このあたりでひと休みして、もう少し武蔵の故郷米田(高砂市米田町)を歩いてみましょう。
米田に武蔵の影を捜してみます。
米田天神社は子供の頃の武蔵の、絶好の遊び場であったのでしょう。
米田天神社
(米田)天神社は、米田(「武蔵・伊織の里」)の中心にあります。
先に説明した加古川を挟んで隣接する泊神社(加古川市加古川町木村)の末社です。
泊神社は、加古川東岸の木村、加古川などのほか、同西岸の今市、中島、そして米田など合わせて17か村の氏神で、末社が米田にあり、それが米田天神社です。
江戸の初期、17世紀半ばには泊神の本社、末社とも随分荒れ果てていました。
武蔵の養子・伊織が、その荒廃を憂えて、承応二年(1653)、泊神社を再建し、同時にその旧杜殿を移転ずる形で天神杜の再建も行っています。
伊織にしてみれば、養父と自分の出生地である米田の鎮守とその本杜の荒れた姿を見るに忍びなかったのでしょう。
武蔵は、出世もしていました。そのため、社殿の寄進を行っています。
天神社には、伊織の弟の小原玄昌が寄進した三十六歌仙額や、田原家一族の大山久太郎の寄進の石燈籠のほか、能舞台も残っています。(no4691)
*『BanCul 2003冬号』(神戸新聞総合出版センター)参照
*写真上:米田天神社、写真下:田原一族の寄進の石燈籠