正中の乱は失敗するも!
幕府は、倒幕の中心となった日野資朝・日野俊基を取り調べたが、下手な裁断はくだせませんでした。
倒幕を企てたといっても、密告だけで、これという証拠もなかったのです。
もし、倒幕計画委加わったと思われる公家たちをことごとく捕え、後醍醐天皇までむりやりに退位させてしまえば、決済は地方の武士や民衆の反発を買いかねません。
決裁は「両名を死刑にするところであるが、資朝(すけとも)は里が島へ遠流。俊基(としもと)は無罪」としました。
後醍醐天皇はこれでへこたれるような、やわな天皇ではありません。
「倒幕」に二文字がますます燃え上がらせるのでした。
それからしばらく経(た)って、宮中に、醍醐寺の文観僧正等が招かれた。
「ご坊に、お願いがございます」と、俊基が殊勝な顔つきで、頭をさげるのでした。
元弘の乱・文観捕らわる
「お願いともうしますのは、鎌倉調伏祈祷をしていただきたいのです。
もちろん、表向きは、中宮のご安産の祈赫(きとう)だということにしていただき、「安産祈祷を口実にして、北条高時をのろい殺してもらいたい」と、俊基は、文観等たのむのでした。
文観らは、正中の変のときから、倒幕の企てに関(かか)わっていたので、一言もなく、承知しました。
嘉暦元年(1326)の春ごろから、文観等は、宮中に壇をかまえ、祈祷をはじめました。
後醍醐天皇も祈祷に加わりました。
またまた、この計画は漏れてしまいました。
京都はうだるような7月11日(元弘元・1331)の夕刻でした。日野俊基の館は六波羅の武士により取り囲まれてしまいました。(元弘の乱)
日野俊基はとらえられ鎌倉へ送られます。死を覚悟した鎌倉へ護の護送でした。文観等もとらえられ鎌倉へ送られたのです。
次回は、元弘の乱の結末をお話ししましょう。(no3429)
*挿絵:後醍醐天皇も、自ら倒幕の祈祷(『マンガ日本の歴史・18(石ノ森章太郎)』)より
◇きのう(4/16)の散歩(10.649歩)
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