ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

宮本武蔵 in 高砂(12) 手向山(北九州市小倉区)の武蔵顕彰碑を読む

2019-07-03 07:12:51 | 宮本武蔵 in 高砂市(米田町)

 武蔵の生誕地にこだわっています。

 きょうは、高砂を少し離れ、手向山の武蔵顕彰碑により、高砂生誕地説を確かめましょう。

   手向山(北九州市小倉区)の武蔵顕彰碑を読む

 写真は、北九州市小倉区手向山(たむけやま)にある「宮本武蔵顕彰碑」です。

 この碑は、武蔵の死後9年目の承応3年(1654)伊織が建てたもので、碑文には「兵法天下無雙 播州赤松末流 新免武蔵玄信二天居士碑」とあります。

 新免武蔵は、播磨の赤松氏の子孫で、二天と号したというのです。

 この碑文には、武蔵が父・新免無二から十手術を学んだこと、13歳の時、有馬喜兵衛と初めて試合をして勝ったこと、佐々木巌流(小次郎のこと)と船島で対戦したこと、など生涯の戦いを記録しています。

 最後に、伊織は、武蔵の偉業を後世に伝えるために、この碑を立てたと結んでいます。

    やはり、武蔵は高砂生まれ

 この碑を建立した時、伊織は43歳で、すでに2,500石の小倉藩の家老でした。

 文は、武蔵と親しかった泰勝寺の住職・春山和尚が書いています。

 明治20(1887)に手向山の宮本家の墓地にあったのですが、陸軍の砲台が造られることになって現在地に移されたといいます。

 この碑の横には「佐々木小次郎の碑」もあります。これは、作家の村上元三が小次郎に同情して建てたといわれています。

 宮本武蔵の生誕地については、これまで、さまざまにいわれてきました。

 が、史科を素直に読むと、播磨の米堕(米田)村生まれであり、美作の宮本村に養子にいったとするのが正しいようです。

 武蔵の伝承や足跡を繋げてみると、「武蔵は間違いなく播州・米田の人である」と、いえそうです。(no4685)

*『Ban Cul(2003冬号)』の橘川真一「武蔵の実像」参照

  *写真:手向山の宮本武蔵顕彰碑

 

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