ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

宮本武蔵 in 高砂(15) 泊神社(加古川町木村)

2019-07-06 14:32:04 | 宮本武蔵 in 高砂市(米田町)

 伊織奉納の「泊神社の棟札」説明の前に、泊神社の説明をもうすこしておきましょう。

    泊神社(木村神社)

   『播磨鑑』の記述に「泊神社には4人の神官がおり、真言宗に属した神宮寺の僧と神人(みこ)一人がいた」とあります。

 かなりの大社であったようです。

 *神宮寺・・・神仏混交の考え方で、神社に奉仕するために建てられた寺。

 泊神社の氏子に注目します。

 泊神社の氏子は地元の木村・稲屋・友沢・西河原・加古川の五ヵ村が祭礼の世話をするが、さらに塩市・米田新・古新・米田村、そして米田村など加古川右岸(西側)一帯に広がっていました。

 前号で紹介したように、木村・稲屋・友沢・西河原・加古川の村々は、明治22年まで印南郡に属していました。泊神社(木村)は、もともと加古川の西岸(西岸)にあった集落でした。

 「泊」は港(水門・みなと)を意味します。

 『日本書紀』に「鹿子の水門(かこのみなと)」が加古川の河口部にあったと記しています。

 研究者は、「鹿子の水門」は、現在の稲屋(加古川市加古川町稲屋)辺りで、当時奈良時代(奈良時代)は、このあたりまで海が迫っていたと推定しています。

 泊神社は地域の氏神であり、古代の港(水門)の守護神であったと考えられます。

 さらに、『加古川市史(第一巻)』は、「・・・紀伊の国懸(くにかかす)大神を勧請したり、境内社に熊野神社・住吉神社・島姫神などを祀っていることからも、当社が熊野衆、その他海賊たちと深い関わりを持っていたことが暗示していると思われる」と記しています。

 松林、港そして神社の風景が目に浮かびます。泊神社は潮風のにあう神社でした。(no4688)

*写真:現在の泊神社

*『加古川市史(第一巻)』参照。

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