ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

お爺さんが語る郷土の歴史(143) 余話として、入ヵ池(1)・入ヶ池の伝承 

2018-04-10 06:44:12 | お爺さんが語る郷土の歴史

 

     入ヶ池(1)

 天満大池と同じく古い建造の伝承を持つ入ヵ池(にゅうがいけ)についても紹介しておきます。

 今日は、稲美町の天満北山の真楽寺(しんぎょうじ)に、伝わる「入ヶ池」の伝承です。

     入ヶ池の伝承

 都が明日香(あすか)にあった644年、藤原弥吉四郎が天皇の命令を受けて西国に行く途中「蛸草村」で、一人の老人に出会いました。

 その老人は「この野を開けば必ず末代まで繁盛するだろう。お前がここを開墾するがよい・・・」と言い残して姿を消しました。

 ある年でした。きびしい夏の日照が続き、水が乏しくなりました。

 毎年、水が足りなくなるので、上流の広い谷に水を貯める池の築造にかかっていました。

 しかし、せっかく築いた堤は、その度に大水で流されてしまいました。

 村人は、とうとう工事をあきらめてしまいました。

 ある日、藤原弥吉四郎の孫にあたる光太衛(こうだいえ)が夢で不思議な僧に出会いました。

 その僧は「お前のおじいさんは、川の上流をせき止め、池を築いたがうまくいかなかった。

 これは上流の水が強いためである。だから、特別な工夫が必要である。

 堤を六枚の屏風の形にし、北側の堤のところから越水(うてみ・洪水吐)を造って、水を越えさせるがよい。

 そして、工事中に美しい女が通りかかるだろうから、捕らえて人柱にすると堤は完成するであろう・・・」

 村人を集めて池の築造がはじまりました。

   人柱になったお入(おにゅう)

 池づくりを始めて間もなく、夢のお告げどおりの美しい女が通りかかりました。村人は捕らえて切り伏せて、人柱にしてしまいました。

 その後、池は立派に完成し、どんな大雨にもびくともしなくなりました。

 この美しい女は「お入(おにゅう)」といったので、この池は「入ヶ池」と呼ばれるようになりました。

 しかし、いつしかこのことはすっかり村人に忘れられていきました。

 ある日、村の若者が、入ヶ池のそばを通り帰る途中、女に出会いました。

 姿は大きく、目が丸く髪が赤い女でした。

 若者は、驚き逃げ帰ろうとした時、その女は「私は鬼ではない。私は、この池の人柱にされた、もとは山中に住んでいた蛇の「お入(おにゅう)」である。

 たまたま、人がたくさんいるので女に姿を変えて来てみると、思いもかけず切り殺され、人柱にされてしまった。

 村人は、立派な池ができて喜んでいるが、私の魂はうかばれません。それに、誰も私のことを覚えていないのが寂しい・・・

 いま、このような姿で現れたのである。おまえは、これから村人に伝え、私の菩提(ぼだい)を弔ってくれ。そうそうすれば、いつまでもこの池を守り続けるであろう」

 そういうと、姿がなくなりました。

 村人は、お寺を建てて「お入さん」を祭りました。それが真楽寺です。

 以後、村人は幸せに暮らしたということです。(no3422)

 *挿絵:お入(おにゅう)

 ◇きのう(4/9)の散歩 (11.261歩) 

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