武蔵の生誕地にこだわっています。
きょうは、高砂を少し離れ、手向山の武蔵顕彰碑により、高砂生誕地説を確かめましょう。
手向山(北九州市小倉区)の武蔵顕彰碑を読む
写真は、北九州市小倉区手向山(たむけやま)にある「宮本武蔵顕彰碑」です。
この碑は、武蔵の死後9年目の承応3年(1654)伊織が建てたもので、碑文には「兵法天下無雙 播州赤松末流 新免武蔵玄信二天居士碑」とあります。
新免武蔵は、播磨の赤松氏の子孫で、二天と号したというのです。
この碑文には、武蔵が父・新免無二から十手術を学んだこと、13歳の時、有馬喜兵衛と初めて試合をして勝ったこと、佐々木巌流(小次郎のこと)と船島で対戦したこと、など生涯の戦いを記録しています。
最後に、伊織は、武蔵の偉業を後世に伝えるために、この碑を立てたと結んでいます。
やはり、武蔵は高砂生まれ
この碑を建立した時、伊織は43歳で、すでに2,500石の小倉藩の家老でした。
文は、武蔵と親しかった泰勝寺の住職・春山和尚が書いています。
明治20(1887)に手向山の宮本家の墓地にあったのですが、陸軍の砲台が造られることになって現在地に移されたといいます。
この碑の横には「佐々木小次郎の碑」もあります。これは、作家の村上元三が小次郎に同情して建てたといわれています。
宮本武蔵の生誕地については、これまで、さまざまにいわれてきました。
が、史科を素直に読むと、播磨の米堕(米田)村生まれであり、美作の宮本村に養子にいったとするのが正しいようです。
武蔵の伝承や足跡を繋げてみると、「武蔵は間違いなく播州・米田の人である」と、いえそうです。(no4685)
*『Ban Cul(2003冬号)』の橘川真一「武蔵の実像」参照
*写真:手向山の宮本武蔵顕彰碑