後醍醐天皇と野口
正和5年(1316)、北条高時が執権につきましたが、幕府の支配体制の乱れは著しものがありました。
先に述べたように、この機を見た後醍醐天皇は、正中(せいちゅう)元年(1324)、倒幕を計画しました。
この時は、事前に機密が漏れ不成功におわりました。
しかし、後醍醐天皇は、天皇には珍しく、それであきらめるような「やわ」な人物ではありません。
元弘元年(1331)にも倒幕の計画を進めましたが、この時も身内の密告により失敗に終わってしまいました。
後醍醐天皇は、隠岐島(おきのしま)に流されることになりました。
京都を出発した一行は、7月12日に教信寺(加古川市野口町)の前の山陽道を通り、加古川の宿に入りました。
加古川での宿は、播磨の守護所(場所は現在の称名寺-加古川町)でした。
その時のようすが「増鏡(ますかがみ)」にあります。
残念なことに、後醍醐天皇一行は確かに教信寺の前の道を通り加古川の町で宿をとっているのですが、野口を通過した時の記録は残していません。
少し残念です。
<増鏡大約>
12日、後醍醐天皇が加古川の宿に着いたとき、讃岐(四国)に流される子どもの宗良(むねなが)が少し遅れて加古川の東の野口に着きました。
後醍醐天皇は宗良に会いたかったのですが、警護の武士は、それを許しませんでした。その夜は、後醍醐天皇はもんもんと一夜を過ごしました。(no3431)
・・・・
*写真:後醍醐天皇の流罪の道(教信寺の前の道)
◇きのう(4/18)の散歩(11.100歩)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます