観月碑
米田村の風景は、武蔵の時代と風景は、ずいぶん変わってしまいました。
が、観月碑から当時の風景を偲んでみましょう。
江戸時代、米田本村と米田新村(米新村)の間に、月見の名所といわれ俳諧を楽しむ人々で賑わった堤防も、洗川の流れの変更にともなって消えてしまった。
これら周辺にあった石造物は米田橋西の路傍に集められています。
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「観月碑」は、幕末の頃、俳諧仲間の集いや往来の人々の休憩所として活用された“観月亭”と伝えられるところに建てられた句碑・歌碑です。
観月亭は、文化年間(1804-1817)に、砂部村の俳人・喜多順庵が、米田村神宮寺の住職(栗本玉屑)や松岡青蘿と相談し、加古川の川面に月が映える景勝地に建てたと言われます。
場所は、加古川の旧流・洗川の堤に建てられたのですが、現在の「観月碑」はこの場所から移転されています。
なお、碑には俳諧八句、和歌二首が刻まれていますが、現在では文字が磨耗し消えかかっています。
そのうち、次の二句が判読できます。
大空に さはるものなき 新月の不二
雨はれの 若葉に散るや 月の影
川面に映された月の澄明な姿が目に浮かぶようです。
高砂は、月を愛でたり、浜や浜の松の風景に包まれた別天地でした。
高砂からそんな風景が消えて久しくなりました。あまりにも大きな財産を失いました。(no4695)
*写真:観月碑(米田橋西の路傍の騒音の中にひっそりとあります)