ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

お爺さんが語る郷土の歴史(140) 文観を追え(17)、真言律宗の足跡(9)・天満大池再考(2)

2018-04-07 08:40:28 | お爺さんが語る郷土の歴史

   「天満大池:白鳳3年(675)築造」は伝承  

 伝承であれ天満大池は、白鳳3年〈675)に築造されたといわれています。

 「ウッソー」と叫びたくなります。

 古い時代にもたくさんの池は造られています。

 でも、今よりも規模の小さな池とはいえ、かなり大きな池が奈良時代前に造られたというのです。

 無理です。

 当時、こんな大きな池を造る技術はまだなかったと言えます。

 こんなに大きな池を造れば土手にかかる水圧はすごいものです。

 それに、当時の人口からして、無理をして大きな池を造る必要はないはずです。

 では、「いつ頃天満大池の基礎は造られたのだろう」という問題です。

 

 技術の発達があり、より多くの食料の生産が求められました時代はいつの頃だったのでしょう。

     天満大池は鎌倉時代に造られた!

 まず、技術について考えます。戦国時代①築城の技術、②、鉱山の技術、③それに何よりも土木技術が発達しました。

 江戸時代(近世)になり、戦争はなくなり平和な時代になりました。

 それらの技術は農業に転用され、江戸時代の初めは日本の大開拓の時代と呼ばれています。

 ところが、天満大池は、白鳳の時代はともかくとして、もちろん江戸時代より前につくられたことは確かです。

 では、いつごろでしょうか。

 人口が増え生産のたたかまった鎌倉時代を想定されます。

 でも、先に述べたように、山を地形を利用した造る池の場合はともかく、ある程度平野で、天満大池のような規模の池を造る技術はまだなかったと考えるのが一般的です。

 

 復習です。

 鎌倉時代、西大寺の末寺帳に常楽寺(加古川町大野)・常住寺(加古川市本町:元は寺家町)・報恩寺(平荘町山門)・成福寺(不明)があり、西大寺流寺院として円光寺(元は国安)そして復田寺(加古川町稲屋)があったことを思い出してください。

 円光寺に注目します。

 円光寺は元天満神社のところにありましたが、明治の神仏分離政策で今の中村後に移ってきた寺院です。

 円光寺は、真言律宗の西大寺系の寺だったのです。

 西大寺は、当時としては特別の土木技術を持ったエキスパート集団でした。

 さらに、述べなければなりません。

 天満大池は、西大寺の土木技術と結び付き造られたと考えるのが自然と思われます。(no3419

 *写真:円光寺

 ◇きのう(4/6)の散歩(10.549歩)

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