米田は宮本武蔵誕生の地・『高砂市史』より
『高砂市史(二巻)・近世』から、武蔵の主要な生誕地を紹介しておきましょう。
・生国は播磨(『五輪書』)
まず、唯一、武蔵が著したとされる兵法書である『五輪書』には、はっきりと「生国播磨」と書いています。
・太子町宮本村
次に、18世紀中頃に宮本伊織の出生地に隣接する平津村の平野庸脩(つうさい)が編んだ『播磨鑑(はりまかがみ)』があります。
ここには、「宮本武蔵、揖東郡鵤ノ邊、宮本村ノ産也」と明記しています。この宮本村は、現在の揖保郡太子町宮本村です。
ただし、『播磨鑑』には、もうひとつ佐用郡平福の説があるとしているが、その内容はありません。
・生国は播磨(『二天記』・豊田景英)
そして、安永五年(1776)に豊田景英が著した『二天記』があります。
新免玄信すなわち宮本武蔵の伝記である同書には、武蔵が播磨生まれであることを記しています。
豊田景英は、熊本藩細川家の筆頭家老でした。
『二天記』は、武蔵の晩年の弟子たちからの聞き覚書をはじめとする史料を、わかりやすくまとめたものであり、武蔵を知るうえで重要な著書です。
・作州宮本村(東作誌)
さらに、文化12年(1815)に津山藩士正木輝雄が著した作州東部六郡の地誌『東作誌』には、武蔵が作州宮本村の平田無二の子であることを記しています。
・米田村(宮本家系図)
また、武蔵や伊織の子孫である豊前小倉の宮本家の系図を基にしたものがあります。
この系図は、19世紀中頃に作成されたと考えられるもので、武蔵が印南郡米田村の田原甚右衛門家貞の二男とあります。
甚右衛門家貞の長男は、伊織の父の甚兵衛久光です。
つまり、武蔵は、伊織の父の弟、すなわち叔父というのです。(no4686)
*『高砂市史(第二巻)・近世』参照
*写真:宮本武蔵肖像が(部分)・島田美術館(熊本市)