ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

《第5番》のゆくえ

2008-02-26 04:39:38 | 音楽あれこれ
まずは画像をクリックして拡大したものをご覧下さい。これは老舗音楽出版社が少し前に刊行したものの一部である。何気なく内容を読んでいたらこの場所で目が点になった。

「なぬ? どゆこと?」

画像を拡大できない方のために説明しよう。2つの作品の説明がそれぞれ書かれているのだが、何と2つの項目は全く同じなのだ。2つの作品とはスクリャービンの《幻想ソナタ》と《ピアノ・ソナタ第5番》なのだが、説明文は《幻想ソナタ》のことのみ。つまり《第5番》の説明文も《幻想ソナタ》の内容なのである。

じゃあ、《第5番》の説明文はいずこに?となるわけだが、どこにも見当たらない。これは明らかに編集部のチェック・ミス。フツーの編集者でもこんなミスはまずやらない。というよりこんな大規模な間違いはどんな人だって気づく。

そもそもこの担当者は説明文の内容すらちゃんと読んでいないと思う。だってね、他の項目でもしばしば見受けられるんだけれど、説明そのものがよくわからないのだ。たとえば次のくだり。

「4楽章で構成されているソナタ形式を採っている」

なんすか、これ。この筆者、自分の書いていることがわかっているんだろうか。これじゃあソナタ形式というものをマトモに勉強していないのがバレバレである。少なくとも音楽の形式を学んだ人ならこんな書き方をしない。いや、そもそも間違ってるし。

誰にも間違うことはある。ワシだって過去にウッカリ間違ったデータを書いてしまい、後日慌てた経験がある。もちろん後日訂正させてもらったけれど。

問題は「知ったかぶり」で書くこと。これが一番いけない。なにより読者はそれを鵜呑みにしてしまうではないか。もっとも、この例に関しては一般の読者も理解できないだろうけど。

自分が知らないことは書いてはいけないし、そんな依頼が来ても受けるべきじゃない。それがプロというもの(だとワシは思う)。例えばさ、法律を勉強したことのない人はどこかの編集部から「法律についての説明をしてくれ」と依頼されても書かないでしょ? いや、フツーの感覚なら「書けない」わな。そんなようなもの。音楽だけは例外なんてことはありえない。たとえ編集部を誤摩化せたとしても、その筋の人が見ればその書き手がどの程度の能力なのかはすぐにバレてしまうのにね。

ま、それはともかく、《第5番》の説明文はどこに。気になって仕方がない。
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観音崎の先に行く「かのう」

2008-02-25 13:48:48 | ドライブ関連
昨日から夜半にかけて関東は強風に見舞われた。一体なんですか、あれは。まるで台風ですよ。そんななか、ふと思い立って三浦半島方面に向かう。

写真は横須賀を過ぎて海岸線に沿ったところにある馬掘海岸。モロ直線道路で周囲に遮蔽物がないため、とにかく寒い。熱帯産と思われる樹木が強風に揺さぶられて「ひぃぃぃ、さみぃぃぃぃ」と叫んでいるとか、いないとか。

さらに先へ進む。とりあえずは観音崎まで行ってみることにした。観音崎については以前書いたことがあるので省略(2005年12月6日の記事参照)。

今回はその先の鴨居港へ足を伸ばす。時間はもうすぐ午前3時。まだひっそりと静まり返っていた。海沿いに道が続いていたので、もっと先へ。

しばらく行くとクルーザーの寝床が見えてきた。マリンポートというらしい。

   


風は相変わらず強い。たくさんのクルーザーがひしめくなか、「ふぎぃ~、へぎゃ~」のような表現不能な音が聞こえる。もちろん何かが擦れ合う音なのだろう。だがワシにはさっきの熱帯木と同じく寒さで震えるクルーザーの悲鳴に聴こえた。え?幻聴? そうかもしれません。病院に行ったほうがいい? いえ、行きません。脳みそ以外は健康ですから(笑)

そろそろ帰宅時間なのだが、さらに道が続くのでチャレンジしてみる。ほどなく現われたのは「叶神社」。脳みそが痛んで化膿するの「かのう」じゃないですよ、念のため。

   


入り口にある石碑は画像処理してもこの程度。ごめんなさいね。代わりに看板で我慢してください。で、「叶姉妹の色紙はいずこに」と見回すも、もちろんあるわきゃーない。いや、実際にキョロキョロしていたら港に仕事へ向かう漁師さんに怪しまれた。そりゃそうだわな、こんな時間にこんな場所でキョロキョロしてたら怪しいもん。

おしまい。
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文字説明の難しさ

2008-02-24 15:52:27 | 脳みその日常
文章で自分の真意を伝えるのは難しい。たとえ結論が同じであっても説明の順序によってそれを受け取る側の印象も変わる。例として次の2つのパターンで見てみよう。

(1)落とした後にフォローするパターン
「あること」に対し、これは●●の理由でよろしくないと指摘する。しかしそれがダメだと言いたいのではない。むしろ「あること」は◎◎の理由からもっと評価されるべきなのだと説く。

(2)評価してからアドヴァイスするパターン
「あること」は◎◎の理由から非常に評価されてしかるべきだろうとまずは言及する。ただし●●の点を考慮すると今後検討する余地はあるだろう。たとえば▲▲などを改善してみたらどうだろうかと説く。

どちらのパターンにしても筆者の立場は「あること」に対し肯定的な評価を下している。後者には「アドヴァイス」という付録があるが、それは実際にはあってもなくても構わない。なぜならここでは筆者が「あること」に対して肯定・否定どちらの評価をしているのかに焦点が当てられているのだから。

さて、上記の2つのパターンから読み手はどのような印象を受けるだろうか。受け取り方はさまざまだろうが、ワシの感覚からすると、同じように評価されるにしても(2)のパターンのほうが好意的に評価されているように感じられる。例文にあるように「▲▲など」と具体的な改善箇所が明記されてあれば読み手はより親切に思うのではないだろうか。

逆に(1)のほうは意地悪だなあという印象が強い。もしかすると書き手の本心は違うのではないかと勘ぐってしまう。「本当のところは評価しない。でも好意的な評価をしないとカドが立つからなぁ」なんて思ってるんじゃないの?と。そこでフォローの文章が続く…。たとえそのフォローが的を射たものであっても文章の最初で「落とされている」だけにあまり評価されている印象は残らない。そのフォローも何となくウソ臭く見えてしまったりする。

同じ表現するにしても面と向かって言うほうがはるかに的確に伝わる。表情や身振り手振りで誤解されないからだ。でも文字表現だけではどうしても情報に限界がある。その意味で文章というのは読み手にできるだけ誤解を与えない筋立てで論を進める必要があるのだ。もっとも、こんなことは当たり前のことなんだけどね。
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123456km到達の瞬間

2008-02-21 23:26:17 | ドライブ関連

給油するためスタンドに立ち寄る。メーターを見て、ふと気づいた。おおっ、もう少しでめったにお目にかかれない瞬間が訪れるじゃないか…と。そうなると今すぐにでも見ておきたい。面倒臭いがいつでも停止できる広い道路を走り、その「瞬間」を待つ。

で、写真にあるように6.4km走ったところでその「瞬間」がやってきた。

だから何と言われても困る。別にどうでも良いことなのだから。ただ、その瞬間を残しておきたかっただけのこと。ええ、ええ。
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全面結氷の諏訪湖

2008-02-20 08:22:50 | ドライブ関連
月曜日、所用で長野県の諏訪に行く。雪はあまりなかったが、とにかく寒い。夜にはマイナス10度(!)こんな気温なので諏訪湖は当然全面結氷。

    


でも氷上に乗るのは禁じられている。禁止のマークが写真にある赤い旗だ。これが撤去されたら胸を張って氷の上に乗ることができる。ただ、その可能性は現段階では低い。なぜならまだ氷の厚さが十分でないから。もっと寒くならないと氷上遊びは許可されない。



ところがなかなか許可が下りない理由が別にある。それはこの湖に特有の「ガス穴」というものがあるから。諏訪湖の中には「ガス穴」と呼ばれるものが点在する。ガス穴とはいうが、実際にそこから毒ガスが出ているわけじゃない。実は湖底のあちこちに温泉の出る穴があり、その真上は水温が高いのでなかなか凍らない。そのためほかの場所が凍ってもそこだけ穴の開いた状態になる。ガスのように見えるのは実は湯気であり、毒性はまずない。

毒性がないといっても油断は禁物。なぜなら全面結氷した年にはたいがい子供がその穴に落ちて命を落とすから。見た目に全面結氷していると、ついその上に乗りたくなる。特に子供はそうだ。で、調子に乗って氷上で滑って遊んでいるうち、うっかりガス穴に落ちてしまうのである。

滑り込んでの落下なので水中から浮き上がった時、頭上に穴はない。あるのは厚い氷のみ。すると子供でなくてもパニックに陥る。そして低い水温も手伝って、やがて落命することに…。

行政が氷上可能の許可をなかなか出さないのはそういうことなのだ。
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なんでやねんCM

2008-02-16 07:44:53 | 脳みその日常
何度見ても「なんでやねん!」とツッコミを入れたくなるCMがある。エプソンのオフィリオがそれだ。リンクしたサイトを見ていただければわかるが、このストーリーは次のようなもの。

女司会者「問題! あなたのオフィスで一番必要なものは?」
解答者A「(クールに)カラープリンタ!」
女司会者「ぶぅぅぅぅぅぅ」
解答者B「(慌てながら)ファックス、カラーコピー!」
女司会者「ぶるぶるぶぅぅぅぅぅ」
解答者C「(絶叫して)全部ぅぅぅぅ!!」
女司会者「(ニッコリして)正解!」

いやいやいやいや、おかしいでしょ、これ。

だって4つの選択肢(カラープリンタ、カラーコピー、スキャナ、ファックス)を提示してさ、その中で「一番」必要なものは何ですか?と聞いてるわけでしょ? 一番というからには解答はどれかひとつでなけりゃおかしいよな? なのに正解が「全部」って、あーた、問題として成立しとらんやないかい!

それにさ、「あなたのオフィス」っていうんだからどれを選んでも正解じゃないのか? あるオフィスではカラープリンタが必要だろうし、別の会社ではスキャナが故障しちゃったかもしれない。はたまた違う企業ではすでに全部もってるから「必要ありません!」が正解となることだって十分に考えられる。

こんなツッコミが生じるのは、そもそも出題の文言に問題があるのだ。まず「一番」なんて言うから話がややこしくなる。「あなたのオフィスでは何が必要ですか?」でいいじゃん。ま、それでも4つのなかからどれを選んでも正解になんだろうけどさ。

さらに「あなたのオフィスで」っていう条件が問題として無理がある。ケース・バイ・ケースなんだからさ。正解なんてあるようでないのだ。

そんなCMを作るより「我が社のオフィリオはスゲーんだぜ! 何がスゲーって、あれでしょ?これでしょ?…(以下、略)…ほら、スゲーじゃん!」みたいな内容でいいんじゃないの? このCMは印象には残るけれど論理の辻褄が合わないから、見るたびに「なんとかしろよ、これ」と思ってしまう。

そんなワシもエプソン・ユーザーだが、正直オフィリオは欲しい(笑)
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学歴にこだわる老人

2008-02-13 06:23:18 | 脳みその日常
先日行った飲み会でのこと。あるジイさんが「お話をしたいのですが」と近づいてきた。その集まりは年寄りだらけなので、ワシは専ら聞き役。人生の先輩たちからは示唆に富んだ話が聞けるから聞き役は嫌いではない。

ところがそのジイさんは違った。話がひとつ終わるごとに「ひとこと」があったのだ。その「ひとこと」とは要するに学歴に対するコンプレックスみたいなこと。

「まあね、私はアナタと違って工業高校卒ですから…」
「いえいえ、そんなことはここでは関係ないですよ。楽しく呑みましょうよ」

言うまでもないが、このジイさんはすでに70を越えている。年金生活の人が今更学歴コンプレックスをもつ必要はないと思うのだが。しかし、その「ひとこと」には続きがある。サラリーマン時代に高卒ということで嫌な経験をしたので、定年後に通信教育で学士の資格を取ったのだとか。ということは、この人、学歴としては大卒ではないか。

なのに、なぜ今もなお「自分は高卒ですから」などと言うのだろう。通信制で大学を出ることはフツーに大学を卒業するよりも精神的な意味で大変と聞いたことがある。となれば、むしろ胸を張って「大卒です」と言ってもいいのに…。不思議な人だなあと思いながら何度も「ひとこと」を聞いていた。

そのうち、あることに気づく。どんな学歴であろうとそれにコンプレックスを感じていない人は、そもそも進んで自らの学歴のことなど言わんよな、と。若い頃なら権威主義の人間だと自分の出身校をさり気なく出して自慢する奴もいるだろう。

でも、現役を退いたら学歴なんてクソの役にも立たない。周囲だって、ある人がどんなに素晴らしい学歴をもっていようが、その人をひとりの年寄りとしか見ない。だからイイ歳をして学歴云々の話をするのは無意味なのだ。そんなことはこのジイさんだってわかってるだろうに。

それでも他人に話すのはどういうことなのか。推測するに、この人はある種のナルシストなのだろう。「自分の歩んで来た人生はこれだけ屈辱的で大変だった。でも自分はそれに負けまいと頑張って努力したのです」と周囲に認めてもらいたいのだと思う。

気持ちはわからなくもない。今の時代と違ってこの人の青春時代の「大学」には良い意味での権威があった。この権威は現在のような単なる看板ではなく、実質が伴っていたのだ。ワシの目からみても当時の大学生の教養は今思い出してもスゴイなあと思う。文系の学生であっても理系の一通りのことは知っていたし、理系の学生だって文学の素養があった(もちろんそうでない学生もいたのだろうけど)。

いずれにしても当時と今とでは大学生が行なう勉強の絶対量は格段に違う。だから当時の社会が高卒と大卒の間に明確なラインをつけたのも頷ける。給料や昇進の差が歴然としていたのには当然である(それが良いか悪いかは別の問題だが)。

そうした時代にあって家の事情から工業高校に進学せざるを得なかったこの人。おそらく社会に出てから筆舌に尽くせぬ辛酸を嘗めたことだろう。現役時代の悔しい思いが定年後の学士取得へのエネルギーになったのは間違いない。

頑張ったことは認めてあげたいし、素晴らしいと思う。でもさ、その苦労と努力は他人に言っちゃあいけないんだよ。それを口にした瞬間、相手は「コイツ、ちいせえ奴だ」と思われちゃうんだよな。「なんでそんなことを今更言うんだ?」と。「ワシは過去のアナタではなく今のアナタを見ているんですよ」と。だから昔話ならともかく、これは言うべきことじゃないのだ。

ケツの青いワシからすれば高齢者は堂々としていて欲しい。頼れる存在であって欲しいと思う。実際には頼りなくたっていい。虚勢でもいいから泰然自若の構えでいてもらいたい。そうでないと年少者からナメられてしまうのだ。

その論からするとワシも他人事ではいられない。若年の後輩たちに笑われないよう今から修行しないとな…。「人のふり見て我がふり直せ」である。
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ちょっと偶然性のドライヴ

2008-02-11 08:48:18 | ドライブ関連


まあ、なんというか、アブノーマルなドライヴをしたくなったわけですよ。目的地を決めて、そこに向かうなんてのはもう飽きてきた。でもドライヴしたい気持ちは消えない。ならばどうするか。そうだ! 新しいドライヴの形を考案すればいいのではないか?

てなわけで、編み出したのは「ちょっと偶然性のドライヴ」。最初の考えでは「思いついた時に思いついた方角に行く」というものだった。おぉ! これぞケージの音楽のように「偶然性」のドライヴになるじゃん。面白そうだな…と始めは思った。

しかしすぐにそれは運転者自身による恣意的なファクターがかなり関与するものと気づく。偶然性にはもっと客観的な要因が必要なのだ。では、運転者の意図しない要因とはなんだろう。そのひとつは他のクルマの存在が挙げられる。他のクルマの挙動はワシにはわからんのだからね。

そこから導かれた方法は次のようなもの。つまり自分の前を走っているクルマがワシの進路を決めるというものだ。その条件としては、

・信号で停止した際、信号が青になったら前走するクルマとは異なる方向に走る。
・信号のない場所で前に走っているクルマに追いついても信号で停止するまでは同じルートをたどる。

こうすれば、進路を変更する時にも余裕を持って行なうことが可能。急な右左折は事故の元だからね。でも、右折するか左折するかの判断はワシに委ねられることになる。そうなるとまたまた恣意的なファクターが関係することになる。うーん、これではイカンな。

そこで、偶然性とはいいながらここではある絶対的なルールを付加することにした。それは、

・前走車が右折する以外、交差点で走り出す際は常に右折する。
・前走車が右折したらワシは直進する(直進できない場合は左折)。
・前走車が存在せず、T字路にさしかかったら右折する(交通標識には従う)。

とまあ、こんな条件で出発したわけです。するとね、想定していなかったことが起こるわけですよ。まず参ったのは何度も同じ道を走るハメになること。そりゃまあそうですわな。単純に右折を三回繰り返せば元の道に戻るんですからね。頭ではわかってるんだけど、ルールを決めた以上守るしかない。でもねえ、何度も五日市街道を走ってごらんなさいよ。いいかげん飽きますから…。

もうひとつ参ったのは、いや、本当に想定外だったのは走っているクルマが少なかったこと。ルール上、これが一番困る。だって前にクルマが走っていることが前提なのだから、クルマがいなけりゃそのままずーっと直進しなくちゃならない。そろそろ曲がりたいなと思ってもルールだから許されない。

こんなことをしていたら、たぶん、いや、絶対に家に戻れないことはわかっていた。なので予め「制限時間」を決めておいたのがせめてもの幸いだ。午前2時半をリミットにして、あとは最短距離で自宅へ。ちなみに最も遠い場所は瑞穂町だった。おおよその軌跡は上のナビの点線で示した通り。これを見ただけでも無意味に走っていることは明白。ワシはブラウン運動の粒子だな、こりゃ。

そんなこんなで意味もなく都下を120キロも走っちまいました。ドライヴをしない人からすれば「なんてバカなことを!」と思うだろう。実はワシも今回走ってみてそう思った。でもね、実際に走ったから思えることであって、走り始める前はワクワク感で一杯だったのですよ。

自己弁護するわけじゃないけど、何事も実際にやってみなけりゃ物事の良し悪しはわからんのです。実際にやってみたからこそ色々なことが身を以て体験できたわけだし。バカなこととわかっていても、それが本当にバカなことなのかを「実証」するのもまた勉強なんじゃないかなと、つくづく思ったわけです。

いつかまた同じことをやるかって? いえいえ、もうしませんよ。今回とは異なる条件でやるかもしれませんけどね。
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手の甲!手の甲!

2008-02-10 18:09:48 | 脳みその日常
こんばんは、俵孝太郎です!

…なんてのをどれだけの人が覚えているんだろうか。いや、それよりも

一週間のご無沙汰でした、玉置宏です!

こちらを知らない人のほうが多いかもしれないねえ。まあ、そんなことはどうでもいいか。

さてさて、本当にご無沙汰しておりましたが再開です。先週も多くの人と会った。そのほとんどが高齢者だけれど。

でも今の高齢者って本当に若い。気持ちも若いし、見た目も若い。ワシが子供の頃に接した高齢者たちはまさしく「老人」という名に相応しかった。その意味からすれば今の高齢者は「老人」ではない。

ただし、ああ、やっぱり老人なんだなあと思ってしまう時もある。考え方が古いとかいうことじゃない。ここでいうのは「見た目」のこと。

ワシが多く接するのは高齢者の女性だ。彼女たちは顔つきこそ若い。素敵な笑顔も持っている。しかし「年寄り」だなと思わざるを得ない場所が実はある。それは「手の甲」。

彼女らは顔の手入れこそ入念にするが、なぜか手の甲に注意を払わない。手の甲ってさ、よほどのオデブさんでない限り肉がつかない場所。実際に若い頃ならば肌にハリがあるから手の甲の肌もピンと張っている。

でも歳を取ると身体全体にハリがなくなるから肉付きのない場所からシワシワになっていく。前述したように手の甲には肉がほとんどない。そうなると手の甲には血管だけが浮き出すようになり、肌はシワシワになる。

顔にはまだ肉がついているから良いけれど、手の甲だけは年齢をごまかせない。ならば、手の甲のケアをすればいいのに思うけれど、多くの女性は顔面のケアばかり注意を向けているように思うのだ。

多くの人がそうだと思うけど、面と向かって話をする時、相手の顔を見るよね? でも無意識のうちに相手の手も見ているんだよな。手にセックス・アピールを感じる人がいたりするのはそういう理由なんだと思う。

いずれにしても、相手は自分の手を見ているのだ。とすれば、化粧ばかりでなく手のケアもすべきなんじゃないかな。特に手の甲をね。でないと、「この人、若いなあ」と思われても手の甲を見られたら「ありゃ、やっぱり老人じゃん」と興ざめされちゃいますよ。特に女性のかたはね。

手の甲、見られてますよ! ご注意あれ。
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ホンダ、敗れる

2008-02-04 16:06:17 | 脳みその日常
クスっと笑ってしまう記事を発見。

世界的に知られるトヨタ自動車の本拠地である愛知県豊田市で市長選挙が行なわれた。見事当選したのは「スズキ」さん。惜しくも敗れたのは「ホンダ」さん。(参照記事

そのうち、「トヨタ」と「スズキ」が合併したりしてね。(んなこたーない)

「ホンダ」も負けるな!(なんでやねん)
「ヒノ」はどーした!(しつこい?)
「スバル」は谷村新司 (オイオイ)
「ミツビシ」は…えーと、えーと。(ないんかい!)
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雪が来ちゃったよ

2008-02-03 11:32:33 | 脳みその日常


昨日、時間とカネをかけて雪を見に行ったのに今日は東京で雪。何も律儀に「お礼参り」に来なくても…。

まあ、せっかく来てくれたので、またもや雪だるまでお出迎え。今回はオプションとして近くのバラの枝を刺して豪勢におもてなし(笑)

それにしても、東京ではちょっと雪が降っているだけなのに報道はまるで一大事のように騒ぐ。確かに交通に支障が出ているのかもしれない。でもあまりに過剰報道だよな。雪国の人たちにしてみれば何てことない降雪量なのに。言ってみればこうした反応は被害者意識みたいなもの。

ちいせぇなぁ、うつわが。
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雪を見に行く

2008-02-02 18:34:57 | ドライブ関連
ちょいと時間が空いたので、先日予告しておいた通り雪を見に行く。出発したのは昨日の夕方。この時期、雪といえば日本海側。ということで関越自動車道に乗り、一路長岡へ。

しかし、関越トンネルを抜けた途端に大雪。チェーン規制のためトンネルを出たところにある土樽PAに強制誘導。夏用タイヤのクルマはここでチェーンを巻くように指示される。もちろんワシはスタッドレスだから、ただ通過するだけ。

通常なら、ここから長岡まではあっという間。でも雪なので、どのクルマも低速そのもの。もっとも、このような場合、制限速度は50km/hだからノロノロも仕方がない。

それにしても地元ナンバーのクルマは平気で飛ばす飛ばす。ワシが100km/hで走っているのに、それを軽く追い越してゆくのだ。すごいねえ。ワシも雪道は苦手じゃないけど、とてもじゃないが競争する気にはならない。かつてこのあたりで苦い思い出があるからさ。それについては改めて書くこともあるだろう。

長岡からは北陸道に合流。当初は雪も止んで「あらら?」と拍子抜け。ところがしばらく走っていたら前方が全く見えないほどのドカ雪。もともと通行量が少ない道路なので「わだち」すら見えない。いや、ない!

そうなると運転は勘に頼るほかはない。これがまた難しいのだ。たぶんここが走行車線だろうなと思っていても、気づけば2車線のド真ん中だったりする。高速道路で名古屋走りできるのはこんな時しかないだろうな(苦笑)雪道のような非常時に車線を跨いで走ってしまうのは、きっと本能的なものだと思う。つまり、端を走れば何かあった場合に危険だぞ!と脳みそが命令を下すのではないか、と。だから思わず道路の真ん中を走ろうとするのだろう。

「うひょ、見えねぇ~」とか言いながら、例の如く米山SAに行く。(写真をクリックすると拡大します)

    


到着したのは午後8時過ぎ。レストランに先客は一組だけ。ガラガラ状態。早速、定番の北海荒海丼を食う。うーん、うまい!でも心なしかメシの量がいつもより少ない。午後9時が閉店だし、もう今日は店を閉めちゃえと思っていた時にオーダーが入ったからなのか、それは知らない。メシを食って外に出てみると、先ほどまで降っていた雪は止んでいた。うーむ、にわか雨ならぬ「にわか雪」だったのか…。

雪が止んだのをいいことに、再びゴキゲンで高速を走る。上越ジャンクションから上信越道に合流。路面に融雪剤を散布するとのことで、新井ハイウェイ・オアシスに強制的に入らされる。

    


路上にこそ雪はないが、相当降ったのは事実。せっかくここまで来たのだから童心に帰ってミニ雪だるまを作る。そしてクルマの屋根に乗せて鑑賞(笑)近くには清掃員のオッチャンたちがいて、「何やってんだ、コイツ」という目で見ていたが、そんなことは気にしなーい。

再び高速に乗って走り始めるや、ケータイにメールが入ったので返信のため次の妙高SAに入る。ひっそりとした雰囲気だが、まだここにも雪が相当残っていた。



おまけの1枚。これは横川SAに駐車していたトレーラー。だいたい、トレーラーにはフツーのトラックに積めないものが積まれる。たとえば、戦車とか鉄道車両などなど。しかしこれは何なんだろうか。ポンプのようにも見えるけれど…。



遊びで雪を見に行くのは楽しい。でも我々が安心して楽しめるのは除雪やら融雪剤散布といった大変な作業をする人たちがいればこそ。雪道を走るとクルマは塩素カルシウム(通称:塩カル)で汚くなるが、彼らを恨むのは筋違い。むしろ感謝しなければなあと思う。
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