一乗寺下り松の決闘(吉岡一門との決闘)
京都・洛東、一乗寺下り松(いちじょうじさがりまつ)。 由緒ありげな地名です。
一帯は旧一乗寺跡で、かつて松の巨木が生えていました。
これが、下り松です。
関ケ原から四年。21歳の武蔵が吉岡一門の剣客集団を一人で打ち破った決闘の地です。
吉岡家は、剣道指南に当たり、室町将軍の指南役として「室町兵法所」の看板を許され、都では重きをなしていました。
自らも「扶桑(日本)第一」、つまり日本一の剣道家を名乗っていました。
室町幕府の滅亡とともに、その威光も衰えましたが、それでもなお、京では多くの門弟を抱える老舗の道場でした。
この名家と武蔵が、なぜ対決したのかはっきりとしませんが、それはともかく、武蔵と吉岡との決闘については、武蔵の養子・伊織が残した小倉碑文に刻まれています。
決闘のクライマックスは、この一乗寺下り松の死闘ですが、これは、三度目の対決で、それまでに二度にわたる前哨戦がありました。
最初は、吉岡四代目宗家・清十郎との戦いです。
場所は金閣寺の東数百メートルにある蓮台寺野。勝負は一瞬にして決まりました。
木刀を手にした武蔵は、一撃で清十郎を倒したのです。昏倒した清十郎は、戸板で道場に運び込まれました。
奇跡的に一命は取りとめたが、敗北後、清十郎は出家しています。
二度目の場所は不明ですが、相手は吉岡五代目の伝七郎。清十郎の弟です。
兄の敵、と五尺余の木刀で挑んだのですが、これも瞬時に打ち負かされ、伝七郎は絶命しました。
面目を失った吉岡は、今度は、一門挙げて武蔵に最後の勝負を挑みました。これが一乗寺下り松の決闘でした。(no6702)
*『宮本武蔵(中元孝迪著)』(神戸新聞総合出版センター)参照