安倍晋三首相は、各家庭の「お茶の間の窓口」首相番記者のブラ下がり取材を拒否、早くも限界が見えた
2013年01月11日
◆安倍晋三首相には、心底からガッカリした。それは、首相番記者による、いわゆる「ブラ下がり取材」拒否を決めたというからである。これでは、菅直人元首相と野田佳彦前首相と全く変わらないではないか。何が最大の問題かと言えば、せっかく全国の各家庭との窓口である首相番記者の機能と役割、使命を自ら全面否定することになる。
さらに、首相番記者の矢継ぎ早やの質問に対して、当意即妙に答える能力がないと認定されかねない。悪く言えば、「馬鹿」であることを天下にさらす結果になる。
◆一体だれが、「ブラ下がり取材に応じない方がよい」と進言、助言したのかはわからないけれど、安倍晋三政権誕生早々から、首相番記者の「ブラ下がり取材」を拒否するには、何か、相当、都合が悪いことを質問される可能性が高いと憂慮でもしているのであろうか。これに答えられないと、政権維持が難しくなると恐れているのではないか。そんな疑惑を持たれると、研ごう悪いらしい。
総選挙の投開票結果の結果についての疑惑が最大のものだが、このことを恐れているのではないかと思われている。
(以下リンク参照)
(元毎日新聞記者 板垣英憲 blogosから)
(引用終了)
昨年12月の衆院選で民主党が大敗したのは当然と言って良く、その3年4カ月前に政権交代を成し遂げたものの、まさに絵に書いたような無能、無策で、また売国政権でもあったからである。そのような民主党を礼賛し「今時代は民主党だ」として政権交代を煽ったのは偏向マスコミであったが、多くの国民はそれに騙されてしまったのは残念だとしか言いようがなく、民主党政権で失われた国益は膨大なもので、それを取り戻すには多くの時間がかかるであろう。
このような民主党への不信感が衆院選の結果に現れた訳であり、それは同時に偏向マスコミに対する国民の怒りであったのではなかろうか。いくら偏向マスコミが民主党政権を擁護しても、前述したように無能、無策で、また売国政権であることが嫌でも国民の認識するところとなり、だから偏向マスコミが持ち上げる政党は支持しない方が良いとし、反対に批判を浴びている安倍自民党が支持された訳で、何でも偏向マスコミの言っていることの反対にやれば間違いないとまで言われるようになったのだから、その存在価値が失われつつあると言っても過言ではない。
今や偏向マスコミの連中が取材をしていると、国民から罵声を浴びせられるような良い時代となったのは正に自業自得であり、かっては飛ぶ鳥を落とすような勢いがあったのだが、事実を伝えるという使命を放棄しているようでは、 国民の不信感はますます高まるであろう。
ネットの普及によって、偏向マスコミによる世論誘導が効を奏さなくなったのは当然のことで、気にくわない特定の政治家を批判するのが社是になっている新聞社もあるとなれば、政党や政治家をどのように評価するかについて広く国民に開かれている言論機関はネットしかない訳で、だから安倍総理がfacebookを活用して情報を発信しているのは正解である。
元毎日新聞記者である板垣英憲氏のblogoに、安倍総理が番記者による、いわゆる「ブラ下がり取材」拒否していることについて「何が最大の問題かと言えば、せっかく全国の各家庭との窓口である首相番記者の機能と役割、使命を自ら全面否定することになる。」「失言を恐れるようでは、安倍晋三政権の前途は決して明るくはない。早くも限界が見えている。長期政権とはいかないであろう」との安倍総理を批判する記事が掲載されている。
現役記者でなく元記者に安倍総理を批判させているのはさすが毎日新聞でああり、安倍総理がブラ下がり取材を拒否しているのは何ら批判すべきことではなく、正解だと思っており、事実を正しく伝えるという使命を放棄している偏向マスコミには全国の各家庭との窓口にはなる資格はないし、偏向マスコミと言われているように、今まで偏向フィルターを通した情報を国民に伝えて、世論を操作して騙していた訳で、そのような手口を安倍総理は知っているから、ブラ下がり取材に応じても何のメリットもないと判断したのであろう。
ブラ下がり取材とは偏向マスコミの記者連中が、総理の失言を誘い出すために、レベルの低い質問を繰り返すことであり、まして報道するのは失言だけとなれば、それが失言と言えるものかどうか国民は経緯を知ることとも出来ない訳である。
国民は偏向マスコミ経由で伝わる情報よりも、安倍総理から直接発信される情報の方が信用出来ると思っており、ネットの普及によって一個人が、直接自分の意見を自由に言える時代になったにも関わらず、自分たちの都合の良いように偏向、捏造した報道放送をしている媒体を通す必要性はないし、「新聞で育つ世論が政治を正す」とまで言われて思い上がっていた偏向マスコミだが、ようやく黄昏時を迎えたことは喜ばしいことである。
(2013/01/13)