後醍醐天皇が隠岐の島を脱出し、京都へ凱旋をし、「建武の新政」をはじめました。
建武の新政とその後の南北朝の展開の詳細については、他の書物をお読みください。
ここでは中学用歴史教科書(『中学新歴史・帝国書院』)を読んでおきます。
建武の新政は失敗
幕府をほろぼした後醍醐天皇は、1334年、年号を建武と改め、天皇みずからが政治を行いました。
そして,これまでの公家(くげ)政治のしきたりを大はばに改め,公家と武家の政治の両面を取り入れたしくみをつくり,倒幕(とうばく)に功績のあった公家や武士に官職をあたえました。これを「建武の新政」といいます。
しかし、新政府は、公家や寺社をたいせつにしましたが、倒幕に活躍した武士に対しては恩賞が少なく、また、当時の武家社会につくられていた慣習を無視したりしたため、くの武士たちから不満をもたれるようになりました。
このような動きをみて、足利尊氏は武家政治の復活を計画して兵をあげました。
そのため建武の新政は、事実上、2年半で終わりました。
南北朝の展開
足利尊氏は、別に新しい天皇をたて、1338年、みずからは征夷大将軍となり、京都に幕府をひらきました。
一方、京都を追われた後醍醐天皇は、吉野(奈良県)に朝廷をおき(南朝)、京都の朝廷(北朝)と対立するようになりました。
両朝の争いはこののち約60年間にわたって各地でづきました(南北朝の争い)。
両朝が争うなかで、南朝方は勢力はしだいにおとろえていきました。
それに対して北朝方の足利氏には、地方の多くの守護が味方について、勢力を強めていきました。
1392年、3代将軍義満の和平の呼びかけに南朝が応じて両朝は一にまとまり、南北朝の争いは終わりました。(no3433)
*写真:吉野山
◇きのうの散歩(10.592歩)
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