ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

宮本武蔵 in 高砂(24) 独行道の碑

2019-07-16 09:27:10 | 宮本武蔵 in 高砂市(米田町)

 

          独行道の碑

 「五輪書」を書き終えたとき、武蔵は死を覚悟していました。

 洞窟(霊巌洞)に引きこもったまま、最後を迎えるつもりでした。

 武蔵のガンは進行していました。

 いかに、武蔵の意志であるとはいえ、周囲の者は放置できません。

 ようやく、鷹狩と称して胴窟を訪れた旧知の盟友が、帰宅を促し、居宅に連れ戻しました。

 正保二年(1645)、春も暮れようとするころでした。

 その年の五月、武蔵は身辺整理を始めました。

 高弟の寺尾孫之に「五輪書」を、その弟・求馬助信行には「兵法三十五箇条」を与えました。

 求馬助は、師の最後をみとるべく、側に付き添っていました。

 その求馬助に、武蔵は筆を所望し、流麗な筆致で、一紙に以下、21ヵ条を書きました。

 武蔵が自分の短所を克服するために自戒の事柄だといわれています。

米田天神社の近くの「武蔵生誕地碑」がある同じ敷地に、「独行道の碑」(写真)あります。読んでおきましょう。

     独行道

   一、世々の道をそむく事なし

  一、身にたのしみをたくまず
  一、よろづに依怙(えこ)の心なし
  一、身をあさく思い、世をふかく思ふ
  一、一生の間よくしん(欲心)思わず
  一、我事におゐて、後悔をせず
  一、善惡に他をねたむ心なし
  一、いつれの道にも、わかれをかなしまず
  一、自他共に、うらみかこつ心なし
  一、れんぼ(恋慕)の道思ひ、よるこゝろなし
  一、物毎(ごと)にすきこのむ事なし
  一、私宅におゐて、のぞむ心なし
  一、身ひとつに美食をこのまず
  一、末々代物(しろもの)なる古き道具を所持せす
  一、わが身にいたり、物いみする事なし
  一、兵具は各別、よ(余)の道具たしなまず
  一、道におゐては、死をいとわず思ふ
  一、老身に財宝所領もちゆる心なし
  一、佛神は貴し、佛神をたのまず
  一、身を捨ても名利(みょうり)は捨てず
  一、常に兵法の道をはなれず
    正保弐年(1645 )
        五月十二日 新免武藏

  まさに、武蔵の人生観(独行道)でした。(no4697)

 *『Ban Cul』(2003冬号)参照

 *写真:「独行道の碑」(米田天神社前の「武蔵生誕碑」のそば)

 

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宮本武蔵 in 高砂(23) 桶居山の伝承

2019-07-15 08:23:19 | 宮本武蔵 in 高砂市(米田町)

     

     桶居山の伝承 

 旧山陽道を少し西へゆきましょう。姫路市別所町佐土新に桶居山がそびえています。

 桶居山(写真)は、姫路市と高砂市との境に位置する山で、標高は247.6㍍の山塊です。

 山名は、岩が大きな升の形をして見えることからつけられたようです。

 宝暦12年(1762)の頃に成立したとされる『播磨鑑(はりまかがみ)』には、桶居山の項目に「宮本武蔵修業説」が紹介されています。

 桶居山で武蔵が天狗に兵法を習ったというのは創作でしょうが、山塊の形相はそんな雰囲気を醸し出しています。

 『播磨鑑』にこの話があるということは、地元では宮本武蔵高砂説が当然のごとく広がっていたようです。

 桶居山へ出かけました。暑い日でした。桶居山は心なしか白くかすんで見えるほどでした。

 『双剣の客人』で寺林峻氏は、桶居山の宮本武蔵修業説を取り入れ、次のように書いておられます。(少し書き変えています)

         武蔵、蜘蛛となる

 桶居山は離れて見るとまるい感じでしかないが、山頂付近の岩盤は急傾斜で、しかも手がかりの突起が少ない。そこで先に天狗遊びを始めたのはやはり外で活発な玄信(後の武蔵)だった。

 膝に弾みをつけて身の丈ほどの平地へ飛び降りたかと思うと、さらに足場を慎重に見つけながら下っていく。

 弟を気づかって到着点で待ち受けてやろうと久光(武蔵の兄)は急いで下りにかかるが、ついからだを岩壁にくっつけて下るので、なかなか玄信を追い越せない。

 一つの岩場がつきると、高御位山に続く岩壁へ向かい、二人は先になり後になりしながら二匹の蜘昧となる。

 ・・・幼い玄信にとって、これは天狗遊びでなく武人となるための鍛練なのだった。

 桶居山に限らず、家から近い生石神社の山、播磨灘の全容を見渡せる竜山、どの山も人の挑戦を誘うように険しい岩壁をさらしている。

 玄信は、そこを鍛練の道場としていた。(no4696)

 *『双剣の客人(寺林峻著)』(アールズ出版)引用

 *写真:桶居山の岩場(姫路市別所町佐土新)、伝承ですが、武蔵はこの山で天狗から兵法を習ったという。

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宮本武蔵 in 高砂(22) 観月碑

2019-07-14 08:46:56 | 宮本武蔵 in 高砂市(米田町)

       観月碑

 米田村の風景は、武蔵の時代と風景は、ずいぶん変わってしまいました。

が、観月碑から当時の風景を偲んでみましょう。

 江戸時代、米田本村と米田新村(米新村)の間に、月見の名所といわれ俳諧を楽しむ人々で賑わった堤防も、洗川の流れの変更にともなって消えてしまった。

 これら周辺にあった石造物は米田橋西の路傍に集められています。

  ・・・

 「観月碑」は、幕末の頃、俳諧仲間の集いや往来の人々の休憩所として活用された“観月亭”と伝えられるところに建てられた句碑・歌碑です。
 観月亭は、文化年間(1804-1817)に、砂部村の俳人・喜多順庵が、米田村神宮寺の住職(栗本玉屑)や松岡青蘿と相談し、加古川の川面に月が映える景勝地に建てたと言われます。

 場所は、加古川の旧流・洗川の堤に建てられたのですが、現在の「観月碑」はこの場所から移転されています。
 なお、碑には俳諧八句、和歌二首が刻まれていますが、現在では文字が磨耗し消えかかっています。

 そのうち、次の二句が判読できます。

 

    大空に さはるものなき 新月の不二

    雨はれの 若葉に散るや 月の影

 

 川面に映された月の澄明な姿が目に浮かぶようです。

 高砂は、月を愛でたり、浜や浜の松の風景に包まれた別天地でした。

 高砂からそんな風景が消えて久しくなりました。あまりにも大きな財産を失いました。(no4695)

 *写真:観月碑(米田橋西の路傍の騒音の中にひっそりとあります) 

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宮本武蔵 in 高砂(21) 五輪之庭

2019-07-13 09:17:53 | 宮本武蔵 in 高砂市(米田町)

 

     

       五輪之庭

 仏教では「私たちの住む世界の全ての物質と現象は、五つの元素(空気・風・火・水・土=地)の組み合わせにより成り立っている」としています。五輪塔は、「地・水・火・風・空」の世界(当時の宇宙観)をかたどったものです。

 『五輪書』は、宮本武蔵が著した一書ですが、たんなる武術の指南書や奥義書ではありません。

 人間の真実、人生の真実をも解きあかした思想書といわれます。

 その概要は、「地之巻」では兵法をあらわし、「水之巻」では二天一流の太刀筋、「火之巻」では戦いの理を、「風之巻」には他流の批判を述べ、「空之巻」は結論となっており、ここに表れている武蔵の思想には、他の兵法者(書)とは著しく異なっています。

 そこで、米田町西光寺の庭に「五輪之庭」をテーマにした作庭が試みられました。

 仏教でいう五輪にちなみ、かつ武蔵の著した『五輪書』の趣旨を生かした作庭となっています。

 ここからでてくるのは、「文武両道」の思想であり、これはまた人生の指針でもあるといえます。

       余話:山本富士子の祖先話   

  武蔵と関係のない余話です。

 年配の方であればどなたでもご存知の大スターです。

 山本富士子さん(1931年生まれ)は、1950の第1回ミス日本(700人近い応募者があった)において、満場一致でミス日本に選ばれました。

  彼女は、日本を代表する美人で、その後映画全盛の時代大活躍した大スターです。
 山本富士子さんの山本家が、代々米田に居住されており、富士子さんの祖父に当たる故山本重蔵氏らの墓碑、寄進物や、母、故山本勝代様の寄進物、叔父、故山本健次郎氏の寄進碑などが西光寺にあります。(no4694)

 *写真:「西光寺の五輪之庭」。西光寺は鎌倉中期(1275年)の開創の浄土宗の寺で、武蔵の菩提寺と言われています。

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宮本武蔵 in 高砂(20) 神宮寺

2019-07-12 10:15:09 | 宮本武蔵 in 高砂市(米田町)

     神宮寺(じんぐうじ)

 神宮寺は米田天神社に隣接する米田第一公民館の東隣にある寺院です。

 神仏混淆のあらわれとして、もとは米田天神社の付属寺院でしたが、明治以降の神仏分離によって独立しました。

 宮本伊織は、天神杜、神宮寺ともども崇敬しており、天神社修復の時に、「三十六歌仙額」等を寄進しました。

      伊織、神宮寺に鰐口(わにぐち)を寄進

 神宮寺には別に鰐口(写真)を寄進しています。

 鰐口は、参詣の際に本殿前で綱を振り動かして打ち鳴らします。

 お賽銭等をする前に「がらん・がらん」と鳴らすのでおなじみの音響具です。

 寄進された鰐口は、三重の円が刻まれており、その外円に「正保三年(1646)」「宮本伊織藤原朝臣貞次敬白の銘があります。

 鰐口を寄進することでねんごろな供養ができるとされますが、伊織が、銘文どおり正保三年(1646)にこれを寄進したのであれば、三十六歌仙額の寄進に先立つ7年前のことで、修復とは関係ないでしょうが、その年は、武蔵か亡くなった翌年に当たることから、きっと養父・武蔵の一周忌供養のための寄進したのでしょう。

     蛇足:玉屑

 江戸時代の後期には、俳諧の玉屑(ぎょくせつ)が住職を務めた寺院としても知られています。

 玉屑(ぎょくせつ)については後に紹介します。(no4693)

 *『Ban Cul』(2003・冬号)参照

 *写真上:(米田)神宮寺と伊織寄進の鰐口(『25周年記念、武蔵・伊織まつり』より)


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谷五郎さん、『加古川さんぽ』をバンバンラジオで紹介

2019-07-11 08:39:54 |  ・コーヒーブレイク・余話

    谷五郎さん、『加古川さんぽ』をバンバンラジオで紹介

 先週、バンバンラジオで谷五郎さんとお話しください。という電話がありました。

 おそるおそるOKしましたが、こんな経験はないので少し心配でした。

 きのう(10日)、5時からバンバンラジオ『はりま~るラジオ』の録音がありました。

 進行は、谷五郎さんと竹内明美さんです。

 私は、歯が抜けて発音がはっきりせずドキドキしていたんですが、お二人はさすがプロですね気持ち良い雰囲気を作っていただき、何とか終わりました。

 内容は、先日出版した『加古川さんぽ』と「加古川の歴史」についてでした。

 番組名は、「谷五郎のはりまーるラジオ」で、番組名・放送日・放送時間は下記のようです。

 

      7月18日(木)、19:00~20日(土) 9:00~

   

  エフエムみっきぃ

      7月19日(金)13:00~・21:00~

        20日(土)12:30~

お時間がありましたらお聞きください。

(写真:左、谷五郎さん。右、竹内明美さん、そして中央が私です。バンバンのスタジオにて)(no4692)

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宮本武蔵 in 高砂(19) 米田天神社

2019-07-10 08:55:39 | 宮本武蔵 in 高砂市(米田町)

 このあたりでひと休みして、もう少し武蔵の故郷米田(高砂市米田町)を歩いてみましょう。

 米田に武蔵の影を捜してみます。

 米田天神社は子供の頃の武蔵の、絶好の遊び場であったのでしょう。

      米田天神社 

 (米田)天神社は、米田(「武蔵・伊織の里」)の中心にあります。

 先に説明した加古川を挟んで隣接する泊神社(加古川市加古川町木村)の末社です。

 泊神社は、加古川東岸の木村、加古川などのほか、同西岸の今市、中島、そして米田など合わせて17か村の氏神で、末社が米田にあり、それが米田天神社です。

 江戸の初期、17世紀半ばには泊神の本社、末社とも随分荒れ果てていました。

 武蔵の養子・伊織が、その荒廃を憂えて、承応二年(1653)、泊神社を再建し、同時にその旧杜殿を移転ずる形で天神杜の再建も行っています。

 伊織にしてみれば、養父と自分の出生地である米田の鎮守とその本杜の荒れた姿を見るに忍びなかったのでしょう。

 武蔵は、出世もしていました。そのため、社殿の寄進を行っています。

 天神社には、伊織の弟の小原玄昌が寄進した三十六歌仙額や、田原家一族の大山久太郎の寄進の石燈籠のほか、能舞台も残っています。(no4691)

 *『BanCul 2003冬号』(神戸新聞総合出版センター)参照

 *写真上:米田天神社、写真下:田原一族の寄進の石燈籠

 

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宮本武蔵 in 高砂(18) 武蔵の生きた時代

2019-07-09 10:21:29 | 宮本武蔵 in 高砂市(米田町)

      武蔵の生きた時代

 伊織・武蔵は、出自を明名言していません。播磨関係の他の資料でも確認できません。この他に材料はないので、伊織の直系の伝承に従って、武蔵が系図の通り田原家貞の次男であることにしておきます。

 こう見る方が、後述するように当時の時代背景にも合っており、自然なためです。

 播磨では、武蔵が生まれる直前の天正6年(1278)から8年にかけて、中央から進出してきた織田信長方と中国の雄・毛利方とに分かれた合戦が行われ、信長から派遺された羽柴秀吉の軍と戦って敗れた武士が数多くいました。

 織田方は次の安芸(あき)を本拠とする毛利家との決戦を控えていたため、播磨では他の地でのような鞍滅(せんめつ)・掃討を行わなかったのでしょう。

 敗れてもそのままその地の土豪として残った武士が多くいました。

 田原家も、その一つであったと思われます。

 戦った相手の秀吉は、わずか二年後の本能寺の変の後、信長に取って替わり、さらに八年後の天正八年(1590)には全国を統一して天下人になります。

 また、姫路にいた黒田孝高(よしたか・官兵衛)は、主家に反して織田方に属して勝った側となり、その後も秀吉の下で転戦して活躍し、播磨合戦終結の7年後には豊前(ぶぜん)十二万石の大大名になりました。

 こうしたことを目の当たりにした播磨の武士には、実力を頼りに出世しようとする戦国武士の精神がより一層増幅した形で持たれていたと思われます。

     なぜ養子に

 しかも、秀吉は天下統一後に、下剋上の風潮を停止させるために、武士と農民を身分的に分ける兵農分離の製作を進めました。

 こうなると、田原家は農民の身分に位置づけられることになります。

 武士として残るためには、武士の家に養子に行くしか方法はありません。

 武蔵と伊織の二代にわたる養子関係は、こうした時代背景を考えると容易に理解できます。

 『五輪書』にある「生国播磨の武士」という表現には、元々は代々武士であった生家を誇る気持ちがあったと想像されるのです。(no4691)

 *『宮本武蔵(魚住孝至著)』(岩波新書参照)

 *写真:黒田官兵衛

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宮本武蔵 in 高砂(17) 武蔵の生年

2019-07-08 09:23:53 | 宮本武蔵 in 高砂市(米田町)

     武蔵の生年

 宮本武蔵は、天正12年158(1584)生まれというのが通説です。

 生年をこの年とするのは、『五輪書』の冒頭に「年つもって六十」と書いてあるので、武蔵が筆を起こした寛永20年(1643)を60歳とし、数え年で逆算して割り出したものです。

 これに対し、武蔵の養子である宮本伊織の直系に伝わる「宮本家系図」は、武蔵の没年を「天正10年生、享年64」と明記しています。

 武蔵の父である家貞の没年については、天正八年の播磨合戦(後述)の時の籠城者リスト(『図説三木戦記』「東西両軍将士名録」)の中に「田原甚右衛門家貞」の名があることが発見されたことから、父はこの時点までは生きていたらしいのです。

 復習です。

 伊織は、田原家の始祖は播磨の名門赤松氏一族である持貞で、応永年中に米堕(米田)村にあり、田原に改称しました。

 持貞は実際には将軍の側室との密通嫌疑で切腹し、「赤松系図」では、その子家貞で絶家となっています。

 「宮本家系図」では、持貞の孫と曾孫の二代、つまり伊織の曾祖父から上の二代を「某」とし不明とするので、田原家が本当に持貞の末裔であるかは疑わしいとされていました。

 というのは、江戸初期には、新興の武士が先祖は由緒ある名家だと系図を作為することは、よくあったことなので、その類かもしれないされました。

 けれども三木城戦の籠城者の名簿に田原家貞の名があることから、田原家は、武蔵が生まれる直前の天正6年(1585)から8年にかけての播磨合戦で敗れた家であることは確かめられました。

 家貞の子・久光の妻で伊織の母となったのは、「摂州有馬郡小原城主 上野守源信利」の娘ですから、播磨の地でそれなりに有力な家であったのでしょう。(no4690)

 *『宮本武蔵(魚住孝至著)』(岩波新書)参照

 *写真:『宮本武蔵(魚住孝至著)』(岩波新書)

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宮本武蔵 in 高砂(16) 宮本伊織奉納の棟札

2019-07-07 08:00:50 | 宮本武蔵 in 高砂市(米田町)

    宮本伊織奉納の棟札

       棟札に武蔵の出自を書く
 すでに紹介した吉川英治の小説『宮本武蔵』は、大好評をはくしました。

 吉川英治は、武蔵の生誕地を「作州大原(岡山県)」として物語を展開しています。
 そのため、武蔵は作州人だと信じられてしまいました。
 近年、この説に異議が唱えられています。
 「宮本武蔵は高砂市米田町生まれである」とする説です。
 その根拠になったのは、泊神社(加古川市加古川町木村)の宮本伊織(武蔵の養子)が奉じた棟札(写真)の発見です。
 棟札について、少し説明を加えながら紹介します。・・・・武蔵は赤松一族の出身です。

 武蔵誕生は、250年ほど前のことです。
 赤松持貞は、こともあろうか将軍の側室に手をだしてしまいました。

 持貞は切腹を命じられ、嫡男の家貞等一族は、印南郡の米田に追放になりました。
 そして、姓も田原に変え、地侍として勢力を伸ばしたのです。
 そして、家貞から五代目に名前も同じ家貞の時、二人の男子がいました。その弟の武蔵玄信は、作州・新免(しんめん)氏の養子になったのです。
 新免氏は、後に宮本と名を変えた。宮本武蔵の誕生です。
 武蔵にも子どもがなかったので、伊織を養子としました。
 武蔵は、明石藩の小笠原に仕えていたが、豊前の小倉に移ったので伊織もそれに従った。伊織15歳の時でした。
 伊織は、小倉藩で家老にまでのぼりつめました。
 武蔵の死後8年目の承応二年(1653)、伊織は武蔵の出身地・米田の氏神である泊神社の老朽化がひどく、田原家の祖先供養のために社殿を新しくしたのです。

 1961年、同神社が屋根の修復工事をした際に、その時の棟札がみつかりました。武蔵の出自を書いています。

 武蔵の生誕地「播磨の国・米田説」は、俄然説得力を持ってきました。

 伊織は泊神社と同じ棟札を米田天神社に収めたとされていますが、現在は失われて残っていません。(no4689)

 *写真:伊織奉納の棟札(泊神社)。

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宮本武蔵 in 高砂(15) 泊神社(加古川町木村)

2019-07-06 14:32:04 | 宮本武蔵 in 高砂市(米田町)

 伊織奉納の「泊神社の棟札」説明の前に、泊神社の説明をもうすこしておきましょう。

    泊神社(木村神社)

   『播磨鑑』の記述に「泊神社には4人の神官がおり、真言宗に属した神宮寺の僧と神人(みこ)一人がいた」とあります。

 かなりの大社であったようです。

 *神宮寺・・・神仏混交の考え方で、神社に奉仕するために建てられた寺。

 泊神社の氏子に注目します。

 泊神社の氏子は地元の木村・稲屋・友沢・西河原・加古川の五ヵ村が祭礼の世話をするが、さらに塩市・米田新・古新・米田村、そして米田村など加古川右岸(西側)一帯に広がっていました。

 前号で紹介したように、木村・稲屋・友沢・西河原・加古川の村々は、明治22年まで印南郡に属していました。泊神社(木村)は、もともと加古川の西岸(西岸)にあった集落でした。

 「泊」は港(水門・みなと)を意味します。

 『日本書紀』に「鹿子の水門(かこのみなと)」が加古川の河口部にあったと記しています。

 研究者は、「鹿子の水門」は、現在の稲屋(加古川市加古川町稲屋)辺りで、当時奈良時代(奈良時代)は、このあたりまで海が迫っていたと推定しています。

 泊神社は地域の氏神であり、古代の港(水門)の守護神であったと考えられます。

 さらに、『加古川市史(第一巻)』は、「・・・紀伊の国懸(くにかかす)大神を勧請したり、境内社に熊野神社・住吉神社・島姫神などを祀っていることからも、当社が熊野衆、その他海賊たちと深い関わりを持っていたことが暗示していると思われる」と記しています。

 松林、港そして神社の風景が目に浮かびます。泊神社は潮風のにあう神社でした。(no4688)

*写真:現在の泊神社

*『加古川市史(第一巻)』参照。

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宮本武蔵 in 高砂(14) 泊神社のある木村と米田村は陸つづきの村

2019-07-05 09:43:29 | 宮本武蔵 in 高砂市(米田町)

      米田と木村(加古川町)

 「米田町の米田天神がなぜ、川東の泊神社(加古川町木村)の末社であるのか」と不思議に思われた方も多いのではないでしょうか。

 また、その泊神社から伊織(武蔵の養子)が寄進した武蔵が赤松家の流れをくむ田原家の出身であることを明記した棟札が発見されました。

 また、泊神社と棟札のことを知る前に、少し米田と泊神社のことを少し述べておきましょう。

     泊神社のある木村と米田村は陸つづきの村

 上記の地図は「元禄播磨絵図(部分)解読図」から、米田村近辺の解読図です。

 地図の点線の西部は印南郡で東部は加古郡です。

 その昔、郡境が決められた奈良時代、ここを加古川の本流が流れ、両郡の境になっていたのでしょう。が、なにせ加古川は洪水の多い暴れ川です。

 幾度となく大洪水をおこし流路を変えています。

 (この元禄播磨図絵の時代も現在の加古川の西に大きな流れがありました)

 流路が現在のように定まってからも、元は印南郡に属していた加古川村・木村・友沢村・稲屋村は印南郡のまま残されました。

  《付則》

 しかし、これらの村々は印南郡に属しているとは言うものの川東にあり地理的な関係から、江戸時代の後半は加古川東岸の村々との結びつきを強めていきました。

 そして、明治22年4月1日、新しく町村合併が行われ、加古川村、鳩里村(友沢村・木村・稲屋村を含む)は加古郡に編入されました。

 つまり、米田村も泊神社も元、加古川の西の村で、小さな流れはあったかもしれませんが、地続きの地域(村)でした。(no4687)

 *加古川河口あたりの郡境は、少し不自然です。別の理由で決まっています。

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宮本武蔵 in 高砂(13) 宮本武蔵誕生の地・『高砂市史』より

2019-07-04 08:28:48 | 宮本武蔵 in 高砂市(米田町)

     米田は宮本武蔵誕生の地・『高砂市史』より
  『高砂市史(二巻)・近世』から、武蔵の主要な生誕地を紹介しておきましょう。

   ・生国は播磨(『五輪書』)
 まず、唯一、武蔵が著したとされる兵法書である『五輪書』には、はっきりと「生国播磨」と書いています。
   ・太子町宮本村
 次に、18世紀中頃に宮本伊織の出生地に隣接する平津村の平野庸脩(つうさい)が編んだ『播磨鑑(はりまかがみ)』があります。
 ここには、「宮本武蔵、揖東郡鵤ノ邊、宮本村ノ産也」と明記しています。この宮本村は、現在の揖保郡太子町宮本村です。

ただし、『播磨鑑』には、もうひとつ佐用郡平福の説があるとしているが、その内容はありません。
   ・生国は播磨(『二天記』・豊田景英)
 そして、安永五年(1776)に豊田景英が著した『二天記』があります。

 新免玄信すなわち宮本武蔵の伝記である同書には、武蔵が播磨生まれであることを記しています。
 豊田景英は、熊本藩細川家の筆頭家老でした。
 『二天記』は、武蔵の晩年の弟子たちからの聞き覚書をはじめとする史料を、わかりやすくまとめたものであり、武蔵を知るうえで重要な著書です。
   ・作州宮本村(東作誌)
 さらに、文化12年(1815)に津山藩士正木輝雄が著した作州東部六郡の地誌『東作誌』には、武蔵が作州宮本村の平田無二の子であることを記しています。

   ・米田村(宮本家系図)
 また、武蔵や伊織の子孫である豊前小倉の宮本家の系図を基にしたものがあります。

 この系図は、19世紀中頃に作成されたと考えられるもので、武蔵が印南郡米田村の田原甚右衛門家貞の二男とあります。
 甚右衛門家貞の長男は、伊織の父の甚兵衛久光です。
 つまり、武蔵は、伊織の父の弟、すなわち叔父というのです。(no4686)
 *『高砂市史(第二巻)・近世』参照
 *写真:宮本武蔵肖像が(部分)・島田美術館(熊本市)

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宮本武蔵 in 高砂(12) 手向山(北九州市小倉区)の武蔵顕彰碑を読む

2019-07-03 07:12:51 | 宮本武蔵 in 高砂市(米田町)

 武蔵の生誕地にこだわっています。

 きょうは、高砂を少し離れ、手向山の武蔵顕彰碑により、高砂生誕地説を確かめましょう。

   手向山(北九州市小倉区)の武蔵顕彰碑を読む

 写真は、北九州市小倉区手向山(たむけやま)にある「宮本武蔵顕彰碑」です。

 この碑は、武蔵の死後9年目の承応3年(1654)伊織が建てたもので、碑文には「兵法天下無雙 播州赤松末流 新免武蔵玄信二天居士碑」とあります。

 新免武蔵は、播磨の赤松氏の子孫で、二天と号したというのです。

 この碑文には、武蔵が父・新免無二から十手術を学んだこと、13歳の時、有馬喜兵衛と初めて試合をして勝ったこと、佐々木巌流(小次郎のこと)と船島で対戦したこと、など生涯の戦いを記録しています。

 最後に、伊織は、武蔵の偉業を後世に伝えるために、この碑を立てたと結んでいます。

    やはり、武蔵は高砂生まれ

 この碑を建立した時、伊織は43歳で、すでに2,500石の小倉藩の家老でした。

 文は、武蔵と親しかった泰勝寺の住職・春山和尚が書いています。

 明治20(1887)に手向山の宮本家の墓地にあったのですが、陸軍の砲台が造られることになって現在地に移されたといいます。

 この碑の横には「佐々木小次郎の碑」もあります。これは、作家の村上元三が小次郎に同情して建てたといわれています。

 宮本武蔵の生誕地については、これまで、さまざまにいわれてきました。

 が、史科を素直に読むと、播磨の米堕(米田)村生まれであり、美作の宮本村に養子にいったとするのが正しいようです。

 武蔵の伝承や足跡を繋げてみると、「武蔵は間違いなく播州・米田の人である」と、いえそうです。(no4685)

*『Ban Cul(2003冬号)』の橘川真一「武蔵の実像」参照

  *写真:手向山の宮本武蔵顕彰碑

 

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宮本武蔵 in 高砂(11) 武蔵ワールド

2019-07-02 09:34:04 | 宮本武蔵 in 高砂市(米田町)

 

             武蔵ワールドをお訪ねください

 このブログでは、しばらく宮本武蔵と伊織と関連場所が登場します。

 すでに「田原(武蔵)家屋敷跡」と「武蔵生誕の碑」を紹介しました。

 今後、*武蔵の菩提寺(西光寺)・*米田天神社・*神宮寺がしばしば登場します。(それら*印の場所については後日詳しく説明します)

 なお、その時は、この地図で場所をお確かめ下さい。

 まさに、武蔵ワールドです。お時間がある時に、上の地図を片手にそれらの場所をお訪ねください。

 次の地図は『第23回武蔵・伊織まつり』からお借りしています。(no4684)

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