社アクスを過ぎたら左側に目的地が見えてきます。

ど〜ん。



でも、実は県道109号を走っていてもこんな風には見えません。上の景色を見るには県道から天神川へ向かって草むらを下りて行きます。なので、天神川堰堤の目印となるのは県道沿いにあるこの案内板。



説明によれば、天神川堰堤は二度にわたって築造されたもので、最初は1943年6月に着手し、1946年5月に完成。次は1958年5月に着工し、1959年3月に完成したとあります。でも、なぜ堰堤を築造しなければならなかったのか。かつてこの上流はスギ、ヒノキ、カシなどが豊かに茂る森でしたが、奈良・平安時代、各地で寺院や仏閣が建立された際その建築用材として乱伐が行なわれました。さらに戦による焼き打ちや山火事により、遂には山全体が「禿山」状態に。こうなると大雨が降ればたちまち洪水が起きます。

そこで滋賀県は明治5年(1872年)から数年間かけて山の荒廃を防ぐべく山腹工事を実施。続いて1878年からは国による山腹工事が行なわれ徐々に昔の緑豊かな山に戻りつつあるそうな。天神山堰堤はそうした山の復興工事の一環として防災的な意味で築造されたのでしょうね。

上にも書いたように天神川へ行くには県道から草むらを進んで行くと川べりにたどり着くことができます。左岸から堰堤の右岸側を撮ったのが、こちら。



そして、堰堤の左岸側は、こんな感じ。



実際、水遊びできるほど近くまで寄ることができます。少し上流ではファミリーが川べりにテントを張って遊んでいました。地元もしくは近県の人たちからすると、このあたりは夏の憩いの場なのかもしれませんね。
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かつて土砂災害が?…梨ノ木川砂防堰堤

2022-09-04 06:56:26 | 滋賀(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は滋賀県大津市上田上芝原町(かみたなかみ しばはらちょう)にある淀川水系の梨ノ木川(なしのきがわ)砂防堰堤に行ってみます。目的地の場所は龍谷大学 瀬田キャンパスの東側にあり、アクセスは県道108号の「中野町」交差点から入り、そのまま梨ノ木川に沿って進んでいくと到着します。

これですね。なんだかゴツいなぁ。



本体に嵌め込まれたプレート。「梨ノ木川砂防ダム」と記されていますが、高さが6.5mしかありません。砂防ダムとは高さが15m以上の築造物を言うので定義としては砂防堰堤になります。2012年12月完成。



左岸から見た、いわゆるダム上。中央まで行ってみます。



中央から落水部を見下ろすとこんな感じ。真ん中に溝がありますが、これは低い水位の時にその溝から排水されるようにしたもの。



そこから見た上流側の様子。水はありませんし、もはやグラウンド化しています。



一方、下流側はこんな感じ。一応、水が流れるようになっているんですね。



上の写真で向こうに見える橋から見た堰堤の様子。堰堤の両端は木に隠れていますが、落水部のみが見えています。



周辺の様子を見ると、とても土砂災害が起きるような場所でないことがわかります。でも2012年以前にはここに砂防堰堤を築造しなければならないような災害が起こったんでしょうね。
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1号はあるの?…桐生辻2号堰堤

2022-09-03 06:53:18 | 滋賀(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。昨日記事にした桐生取水堰から大戸川(だいどがわ)沿いに県道16号を少し下ってくると今回訪れる淀川水系の桐生辻2号堰堤に到着します。目安としては直線距離にして1.2kmほど下流です。住所は滋賀県大津市上田上桐生町(かみたなかみ きりゅうちょう)。

ただ、まあ、漫然と走っていると見落とすかもしれません。なので、県道沿いにあるこの看板を目印にすると良いでしょう。堰堤の完成は1956年3月。



看板には立入禁止と書かれていますが、遊ぶわけじゃないので堰堤に行ってみます。これが看板の向こうの「世界」。手前に見えるのは「大鳥居雨量観測所」。住所の欄に「上田上大鳥居」とありますが、地図で確認すると大鳥居はもっと上流なんですよね。まあ、いいか…。





堰堤中央の落水部の様子。訪れた前日は雨が降っていたので水の色はあまり美しくありません。



その場所から大戸川上流方向を見ると、こんな感じ。



そこから見た県道側は、こんな感じです。



ちなみに右岸の下流側から堰堤を見ても木が生い茂っていて全く見えず。



さて、桐生辻2号堰堤があるなら「1号」もあるはずですよね。グーグル先生の地図にそれは載っていませんが、調べてみると「1号」はどうやら「2号」の下流500mほどのところにあるようです(参考)。ところが、県道から見る限り「1号」の存在は確認できませんでした。県道と大戸川の間にはメチャクチャ木が生えていて川の存在すらわからないほどなんです。でも「1号」は確かに存在するんだなとわかってホッとしました。だけど、じゃあ「辻」ってなんだろう。このあたりの地名かなぁ…。
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大戸川発電所のための…桐生取水堰

2022-09-02 06:55:28 | 滋賀(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は滋賀県大津市上田上牧町(かみたなかみ まきちょう)にある淀川水系の桐生取水堰を訪れます。「桐生」とあるのはここの右岸下流側の地名が上田上桐生町(きりゅうちょう)なので、それに由来するものと思われます。アクセスは県道16号(大津信楽線)沿いにあるので迷うことはないと思います。ただ、道が狭いので目的地の横に駐車することはできません(実際には空きスペースはありますが、そこは駐車禁止)。停める場所はちょっと上流側が良いと思います。

これが桐生取水堰の全体像。



右岸の県道沿いには「監視室」の建物があります。取水堰は県道よりも下にあるので目的地に辿り着くにはこの監視室を目印にすると良いかもしれません。





取水堰の横から見ると、こんな感じ。左岸側に見える口のような形をしたところが取水口でしょうか。



左岸の下流側には水利使用標識が見えますが、距離があってズームしても読み取れず。なぜ対岸にあるんでしょうね。右岸側の監視室のところに設置すれば良いのに。



調べてみると、この取水堰で取水した水は直線距離にして3km下流のところにある関西電力 大戸川(だいどがわ)発電所へ送水されるようです。発電所の諸元を見ると運用開始は明治44年(1911年)1月なので桐生取水堰もその頃に築造されたものと思われます。ただし、その形状からするとそこまで古い感じではないので現在の取水堰は改築されたものなのかもしれません。たぶん。
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どこへ送水?…大戸川取水堰

2022-09-01 07:04:02 | 滋賀(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は滋賀県甲賀市信楽町黄瀬(こうかし しがらきちょう きのせ)にある淀川水系の大戸川(だいどがわ)取水堰を訪れます。その位置は新名神高速道路の信楽インターの西で、アクセスは県道16号沿いの「ミホミュージアム」の看板のところのT字路を入っていくと到着します。

どうやら、これのようです。大戸川に設置された取水堰なんですが、ご覧のように川の周りに草が生い茂っていてよく見えませんね。



右岸、取水堰の横から見た様子です。



右岸から管理橋を見ると、こんな感じ。残念ながら立入禁止なので管理橋を渡ることはできません。



真横から見た取水堰の様子。取水口は左岸側にあるようです(写真中央)。



取水堰横から見た大戸川の上流方向の景色。



そして、下流側はこんな景色です。



当たり前のように「大戸川取水堰」と書いていますが、現場にはそれを示す看板はありません。グーグル先生の地図にそう書いてあったので行ってみただけのこと。また、ここから取水された水が何に使用され、どこへ送水されるのかはわかりませんでした。
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雪化粧の平子川砂防堰堤

2022-01-23 07:08:09 | 滋賀(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。えー、今回は国道477号を走っていて、以前訪れた蔵王ダム野洲川ダムの間に堰堤らしきものがあるのを発見。早速向かってみました。場所は滋賀県蒲生郡日野町熊野(がもうぐんひのちょうくまの)になります。

これが「ご尊顔」。どうやら透過型の砂防堰堤のようですね。



左岸のダム横へ行ける道があるので向かいます。近づいてきました。



堰堤本体に嵌め込まれたプレート。「平子川砂防堰堤」とあり、完成は2016年8月。高さは9.5m。



これがいわゆるダム上になります。しかしフェンスがあってその先へ行くことはできません。



左岸、上流側から見た様子。雪が積もった砂防堰堤もまたオツなものですねぇ。



さらに上流から見るとこんな感じ。堰堤の向こうに見える道路は国道477号。



堰堤名はここを流れる平子川に由来します。平子川は下流で日野川に合流し、蔵王ダムへ流れ込みます。この砂防堰堤は現在のところ国土地理院の地図に載っていないので、偶然見つけた時にはびっくりしました。ちなみにグーグル先生の地図には出ています。先生の地図は時々ちゃんとしているので困るんですよね(苦笑)
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右岸からどうぞ!…櫟野川砂防ダム

2022-01-22 06:59:01 | 滋賀(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。えー、昨日の記事で櫟野川(いちのがわ)沿いにある複数の床固(とこがため)を見学してきました。で、今回は当初の目的地である淀川水系の櫟野川砂防ダムを訪れます。アクセスについては昨日の記事をご覧ください。

まずは「ご尊顔」をどうぞ。



左岸のダム横に来ました。そこには櫟野川砂防ダムの案内板があります。これによると1977年にまず砂防ダムとして計画されたが、後に農業用水を貯水する目的も追加され、1979年6月に工事を開始。そして1981年3月に完成したとあります。



竣工記念碑がこちら。



近くには「清流山静」と刻まれた記念碑。この四文字の典拠は不明です。櫟野川砂防ダム竣工記念なのはわかりますが、砂防事業100年記念とはなんでしょうね。





その答えはその記念碑の裏側に記されていました。滋賀県における砂防事業は調べてみると江戸時代の1686年に栗太郡と滋賀郡で行なわれたのが最初のようです(参考)。そこから100年となると計算が合いません。じゃあ砂防事業100年は何に基づくのでしょうか。どうやらそれは明治15年(1882年)にオランダの土木技師、ヨハネス・デ・レーケ(1842-1913)の指導のもとで滋賀県大津市上田上桐生町(かみたなかみきりゅうちょう)に草津川の砂防堰堤として「オランダ堰堤」の工事に着手したことに基づいています。デ・レーケは内務省技術顧問として1873年来日し、1903年に離日する30年間に滋賀県のみならず富山県などでも数々の業績を上げました(参考)。ちなみに「オランダ堰堤」(1889年完成)は2004年に土木学会選奨土木遺産に指定されています(参考)。



で、いよいよダム上に向かうんですが、ご覧の通りフェンスがあって左岸からは行くことができません。



その傍には「櫟野川砂防ダム」のプレートが申し訳なさそうにこちらを見ています。



でも、ダム上に行くことはできないものだろうか…。地図を見ると対岸(右岸)に行く道を発見。迂回してみました。すると、木の間から「ご尊顔」が!



ラッキーなことに右岸のダム横からダム上に行くことができたんです!



中央の落水部まできました。



ダム上、中央から見た貯水側の様子。うーん、ゆったりしています。



ダム下の副ダムはこんな感じ。



ダム上、中央から右岸を見るとこんな感じです。



なぜ左岸からダム上に行ってはいけないのかは不明ですが、右岸から行けたので良しとしましょう。それにしても上に書いた「オランダ堰堤」、気になります。いつか行ってみたいと思います。
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櫟野川の床固たち、その意味

2022-01-21 07:00:50 | 滋賀(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は滋賀県甲賀市甲賀町櫟野(こうかしこうかちょういちの)にある淀川水系の櫟野川(いちのがわ)砂防ダムを目指します。アクセスは県道131号から櫟野川に沿う道を遡って行くと到着…なんですが、目的のダムへ至る途中にいくつかの堰堤があったので、今回はそれらについてスポットを当ててみようと思います。

で、櫟野川に沿う道を進んで行くと、まず出くわすのがこの「関所」。野生動物対策と思われるゲートです。でも心配いりません。通行者は自らゲートを開閉して先へ行くことができます。



さらに進むと「櫟野川遊歩道案内図」が。ここからダムまでに3つの広場があります。下流からひとつずつ見て行くことにしましょう。



最初は「けやきひろば」。



ここには「櫟野川荒廃砂防床固(とこがため)」と記されたプレートが貼られたものが。1992年3月に完成したもので、高さは3.65mです。ちなみに床固(床固工とも記される)とは高さ5.0m以下の築造物のことで、川が縦に削られないようにする働きと川底の堆積物の流出を防ぐ目的があります。





その下流側はこんな感じ。



この上流にあるのが「山桜ひろば」。



ここにも同名の床固があります。こちらの完成は1991年2月。高さは2.5mなので先ほどのよりは少し小ぶり。







その下流はこんな感じ。



さらに上流へ向かいます。すると「小池ひろば」が。



ここにも床固があります。こちらは1990年5月に完成したもので、高さは2.2m。







その下流はこんな感じです。



小池ひろばではバーベキューをすることができるようです。



こうして見てくると櫟野川の床固は上流から順々に築造されてきたことがわかりますね。しかも床固の規模は築造されるたびに高さが増しているという事実。ということは、年々砂防対策を強化してきたということなのかもしれません。そう考えると、なかなか興味深いものがあります。

さて、次回はいよいよ当初の目的である櫟野川砂防ダムへ向かいます。お楽しみに!
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まだまだ進化するのか?…大原貯水池(ダム)

2022-01-20 06:55:23 | 滋賀(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は滋賀県甲賀市甲賀町神(こうかしこうかちょうかみ)にある淀川水系の大原ダムを訪れます。アクセスは県道129号を進み、県道131号(鹿深の道)と分岐する場所の先の二又のところを右へ入っていくとダムの左岸に到着します。

フィルダムのようです。



下流側はこんな感じ。



左岸のダム横に来たのですが、どうやらダム上に行くことはできないようです。





左岸側に目をやると越流式の立派な洪水吐がありました。増水すると、水はここから溢れ出て、奥へ向かう水路を通り、



あちらのほうへ流れてゆきます。



洪水吐からの水路の上には2つの物体がちょこんとお行儀よく並んでいます。



ひとつはダムの案内板。築造の経緯はここを流れる大原川流域とその下流で合流する杣川(そまがわ)流域が昔から干ばつで悩まされていたことにありました。そこで1943年に大原川を堰き止めて貯水池の建設に着手します。しかし第二次世界大戦のために工事は一時中断。戦後、食糧増産の要請を受けて1947年に工事は再開。そして1954年に完成しました。その後、貯水池の老朽化が進むとともに地震時における強度不足も指摘されたため、2007年から2011年にかけて県営防災ダム事業として全体的な改修工事が行なわれ、現在に至ります。

ところで、なぜ大原貯水池と命名されたのでしょうか。大原川を堰き止めて築造されたから? それも一理あるでしょう。しかしこのダムが完成した当時、ここは大原村だったというのが最も妥当な考えかもしれません。大原村は1889年4月1日の町村制施行により大久保、神、櫟野(いちの)、大原上田、大原中、鳥居野、相模、大原市場、高野の各村が合併して始まりますが、1955年4月1日に佐山村と油日村(あぶらひむら)が合併して甲賀町として発足したため同日をもって大原村は廃止。というわけで、貯水池の完成当時は大原村だったため、「じゃあ大原貯水池と命名しよう!」となったのではないかと思われます。





貯水池でありながら、高さは27.4mもあるのでダムの条件を満たしています。したがって「大原ダム」とも呼ばれるのです。



もうひとつの「物体」は改修工事以前まで活躍していた取水設備の一部。



この付近から貯水池を見るとこんな感じ。なかなかの大きさです。



左岸沿いの道のさらに奥に管理棟があるようなので行ってみます。



これがその管理棟。だからなんだと言われても困りますが…。





そこから見たダムの様子。あれれ、気がつかなかったんですが、ダム上の貯水池側に太陽光発電のパネルがぎっしりと並べられているじゃありませんか! なるほど、だからダム上は立入禁止なのかもしれません。でも、このパネルで発電した電気は何に使用されるんでしょうね。ますます気になります。



農業用水供給のためのダムとして出発した大原貯水池(ダム)ですが、今後は電気も供給するようになって行くのかもしれません。発展の道はまだまだ続く…

なんちゃって。
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忘れられた存在?…佐山頭首工

2022-01-19 07:02:30 | 滋賀(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。えー、今回は滋賀県甲賀市土山町前野(こうかしつちやまちょうまえの)にある淀川水系の佐山頭首工を訪れます。アクセスは国道1号の「前野」交差点を県道24号(甲賀土山線)を南下し、野洲川(やすがわ)手前の道を右折。そして瀧樹神社(たきじんじゃ)方面へ行き、その先に当該の頭首工が見えてきます。

ところで、この頭首工の名称ですが、なぜ佐山なのでしょうか。周囲にそれらしき地名は見当たりません。気になったので調べてみました。どうやら野洲川のこのあたりの左岸側は以前「佐山村」だったことと関係がありそう。佐山村は1889年4月1日の町村制の施行により隠岐村、神保村、小佐治村、岩室村、和野村、嶬峨村(ぎがむら)がまとまって佐山村となります。そして1955年4月1日に佐山村は大原村、油日村(あぶらひむら)と合併して甲賀町になったため、この日をもって佐山村の名称は廃止となったそうな。

で、この頭首工は1966年に着工し、翌67年に完成するわけですが(参考)、その名称はおそらくかつてこの付近が佐山村だったことにちなんで命名されたものと思われます。そんなことは現場にはどこにも説明はありませんけどね。

そんなこんなで到着しました。野洲川の右岸から見ると頭首工はこんな感じ。



どうやら左岸のほうに取水口があるようです。



これが真横から見た佐山頭首工の姿。



すぐ近くには四畳半ほどの建物。詰所か何かでしょうか。



その壁には水利使用標識が貼られています。



では、左岸に向かって頭首工の上を歩いてみることに。中央から上流側を見るとこんな感じ。野洲川を横切っている橋のところは県道24号(甲賀土山線)です。



一方、下流側はこんな景色です。言うまでもありませんが、野洲川の水量が多い時はここも川になるんです。



そこから右岸を見るとこんな感じ。



左岸側の設備に目を向けます。この日の流量は少ないながらも澄んだ水が流れていました。以前訪れた「野洲川ダム」、そして「青土ダム」の圧巻の洪水吐から流れてきた水がここに至るわけです。そう考えると感慨深いものがありますね。



通常、水の流れは左岸側のようで、その中央寄りには魚道があるんですが、この時は全く機能していませんでした。



左岸側から勢い良く流れ出る水。見ているだけで清々しい気分になります。



おそらくこの裏側あたりに取水口があって、そこから分水して左岸側の農地へ流れてゆくのではないでしょうか。いずれにしても現地にはそうした説明のための案内板が全くないので残念でなりません。この頭首工とて野洲川農業水利事業計画の一旦を担っているのですから下流にある石部頭首工、水口頭首工同様に丁寧な案内板があってもいいんじゃないかと思うんですけどね。それとも、もう用済み?

そりゃないぜ、セニョール!
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目立たないところに…鎌掛頭首工

2022-01-18 16:07:30 | 滋賀(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は滋賀県蒲生郡日野町鎌掛(がもうぐんひのちょうかいがけ)にある淀川水系の鎌掛頭首工を訪れます。アクセスは県道182号沿いにあるおかちん本舗 加名田米菓研究所近江ヒルズゴルフ倶楽部の間にあります。

到着しました。雪が残っています。日陰なので画像が映えませんね。ここは2段階で取水するようになっているようです。まずは上流側の1段目。



ズームすると越流する場所に細いパイプが並んでいて、そこを通る水が分水する仕組みのようです。



分水した水は右岸の水路を通って流れてゆきます。



ひとつめの堰堤のすぐ下流にもう1つの堰堤があります。そこは川の勢いを抑制するだけであって特に取水していません。





この下流に2番めの取水口のある堰堤があります。



それがこちら。見ると今度は左岸側に取水口が見えますね。この柵状になっているところから取水するようです。





下流はこんな感じ…といってもよくわかりませんね。とほほ。



県道182号を挟んだ反対側に管理所らしきものがありますが、それを示すプレートはありません。写真を撮り忘れましたが、この建物の裏側に配水池のようなものがあるので建物はその操作所かもしれません。



雪がなければ頭首工のある北砂川の近くまで降りて見るのですが、危険を感じたので県道から見ただけでした。
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ほとんど放置状態?…今郷貯水池

2022-01-17 07:08:40 | 滋賀(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は滋賀県甲賀市水口町今郷(こうかしみなくちちょういまごう)にある淀川水系の今郷貯水池を訪れます。アクセスは県道182号から入って行くと到着します。ちょっとわかりにくいかもしれませんが。

右岸に到着しました。



これがいわゆるダム上。歩いてみます。



ダム上、中央から見た貯水側の様子。ゆったり、のんびり時間が過ぎている感じ。



一方、下流側はこんな感じです。



おや? これは何かな? 分水工のようにも見えます。



対岸(左岸)に来ました。振り返るとこんな感じ。



洪水吐は左岸側にあって、ある程度の水位になると溢れ出すという構造のようです。これも越流式というんでしょうか。





そして溢れた水はこの水路を通ってあちらへ流れてゆきます。



ダム上、およびタム横周辺にはここが今郷貯水池であるという案内板はありません。何もないのかなと思いながら貯水池を後にしようとした時、なんと右岸へ至る道の途中にありました。うっかりすると気づきませんが、ちゃんと「今郷貯水池」と刻まれているのがわかりますね。やれやれ、一安心です。



そんなわけで、今郷貯水池の成立の経緯などはわかりませんでした。農業用のため池なのかもしれませんね。知らんけど。
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野洲川中流域の要!…水口頭首工

2022-01-16 07:12:36 | 滋賀(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は滋賀県甲賀市水口町新城(こうかしみなくちちょうしんじょう)にある淀川水系の水口頭首工を訪れます。アクセスは野洲川の右岸を走る県道549号沿いにあるのですぐわかります。

到着しました。野洲川の右岸、下流側から見た「ご尊顔」です。



頭首工のすぐ下流はこんな風になっています。頭首工は右岸側にあり、その下流には砂を沈めるためのエリアが見えます。左岸のほうはそのまま水が流れていきますが、その間にはおそらく魚道があると思われます。



頭首工本体に貼り付けられている水利使用標識のプレート。



右岸、上流側にあるこの設備が取水ゲート。



水口頭首工を上流側から見るとこんな感じ。



先ほど見た取水ゲートから分水した水は県道の下をくぐってここに流れ込みます。そしてあちらのほうへ流れてゆきます。



管理所の建物は頭首工とは反対の県道沿いにあります。この付近には駐車スペースがないので駐車する際はこの敷地内に停めたら良いと思います。





建物の壁に貼られている案内板。よくある案内板と思いきや、簡潔丁寧な説明。実にわかりやすい! これによると、水口頭首工は1954年10月に着工し1955年7月に完成しましたが、老朽化が進んだため2006年8月に改修工事に着手。そして2010年3月に改修工事が完了したとあります。



この案内板を改めて見ると野洲川ダムに始まる野洲川沿岸の土地改良事業のスケールの大きさがわかりますね。これで近江太郎(野洲川の別名)が暴れても安心というわけですな。
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水を均等に!…朝国地区親水性円筒分水工

2022-01-15 06:51:09 | 滋賀(ダム/堰堤)
奇妙なものは見たくなる。それが好奇心だもの。(ワシを)

相田先生、またパクりました。すみません。

どーも、ワシです。さて、今回訪れるのは滋賀県湖南市朝国(こなんしあさくに)にある淀川水系の朝国地区親水性円筒分水工です。アクセスは国道1号沿いにある「TOTOサニテクノ滋賀工場」の近くですが、目的の場所は国道を挟んだ反対側になります。

さて、今まで見てきた頭首工は川を堰き止めてそこから取水するものでしたが、この分水工は野洲川から取水された水をさらに地域の水路に分水するためのものです。しかし、ただ分水するだけではそれぞれの水路に均等に行き渡らせることができません。必ずどこかが多く、どこかが少なくなってしまいます。そこで考案されたのが円筒分水工というもの。

まずは現物をご覧いただきましょう。不思議なフォルムです。



これを上から見るとこんな感じ。構造を見ると円形のコンクリートの内側にふた回りほど小さい円が見えますね。その小さな円のところから水が湧き出てきます。その水は外側のコンクリート部分の等間隔に開けられたところから流れ出ることで方角の異なるどの水路にも均等に分水することができるという仕組みなんですね。





それぞれの「窓」から流れ出る水の様子。





流れ出た水は網目状になっているところからそれぞれの水路に向かうのです。





近くにある案内板。これによれば、この円筒分水工が完成したのは1962年だそうです。





こういう施設が作られる背景には農民同士の水の奪い合いがあったに違いありません。それをなくすには水を均等に配水すれば良い。おそらくその対策として円形分水工が考案されたのではないかと思われます。いろいろ考えるもんですねぇ。
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