佐々木小次郎との決闘
『宮本武蔵(魚住孝至)』(岩波新書)から引用させていただきます。(文体を変えています)
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あらためて、佐々木小次郎との決闘を確かな資料を用いて考えたいのですが、『五輪書』にも何も書かれていません。
この「巌流島の勝負」の最も古い記録は、武蔵の養子・宮本伊織が武蔵の没後九年になる承応三年(1654)に、小倉の手向山(たむけやま)に建立した武蔵顕彰碑の文章です。
まず勝負が行われたのは、碑文では「長門と豊前との際」の「舟嶋」です。この島は、後に「巌流島」と呼ばれますが、当時長府藩領であったことを考えると、小倉藩の家老が関与し藩の検使が付いたという公式の勝負ではなく、武蔵と小次郎との間の私闘であったと思われます。
真剣を以て勝負しようと言った岩流に対して、武蔵は「木刀でよい」とし、舟嶋で勝負をしています。
武蔵、木刀の一撃を以って小次郎を殺す
「武蔵、木刀の一撃を以って之(これ)を殺す。電光なお遅きがごとし」と書いています。
碑文は、勝負が行われた小倉の地に、当時を知る者も多くいた時期に建てられたものであり、虚偽の事柄は書ける状況にはないのです。これが勝負の事実のあらましだったと思われます。
吉川英治の小説『宮本武蔵』、小説を書くにあたり、江戸時代後期の『二天記』やそのもととなった『武公伝』にほぼ準じています。
この『二天記』は、晩年、武蔵を応援した熊本藩の筆頭家老であった、豊田影英(かげひで)がまとめた武蔵の伝記です。
しかし、『二天記』『武公伝』は、武蔵が亡くなって100年以上もたって書かれており脚色されており、『武公伝』・『二天記』は、佐々木小次郎の勝負の話はほとんど創作であろうといわれています。
『武公伝』までに書かれた勝負の場面は、武蔵が巌流島に遅れて記述等は見当たりません。(no4701)
*写真:佐々木小次郎像
*一乗滝:福井県福井市