武蔵の町割り(明石城)
元和3年(1617)11月、幕府は小笠原忠真に命じて瀬戸内海の要所の明石城を築かせました。
明石城は、姫路城主本多忠政にも協力させて築かせた城です。
その明石城の築城に当たり武蔵が町割りを行ったと伝えられています。
数年後に書かれた明石の町年寄の記録には、「・・・元和四年、小笠原忠真様御家士、宮本武蔵といふ人、町割す」とあります。
武蔵が小笠原の家士というのは誤っていますが、武蔵が町割りをしたことは、 『明石記」や『播磨鑑』等々にも見られるので、何らかの形で町割りに加わったのは事実であろうと思われます。
城下の町割りをする者には、軍略的知識のみならず、当地の地形、地勢、地誌を熟知し、その地の有力者と交渉する力も必要となります。
ところが、本多家(姫路城主)も小笠原家も播磨の地に移封してきたばかりでした。
当時三十代半ばの武蔵は、生国であるこの地の地理に明るく、武芸者として諸国を歩いてきたので城下町についての知識も豊富です。
そして、実家の田原家(現:高砂市米田町)の関係から、この地の有力者とのつながりもあったでしょう。
武蔵は、三木城を壊し、新たに本格的な城下町を明石に営むにあたって重要な役目を果たしたのであろうと思われます。
正式な役職としては藩の町割り奉行がいたはずであるが、実際には武蔵の働きによるところが大きかったと想像されます。
町割りに関わったのが事実だとすれば、武蔵は一武芸者というだけでなく、藩の重要事に助力するだけの信用を得ており、それだけの実力を持っていたことになります。(no4706)
*図:正保城絵図「播磨国明石城絵図」正保2年・1645。国立文書館蔵
*『宮本武蔵(魚住孝至著)』(岩波新書参照)