武蔵の生きた時代
伊織・武蔵は、出自を明名言していません。播磨関係の他の資料でも確認できません。この他に材料はないので、伊織の直系の伝承に従って、武蔵が系図の通り田原家貞の次男であることにしておきます。
こう見る方が、後述するように当時の時代背景にも合っており、自然なためです。
播磨では、武蔵が生まれる直前の天正6年(1278)から8年にかけて、中央から進出してきた織田信長方と中国の雄・毛利方とに分かれた合戦が行われ、信長から派遺された羽柴秀吉の軍と戦って敗れた武士が数多くいました。
織田方は次の安芸(あき)を本拠とする毛利家との決戦を控えていたため、播磨では他の地でのような鞍滅(せんめつ)・掃討を行わなかったのでしょう。
敗れてもそのままその地の土豪として残った武士が多くいました。
田原家も、その一つであったと思われます。
戦った相手の秀吉は、わずか二年後の本能寺の変の後、信長に取って替わり、さらに八年後の天正八年(1590)には全国を統一して天下人になります。
また、姫路にいた黒田孝高(よしたか・官兵衛)は、主家に反して織田方に属して勝った側となり、その後も秀吉の下で転戦して活躍し、播磨合戦終結の7年後には豊前(ぶぜん)十二万石の大大名になりました。
こうしたことを目の当たりにした播磨の武士には、実力を頼りに出世しようとする戦国武士の精神がより一層増幅した形で持たれていたと思われます。
なぜ養子に
しかも、秀吉は天下統一後に、下剋上の風潮を停止させるために、武士と農民を身分的に分ける兵農分離の製作を進めました。
こうなると、田原家は農民の身分に位置づけられることになります。
武士として残るためには、武士の家に養子に行くしか方法はありません。
武蔵と伊織の二代にわたる養子関係は、こうした時代背景を考えると容易に理解できます。
『五輪書』にある「生国播磨の武士」という表現には、元々は代々武士であった生家を誇る気持ちがあったと想像されるのです。(no4691)
*『宮本武蔵(魚住孝至著)』(岩波新書参照)
*写真:黒田官兵衛