ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

宮本武蔵 in 高砂(14) 泊神社のある木村と米田村は陸つづきの村

2019-07-05 09:43:29 | 宮本武蔵 in 高砂市(米田町)

      米田と木村(加古川町)

 「米田町の米田天神がなぜ、川東の泊神社(加古川町木村)の末社であるのか」と不思議に思われた方も多いのではないでしょうか。

 また、その泊神社から伊織(武蔵の養子)が寄進した武蔵が赤松家の流れをくむ田原家の出身であることを明記した棟札が発見されました。

 また、泊神社と棟札のことを知る前に、少し米田と泊神社のことを少し述べておきましょう。

     泊神社のある木村と米田村は陸つづきの村

 上記の地図は「元禄播磨絵図(部分)解読図」から、米田村近辺の解読図です。

 地図の点線の西部は印南郡で東部は加古郡です。

 その昔、郡境が決められた奈良時代、ここを加古川の本流が流れ、両郡の境になっていたのでしょう。が、なにせ加古川は洪水の多い暴れ川です。

 幾度となく大洪水をおこし流路を変えています。

 (この元禄播磨図絵の時代も現在の加古川の西に大きな流れがありました)

 流路が現在のように定まってからも、元は印南郡に属していた加古川村・木村・友沢村・稲屋村は印南郡のまま残されました。

  《付則》

 しかし、これらの村々は印南郡に属しているとは言うものの川東にあり地理的な関係から、江戸時代の後半は加古川東岸の村々との結びつきを強めていきました。

 そして、明治22年4月1日、新しく町村合併が行われ、加古川村、鳩里村(友沢村・木村・稲屋村を含む)は加古郡に編入されました。

 つまり、米田村も泊神社も元、加古川の西の村で、小さな流れはあったかもしれませんが、地続きの地域(村)でした。(no4687)

 *加古川河口あたりの郡境は、少し不自然です。別の理由で決まっています。

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