後醍醐天皇の野望
14世紀の初め、長く続いた鎌倉幕府も、蒙古襲来をきっかけに、その支配体制にかげりが見えはじめていました。
時の執権・北条高時は、田楽や闘犬にふけり、政治をかえりみることをしませんでした。
そのため、政治は腐敗しました。社会の秩序も乱れ始めました。
こうした社会の混乱が深まっていた文保二年(1318)、後醍醐天皇が即位したのです。
天皇は、政権を武士から取り戻し、政治を改めようと、鎌倉幕府打倒を決意しました。
後醍醐天皇はまず、中宮の安産祈願に名を借りて、寺々に幕府打倒の祈祷を行なわせます。
そして、自らも法衣をまとい、護摩を焚き、経を唱えながら、幕府調伏を祈祷しました。
八髻文珠菩薩(般若寺)の語ること
後醍醐天皇の討幕にかける執念を知る手掛かりが、奈良の般若寺に残されていました。
般若寺には古くから伝えられてきた仏像・「八髻(はっけい)文珠菩薩」(写真)があります。
最近、歴史学者・網野善彦氏等の研究により、その文殊菩薩が後醍醐天皇の意を受けた文観が、幕府打倒を祈願して作らせたものであったことが明らかになりました。
菩薩の体内から、そのことを示す銘文が発見されたのです。
銘文は「金輪聖主御願成就」とあり、住職の話では、「文珠菩薩が大変痛んでいたので、解体修理した際に見つかった」ということです。
「金輪聖主」とは後醍醐天皇のことです。
後醍醐天皇は、着々と討幕の準備を進めていました。
後醍醐天皇が幕府の目を欺くために、しばしば開いた宴会では「無礼講」で、参加者は、裸に近い姿で、女をはべらせ、酒を酌みかわしたといいます。
これを隠れ蓑に、統幕計画を練っていたのです。
さっそく仲間を集め、秘策が練られました。
「この計画を隠すために行われた無礼講では、素肌のすける衣裳をつけた女をまじえ、無軌道な酒宴が開かれた」と『太平記』は書いています。
しかし、この「革命ごっこ」は簡単にもれ、つぶされました。
近臣の日野俊基が鎌倉に連れて行かれ、文観は硫黄島(いおうじま、現:鹿児島県鹿児島郡三島村)へ流罪となりました。(no3427)
*『堂々日本史』(KTC中央出版)参照、『異形の王権(網野善彦著)』(平凡社)
*写真:八髻文珠菩薩(般若寺)
◇きのう(4/14)の散歩(10.321歩)
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