武蔵の決闘(1) 最初の決闘
武蔵は、『五輪書』に、生涯「60年ほど勝負(決闘)するとも、一度も負けたことはない」、と誇っています。
ここで、武蔵の決闘を2、3を見ておきます。
今回は、武蔵の最初の決闘です。
下記は武蔵の年譜の一部です。
1584年 武蔵米田に誕生
1588年 このころ田原家から新免家
(作州大原)に養子に行く
1595年 初めて、剣客と試合をして勝つ
有馬喜兵衛との決闘(『佐用郡誌』より)
初めての決闘は、武蔵の言葉によれば1595年に13才の時でした。
闘いのあらましは、有馬喜兵衛の他流試合を誘う挑発的な高札に、武蔵が「明日、試合を受けて立つ」と墨書して立ち去りました。
武蔵は、相当の悪ガキであったようです。
武蔵を預かっていた寺の住職がそれを知り、驚き慌てて「子どものいたずら」と有馬側に詫びを入れました。
有馬側は、納得しましたが、当の武蔵が意に介せず棒で打ちかかり、なんなく勝ちを得てしまったというのです。
一般の伝承では、有馬喜兵衛は、諸国を綿有する武芸者としていますが、『佐用郡誌』は、次のように描いています。
・・・「(佐用郡の)平福に賭博(とばく)をもっぱらにし、暴行をふるう有馬喜兵衛なる者がいました。
喜兵衛は、武芸はできたのですが暴れ者で、村内の平和を破り、村人から蛇蜴(だかつ)の如く嫌はれていました。武蔵は幼かったがこれを憎み、しばしば口論となりました。
そのため、喜兵衛と立会い、一刀のもとに伐り伏せ、そのまま行方をくらましてしまいました。この時、武蔵は13歳でした。
この決闘は、様々に語り継がれており、はっきりしたことは分かりません。
きょうは、『佐用郡誌』からの決闘を紹介でした。(no4698)
*写真:武蔵と喜兵衛との決闘の場(兵庫県作用市平福)