このあたりで話を文観・後醍醐天皇に話を戻します。
文観と後醍醐天皇
文観は、永仁3年(1295)西大寺に入り受戒し、文観25才の時文観・朱音を名乗り、叡尊の起こした真言律宗の叡尊の十三回忌の追善務める西大寺の真言律僧としてその姿を現しています。
そして、正安3年(1301)真言宗に入り醍醐寺の道順により真言僧となっています。
醍醐寺は、もともと天皇家と縁が深い寺でした。そして、寺内の道順(淳)は、後醍醐天皇の信頼を得ていた僧でした。
文観は、この道順(淳)の直弟子となりました。
文観は、師である道淳の線に連なって、後醍醐天皇に近づいたのでしょう。
たちまち、双方の政治家的な気質、野心家的な素質が急激に二人を親しくさせていきました。
後醍醐天皇は、天皇家の家系では珍しいほど政治好きでした。
政治の場から遠ざけられ、愛欲と詩歌書画の世界に埋没し、そのことにほとんど疑問を感じていなかった当時の歴代天皇の中では変り種といってもいい天皇でした。
「自分は政治をやりたい」
30才を過ぎて即位した後醍醐天皇は、はっきりそう考えたのです。
一方、学問にも打ちこんで、「なぜ天皇自身が政治をすべきか」という理論武装もしました。
理論には弱い日本人政治家のなかでは、異色の人物でした。
一方の文観も、また政治好きな人物でした。
学問もよくし、仏教のほかに算道・呪術も好きだったといいます。
それも、机上の学問としてではなく、むしろ現実的(実用的)な学問を愛したようです。
鎌倉幕府打倒を・・・・
この二人が結びついたとき、「政治をわれらの手に。・・・そのためには、まず幕府打倒だ」と、エスカレートしていったのは当然のことだったのです。
政治好き、権謀好きにとって、陰謀、革命くらい心の躍る課題はありません。(no3426)
*絵:後醍醐天皇(清浄光寺所蔵・神奈川県藤沢市)
◇きのう(4/13)の散歩(10.508歩)
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