宮本伊織奉納の棟札
棟札に武蔵の出自を書く
すでに紹介した吉川英治の小説『宮本武蔵』は、大好評をはくしました。
吉川英治は、武蔵の生誕地を「作州大原(岡山県)」として物語を展開しています。
そのため、武蔵は作州人だと信じられてしまいました。
近年、この説に異議が唱えられています。
「宮本武蔵は高砂市米田町生まれである」とする説です。
その根拠になったのは、泊神社(加古川市加古川町木村)の宮本伊織(武蔵の養子)が奉じた棟札(写真)の発見です。
棟札について、少し説明を加えながら紹介します。・・・・武蔵は赤松一族の出身です。
武蔵誕生は、250年ほど前のことです。
赤松持貞は、こともあろうか将軍の側室に手をだしてしまいました。
持貞は切腹を命じられ、嫡男の家貞等一族は、印南郡の米田に追放になりました。
そして、姓も田原に変え、地侍として勢力を伸ばしたのです。
そして、家貞から五代目に名前も同じ家貞の時、二人の男子がいました。その弟の武蔵玄信は、作州・新免(しんめん)氏の養子になったのです。
新免氏は、後に宮本と名を変えた。宮本武蔵の誕生です。
武蔵にも子どもがなかったので、伊織を養子としました。
武蔵は、明石藩の小笠原に仕えていたが、豊前の小倉に移ったので伊織もそれに従った。伊織15歳の時でした。
伊織は、小倉藩で家老にまでのぼりつめました。
武蔵の死後8年目の承応二年(1653)、伊織は武蔵の出身地・米田の氏神である泊神社の老朽化がひどく、田原家の祖先供養のために社殿を新しくしたのです。
1961年、同神社が屋根の修復工事をした際に、その時の棟札がみつかりました。武蔵の出自を書いています。
武蔵の生誕地「播磨の国・米田説」は、俄然説得力を持ってきました。
伊織は泊神社と同じ棟札を米田天神社に収めたとされていますが、現在は失われて残っていません。(no4689)
*写真:伊織奉納の棟札(泊神社)。