武蔵の生年
宮本武蔵は、天正12年158(1584)生まれというのが通説です。
生年をこの年とするのは、『五輪書』の冒頭に「年つもって六十」と書いてあるので、武蔵が筆を起こした寛永20年(1643)を60歳とし、数え年で逆算して割り出したものです。
これに対し、武蔵の養子である宮本伊織の直系に伝わる「宮本家系図」は、武蔵の没年を「天正10年生、享年64」と明記しています。
武蔵の父である家貞の没年については、天正八年の播磨合戦(後述)の時の籠城者リスト(『図説三木戦記』「東西両軍将士名録」)の中に「田原甚右衛門家貞」の名があることが発見されたことから、父はこの時点までは生きていたらしいのです。
復習です。
伊織は、田原家の始祖は播磨の名門赤松氏一族である持貞で、応永年中に米堕(米田)村にあり、田原に改称しました。
持貞は実際には将軍の側室との密通嫌疑で切腹し、「赤松系図」では、その子家貞で絶家となっています。
「宮本家系図」では、持貞の孫と曾孫の二代、つまり伊織の曾祖父から上の二代を「某」とし不明とするので、田原家が本当に持貞の末裔であるかは疑わしいとされていました。
というのは、江戸初期には、新興の武士が先祖は由緒ある名家だと系図を作為することは、よくあったことなので、その類かもしれないされました。
けれども三木城戦の籠城者の名簿に田原家貞の名があることから、田原家は、武蔵が生まれる直前の天正6年(1585)から8年にかけての播磨合戦で敗れた家であることは確かめられました。
家貞の子・久光の妻で伊織の母となったのは、「摂州有馬郡小原城主 上野守源信利」の娘ですから、播磨の地でそれなりに有力な家であったのでしょう。(no4690)
*『宮本武蔵(魚住孝至著)』(岩波新書)参照
*写真:『宮本武蔵(魚住孝至著)』(岩波新書)