ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

お爺さんが語る郷土の歴史(150) 文観を追え(22)、元弘の乱・文観捕らわる

2018-04-17 08:00:21 | お爺さんが語る郷土の歴史

 

    正中の乱は失敗するも!

 幕府は、倒幕の中心となった日野資朝・日野俊基を取り調べたが、下手な裁断はくだせませんでした。

倒幕を企てたといっても、密告だけで、これという証拠もなかったのです。

 もし、倒幕計画委加わったと思われる公家たちをことごとく捕え、後醍醐天皇までむりやりに退位させてしまえば、決済は地方の武士や民衆の反発を買いかねません。

 決裁は「両名を死刑にするところであるが、資朝(すけとも)は里が島へ遠流。俊基(としもと)は無罪」としました。

 

 後醍醐天皇はこれでへこたれるような、やわな天皇ではありません。

 「倒幕」に二文字がますます燃え上がらせるのでした。

 それからしばらく経(た)って、宮中に、醍醐寺の文観僧正等が招かれた。

 「ご坊に、お願いがございます」と、俊基が殊勝な顔つきで、頭をさげるのでした。

     元弘の乱・文観捕らわる

 「お願いともうしますのは、鎌倉調伏祈祷をしていただきたいのです。

 もちろん、表向きは、中宮のご安産の祈赫(きとう)だということにしていただき、「安産祈祷を口実にして、北条高時をのろい殺してもらいたい」と、俊基は、文観等たのむのでした。

 文観らは、正中の変のときから、倒幕の企てに関(かか)わっていたので、一言もなく、承知しました。

 嘉暦元年(1326)の春ごろから、文観等は、宮中に壇をかまえ、祈祷をはじめました。

 後醍醐天皇も祈祷に加わりました。

 またまた、この計画は漏れてしまいました。

 京都はうだるような7月11日(元弘元・1331)の夕刻でした。日野俊基の館は六波羅の武士により取り囲まれてしまいました。(元弘の乱)

 日野俊基はとらえられ鎌倉へ送られます。死を覚悟した鎌倉へ護の護送でした。文観等もとらえられ鎌倉へ送られたのです。

 次回は、元弘の乱の結末をお話ししましょう。(no3429

 *挿絵:後醍醐天皇も、自ら倒幕の祈祷(『マンガ日本の歴史・18(石ノ森章太郎)』)より

 ◇きのう(4/16)の散歩(10.649歩)

  〈お願い〉

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