宮本造酒之助(三木之助)
武蔵は、伊織の他に養子をとっています。造酒之助(みきのすけ)です。
姫路藩主となった本多忠政の嫡男、本多忠刻(ただとき)は剣術を好み、宮本武蔵を七百石で召し抱え、自ら流儀を学び、家士にも学ばせたが、武蔵が暇を申し出たので、武蔵のもう一人の養子造酒之助(三木之助)を取り立て、忠刻は造酒之助から神明二刀滞の奥義を授けられたといいます。
この辺りの状況を、小説ですが『双剣の客人(寺林峻著)』を読んでみます。
造酒之助(三木之助)の殉死
寛永三年(1626)初夏、三木之助(『双剣の客人』では、三木之助を使っています)が剣の指南をしていた本多忠刻が病死したのである。
二年ほど前から忠刻は病がちになって剣の修練どころでなくなったので、三木之助は本多家から暇をもらって江戸へ出ていた。
そこで、忠刻の死を知ると急ぎ姫路へ帰る途中、大坂にいた武蔵の仮寓先を訪ねてきた。
武土の習いにそって殉死したいと三木之助がいうのを、武蔵はしきりに引き留める。
すでに臣従の絆は断っていることだし、剣に生きる者が24歳にしてわが命を断つるは、天命にもとる。
そんな説得が効いてもう一度剣の道を歩もうとなり、とりあえず香を手向ければすぐに帰ってきますと西(江戸)へ向かった。
ところが。風に乗って届いたのは三本之助の殉死だったのである。
急ぎ播磨へ帰り、書写山へ詣でて三木之助の霊に香を捧げる。
珍しく人の気配のない午(ひる)下がりで、静寂に締めつけられながら武蔵は両の拳でしばらく膝を打ち続けた。(以上『双刀の客人』より)
造酒之助の墓は、書写山円教寺の藩主忠政、忠刻等が眠る本多家廟の一角にあります。(no4704)
*「双剣の客人(寺林峻著)」参照
*写真:姫路城主、本多家の廟所(書写山円教寺:造酒之助は本多家の廟に眠っていま)