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ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

お爺さんが語る郷土の歴史(148) 文観を追え(20)・後醍醐天皇の野望

2018-04-15 07:33:02 | お爺さんが語る郷土の歴史

 

      後醍醐天皇の野望
  14世紀の初め、長く続いた鎌倉幕府も、蒙古襲来をきっかけに、その支配体制にかげりが見えはじめていました。
 時の執権・北条高時は、田楽や闘犬にふけり、政治をかえりみることをしませんでした。

そのため、政治は腐敗しました。社会の秩序も乱れ始めました。
こうした社会の混乱が深まっていた文保二年(1318)、後醍醐天皇が即位したのです。
 天皇は、政権を武士から取り戻し、政治を改めようと、鎌倉幕府打倒を決意しました。
 後醍醐天皇はまず、中宮の安産祈願に名を借りて、寺々に幕府打倒の祈祷を行なわせます。
 そして、自らも法衣をまとい、護摩を焚き、経を唱えながら、幕府調伏を祈祷しました。
    
八髻文珠菩薩(般若寺)の語ること 

 後醍醐天皇の討幕にかける執念を知る手掛かりが、奈良の般若寺に残されていました。

 般若寺には古くから伝えられてきた仏像・「八髻(はっけい)文珠菩薩」(写真)があります。

 最近、歴史学者・網野善彦氏等の研究により、その文殊菩薩が後醍醐天皇の意を受けた文観が、幕府打倒を祈願して作らせたものであったことが明らかになりました。

 菩薩の体内から、そのことを示す銘文が発見されたのです。

 銘文は「金輪聖主御願成就」とあり、住職の話では、「文珠菩薩が大変痛んでいたので、解体修理した際に見つかった」ということです。

 「金輪聖主」とは後醍醐天皇のことです。

 後醍醐天皇は、着々と討幕の準備を進めていました。

 後醍醐天皇が幕府の目を欺くために、しばしば開いた宴会では「無礼講」で、参加者は、裸に近い姿で、女をはべらせ、酒を酌みかわしたといいます。

 これを隠れ蓑に、統幕計画を練っていたのです。

さっそく仲間を集め、秘策が練られました。

「この計画を隠すために行われた無礼講では、素肌のすける衣裳をつけた女をまじえ、無軌道な酒宴が開かれた」と『太平記』は書いています。

 しかし、この「革命ごっこ」は簡単にもれ、つぶされました。

 近臣の日野俊基が鎌倉に連れて行かれ、文観は硫黄島(いおうじま、現:鹿児島県鹿児島郡三島村)へ流罪となりました。(no3427)

 *『堂々日本史』(KTC中央出版)参照、『異形の王権(網野善彦著)』(平凡社)

 *写真:八髻文珠菩薩(般若寺)

 ◇きのう(4/14)の散歩(10.321歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(147) 文観を追え(19)・文観と後醍醐天皇

2018-04-14 08:53:23 | お爺さんが語る郷土の歴史

 このあたりで話を文観・後醍醐天皇に話を戻します。

     文観と後醍醐天皇

 文観は、永仁3年(1295)西大寺に入り受戒し、文観25才の時文観・朱音を名乗り、叡尊の起こした真言律宗の叡尊の十三回忌の追善務める西大寺の真言律僧としてその姿を現しています。

 そして、正安3年(1301)真言宗に入り醍醐寺の道順により真言僧となっています。

 醍醐寺は、もともと天皇家と縁が深い寺でした。そして、寺内の道順(淳)は、後醍醐天皇の信頼を得ていた僧でした。

 文観は、この道順(淳)の直弟子となりました。

 文観は、師である道淳の線に連なって、後醍醐天皇に近づいたのでしょう。

 たちまち、双方の政治家的な気質、野心家的な素質が急激に二人を親しくさせていきました。

 後醍醐天皇は、天皇家の家系では珍しいほど政治好きでした。

 政治の場から遠ざけられ、愛欲と詩歌書画の世界に埋没し、そのことにほとんど疑問を感じていなかった当時の歴代天皇の中では変り種といってもいい天皇でした。

 「自分は政治をやりたい」

 30才を過ぎて即位した後醍醐天皇は、はっきりそう考えたのです。

 一方、学問にも打ちこんで、「なぜ天皇自身が政治をすべきか」という理論武装もしました。

 理論には弱い日本人政治家のなかでは、異色の人物でした。

 一方の文観も、また政治好きな人物でした。

 学問もよくし、仏教のほかに算道・呪術も好きだったといいます。

 それも、机上の学問としてではなく、むしろ現実的(実用的)な学問を愛したようです。

    鎌倉幕府打倒を・・・・

 この二人が結びついたとき、「政治をわれらの手に。・・・そのためには、まず幕府打倒だ」と、エスカレートしていったのは当然のことだったのです。

 政治好き、権謀好きにとって、陰謀、革命くらい心の躍る課題はありません。(no3426)

 *絵:後醍醐天皇(清浄光寺所蔵・神奈川県藤沢市)

 ◇きのう(4/13)の散歩(10.508歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(146) 余話として、五ヶ井用水(2)・五ヵ井用水の改修の完成は鎌倉時代!

2018-04-13 07:18:53 | お爺さんが語る郷土の歴史

 

            五ヶ井用水の成立、いつ?

 五ヶ井用水の伝承はともかく歴史の古い用水です。

 加古川下流の左岸(東岸)は、右岸(西岸)と比べて、流れがゆるやかで早くから安定し、聖徳太子の伝承が引き合いにだされるほど古い用水です。

 「五ヶ井用水」は、北条郷・加古之庄・岸南(雁南)之庄・長田之庄・今福之庄という五ヶ井郷(庄)の用水であるところから名づけられた名称です。

 これらの名称からも推測できるが溝は古くからありました。

 それでは、五ヶ井郷が一体の井組として成立したのはいつのことでしょう。『加古川市歴史』は郷村制の解体しきっていない時代、つまり室町時代(戦国時代)のことと考えられるとしています。

     五ヵ井用水改修の土木技術

 加古川は大河であり、暴れ川でした。古代より幾度となく洪水を引きおこしています。

 こんな大河の締め切り工事をし、洪水の時にも崩れない堤や樋門を築き、大川から安定して取水できるようになるのは、技術の進歩を待って後のことです。

 すなわち、これらの土木技術の発達は戦国時代をまたねばなりません。

 五ヶ井用水は多くの村々を貫く大きな用水です。

 これらの用水を一体のものとして利用するには、利害の対立する地域全体を支配する領主の出現を待たなければなりません。

 天正六年(1578)三木城は、秀吉軍に敗れたが当時、加古郡は三木城の支配下にあった。

      五ヵ井用水の改修の完成は鎌倉時代!

 以下は、平成29年度氷丘公民館地域学講座「日岡の文観(1315年前後を中心に)」、兵庫大学教授金子哲氏の講演を参照にさせていただいています。

・・・・

 一般論として、鎌倉時代の農業は、鋤・鍬使う農業がでしたが二毛作も始まっています。

 人口も増えました。商業活動も盛んになりました。

『加古川市史』は、「農業生産を高める用水の必要性を認めながらも、この時代には、加古川という大河を利用した用水を造る技術がまだなく、五ヶ井用水の完成は、農業技術の発達は戦国時代を待たねばなりません」としています。

ここで、鎌倉時代の西大寺派の農業技術集団に注目したいのです。

 私たちの地域には、その技術がありました。

 五ヶ井用水は、北条郷から始まり、加古之庄・岸南(雁南)之庄・長田之庄・今福之庄の水田を潤しています。

 常樂寺は大野(加古川市加古川町大野)は、北條郷にある西大寺派の有力寺院でした。

 五ヶ井用水の改修には、この西大寺派の農業土木技術が使われたと想像するのです。

 とするならば、五ヵ井用水が現在のような水路に改修されたのは1315年ごろ、つまり鎌倉時代です。(no3425)

 *写真:工場の横を流れる五ヶ井用水(加古川町)

 ◇きのう(4/12)の散歩(11.556歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(145) 余話として、五ヶ井用水(1)

2018-04-12 08:43:58 | お爺さんが語る郷土の歴史

 またまた、「文観を追え」に突然、「文観を追え」関係がないような「五ヶ井用水」の話が飛び出しました。

 辛抱して、お読みください。

    五ヶ井用水(1)

 加古川市内には五ヶ井用水という大規模な、歴史のある用水があります。 

 ところが、五ヶ井用水については、記録がまったくといってよいほどありません。

 もちろん、『五箇井記録』(五ヶ井土地改良区所蔵)・『五ヵ井由来記』(加古川市大野荒木家・中津町内会所蔵)があるのですが、ともに明暦三年(1657)に大野村の荒木重門が記したものです。

     五ヶ井用水の伝承

 『五箇井記録』にある伝承のあらましをみておきます。

  日向明神(日岡神社)の導きにより、神社の北西に「岩鼻之井」という井堰がつくられました。

 用明天皇(聖徳太子の父)の時代に、聖徳太子は加古川地方に田地200町歩をつくろうとされ、日向明神と相談されました。

 その場所は、神社のそばの橋の所で、この橋を「談合橋」といいます。

 そして、加古川大堰の東岸の辺りから、三つの地点を結んで用水路が掘られました。

 その三点は、五ヶ井用水の取り入れ口近くにある「太子岩(上の太子岩)」と日岡神社の西にある「太子岩(下の太子岩)」、それに鶴林寺の三重の塔で、これらの三点を結ぶ線で井溝が掘られました。

 この溝のおかげで、以後この地方の人々は水に苦しむことはなくなったのです。ざっと、こんな伝承です。

 『五箇井記録』では、五ヶ井用水は、聖徳太子の時代に計画され、完成したとしています。

    五ヶ井用水は聖徳太子の時代に造られたのか

 鶴林寺の『鶴林寺縁起』では、「聖徳太子が秦河勝(はたのかわかつ)に命じて堂をたてさせ、高麗(こま)の恵便(えべん)を僧とした」とあります。

 しかし、寺域から飛鳥時代はもちろん、奈良時代の古瓦などが全く出土していません。

 それに、建築様式などから鶴林寺は平安時代初期の創建と考えられます。

 そして、後に紹介しますが、鶴林寺の「太子信仰」は、四天王寺との関係により生まれたものです。

 五ヶ井用水と聖徳太子のつながりは考えにくいのです。(no3424)

 *写真:五ヶ井用水、七ツ杭分水所

 東(左)の溝は、美乃利・間形方面へ、西(右)の溝は、溝ノ口・平野方面へ流れ、さらに複雑に入り組み五ヶ井郷の村々を潤します。

 ◇きのう(4/11)の散歩(10.395歩)

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お爺さんの語る郷土の歴史(144) 余話として、入ヶ池(2)・入ヶ池の築造も鎌倉時代か?

2018-04-11 08:11:08 | お爺さんが語る郷土の歴史

     入ヶ池(2)

 復習です。

 先に紹介したように、天満大池の造築は、伝承では白鳳3年〈675)と伝えられています。

 しかし、当時、こんな大きな池を造る技術はなく無理であったとしました。

 こんなに大きな池を造れば土手にかかる水圧はすごいものです。

 奈良時代以前の技術では天満大池のような池と造ることは無理で、農業の盛んになり、技術が発達した天満大池の築造は鎌倉時代であるとしました。

 当然、西大寺の農業土木集団の技術が利用されたと考えられるのです。

    入ヶ池の築造も鎌倉時代か?

 一方、入ヶ池は和同7年(714)の築造(工事開始時期は644年)で、天満大池とほぼ同時期に造られたといいます。

 とすれば、入ヶ池も和同年間につくられたとするのは無理があります。

 入ヶ池も天満大池と同様、鎌倉時代の築造と考えられるのです。

     史料から考える

 ここでも先に紹介した資料「道常寄進状」(相模円覚寺文書)の一部を現代語訳で読んでおきます。

 ・・・播磨国五箇荘の中の蛸草北村は、鎌倉幕府を実質的に支配していた北条氏から御恩として北条氏の家臣である私(道常)が頂いた所領ですが、公私の追善供養のために寄付したいと考え、北條家にお尋ねしたところ、許可されましので、私が死んだ後は円覚寺に寄付申し上げます・・・

  ・・・

 上記の史料にいう「蛸草北村」は、現在の北山(稲美町天満北山)と思われます。

 なお、入ヶ池は地図を見ると北山集落と少し離れているようですが、北山の池で、集落と池は曇川でつながっています。

 入ヶ池の築造も西大寺の土木技術集団と結びつき造られたと考えるのが自然です。(no3423)

 *写真:現在の入ヶ池の夕暮れの風景

 ◇きのう(4/10)の散歩(10506歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(143) 余話として、入ヵ池(1)・入ヶ池の伝承 

2018-04-10 06:44:12 | お爺さんが語る郷土の歴史

 

     入ヶ池(1)

 天満大池と同じく古い建造の伝承を持つ入ヵ池(にゅうがいけ)についても紹介しておきます。

 今日は、稲美町の天満北山の真楽寺(しんぎょうじ)に、伝わる「入ヶ池」の伝承です。

     入ヶ池の伝承

 都が明日香(あすか)にあった644年、藤原弥吉四郎が天皇の命令を受けて西国に行く途中「蛸草村」で、一人の老人に出会いました。

 その老人は「この野を開けば必ず末代まで繁盛するだろう。お前がここを開墾するがよい・・・」と言い残して姿を消しました。

 ある年でした。きびしい夏の日照が続き、水が乏しくなりました。

 毎年、水が足りなくなるので、上流の広い谷に水を貯める池の築造にかかっていました。

 しかし、せっかく築いた堤は、その度に大水で流されてしまいました。

 村人は、とうとう工事をあきらめてしまいました。

 ある日、藤原弥吉四郎の孫にあたる光太衛(こうだいえ)が夢で不思議な僧に出会いました。

 その僧は「お前のおじいさんは、川の上流をせき止め、池を築いたがうまくいかなかった。

 これは上流の水が強いためである。だから、特別な工夫が必要である。

 堤を六枚の屏風の形にし、北側の堤のところから越水(うてみ・洪水吐)を造って、水を越えさせるがよい。

 そして、工事中に美しい女が通りかかるだろうから、捕らえて人柱にすると堤は完成するであろう・・・」

 村人を集めて池の築造がはじまりました。

   人柱になったお入(おにゅう)

 池づくりを始めて間もなく、夢のお告げどおりの美しい女が通りかかりました。村人は捕らえて切り伏せて、人柱にしてしまいました。

 その後、池は立派に完成し、どんな大雨にもびくともしなくなりました。

 この美しい女は「お入(おにゅう)」といったので、この池は「入ヶ池」と呼ばれるようになりました。

 しかし、いつしかこのことはすっかり村人に忘れられていきました。

 ある日、村の若者が、入ヶ池のそばを通り帰る途中、女に出会いました。

 姿は大きく、目が丸く髪が赤い女でした。

 若者は、驚き逃げ帰ろうとした時、その女は「私は鬼ではない。私は、この池の人柱にされた、もとは山中に住んでいた蛇の「お入(おにゅう)」である。

 たまたま、人がたくさんいるので女に姿を変えて来てみると、思いもかけず切り殺され、人柱にされてしまった。

 村人は、立派な池ができて喜んでいるが、私の魂はうかばれません。それに、誰も私のことを覚えていないのが寂しい・・・

 いま、このような姿で現れたのである。おまえは、これから村人に伝え、私の菩提(ぼだい)を弔ってくれ。そうそうすれば、いつまでもこの池を守り続けるであろう」

 そういうと、姿がなくなりました。

 村人は、お寺を建てて「お入さん」を祭りました。それが真楽寺です。

 以後、村人は幸せに暮らしたということです。(no3422)

 *挿絵:お入(おにゅう)

 ◇きのう(4/9)の散歩 (11.261歩) 

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お爺さんが語る郷土の歴史(142) 余話として、天満大池の伝承

2018-04-09 08:00:20 | お爺さんが語る郷土の歴史

 天満大池は鎌倉時代につくられたとしました。

 が、伝承では白鳳三年(675)に築かれたといわれています。

 この天満大池には、次のような伝承があります。

     余話として・天満大池の伝承

 室町時代前期にあたる1390年の正月のころでした。

 ある僧がこの地にやってきて天満神社に逗留することになりました。

 このころ夜になると雑魚(ざこ)が、プカプカ浮かぶのでした。

 人々は怪しんで、このことを僧に相談すると、僧は「大池に弁財天はあるか」とたずねました。

 村人は「ありません・・・」と答えると、僧は「このような大池には、きっと竜が住んでいるはずだ。

 これは竜の仕業である。島を築いて弁財天を祀るがよい・・」というのでした。

 村人は急いで島を築き弁財天を祀ると、その怪しい出来事はビタリと止んだといいます。

 *弁財天は、女神でもとの姿は蛇です。

 弁財天は、人々に富をもたらし、水を司 る神としてあがめられていました。

 

 白鳳三年(675)に天満大池が造られたとすると、この弁財天の伝承は、ずいぶん時代が立って、語られた伝承ですね。

 すこし、不思議で。奈良・平安時代の伝説でもよさそうです。

 天満大池が、鎌倉時代に造られたとすると室町時代の伝承といわれても納得ですが・・・(no3421)

 ◇きのうの散歩(10.166歩)

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お爺さんの語る郷土の歴史(141) 文観を追え(18)、真言律宗の足跡(10)・天満大池再考(3)

2018-04-08 07:34:13 | お爺さんが語る郷土の歴史

   

   史料にみる印南野の開発 

 前回、天満大池の開拓は鎌倉時代としました。

 さらに論を進めたいのですが、私には荷が重すぎます。

 そのため、中世史の学者のご意見を参考にさせていただきます。

 間違った紹介になっては失礼です。

 いまのところA先生とさせていただきます。

 A先生は、蛸草郷(現在の稲美町蛸草ではなく天満大池の西部に広がる地域)の開発は1315年前後とされています。

 それを、証明する史料として「道常寺領寄進状(相模国円覚寺文書)」(正和四年・1315)と「道常置文(相模国円覚寺文書)」(正和四年・1315)を紹介しておられます。

 詳しくは、これらの文書は、『加古川市史(第4巻)』(p8384)に紹介されています。

 前者の史料では、道常が播磨五箇荘園の土地を北條氏から得てそれを円覚寺に寄付をし、後者の史料ではで下記のように記載しています。

 ・・・(印南野の)新たに開墾した耕地に関しては、開墾の対価である「年貢免除期間」が終了したら、全面的に円覚寺の収入にしてください。

 それから、現地支配権は、関屋弥七忠政に与えますので、そのようにしてください。

 現地支鰹権は関屋弥七忠政の子孫に相続されます。

 重大な過失(年貢の大幅ば未納など)がない限りは現地支配権者を他の人にしないでください。・・・

 

 関屋弥七忠政についての詳細は分かりませんが、鎌倉幕府の執権北條貞時の有力な家臣のようです。

 つまり、印南野開発に円覚寺や中央の政治が関係しています。

 この時、天満大池の大規模改修が行われたと考えられるのです。

 もちろん、これらの開発に西大寺系のインフラ整備のエキスパート集団が関係することになります。(no3420

 *写真:現在の天満大池

 ◇きのう(4/7)の散歩(10.678歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(140) 文観を追え(17)、真言律宗の足跡(9)・天満大池再考(2)

2018-04-07 08:40:28 | お爺さんが語る郷土の歴史

   「天満大池:白鳳3年(675)築造」は伝承  

 伝承であれ天満大池は、白鳳3年〈675)に築造されたといわれています。

 「ウッソー」と叫びたくなります。

 古い時代にもたくさんの池は造られています。

 でも、今よりも規模の小さな池とはいえ、かなり大きな池が奈良時代前に造られたというのです。

 無理です。

 当時、こんな大きな池を造る技術はまだなかったと言えます。

 こんなに大きな池を造れば土手にかかる水圧はすごいものです。

 それに、当時の人口からして、無理をして大きな池を造る必要はないはずです。

 では、「いつ頃天満大池の基礎は造られたのだろう」という問題です。

 

 技術の発達があり、より多くの食料の生産が求められました時代はいつの頃だったのでしょう。

     天満大池は鎌倉時代に造られた!

 まず、技術について考えます。戦国時代①築城の技術、②、鉱山の技術、③それに何よりも土木技術が発達しました。

 江戸時代(近世)になり、戦争はなくなり平和な時代になりました。

 それらの技術は農業に転用され、江戸時代の初めは日本の大開拓の時代と呼ばれています。

 ところが、天満大池は、白鳳の時代はともかくとして、もちろん江戸時代より前につくられたことは確かです。

 では、いつごろでしょうか。

 人口が増え生産のたたかまった鎌倉時代を想定されます。

 でも、先に述べたように、山を地形を利用した造る池の場合はともかく、ある程度平野で、天満大池のような規模の池を造る技術はまだなかったと考えるのが一般的です。

 

 復習です。

 鎌倉時代、西大寺の末寺帳に常楽寺(加古川町大野)・常住寺(加古川市本町:元は寺家町)・報恩寺(平荘町山門)・成福寺(不明)があり、西大寺流寺院として円光寺(元は国安)そして復田寺(加古川町稲屋)があったことを思い出してください。

 円光寺に注目します。

 円光寺は元天満神社のところにありましたが、明治の神仏分離政策で今の中村後に移ってきた寺院です。

 円光寺は、真言律宗の西大寺系の寺だったのです。

 西大寺は、当時としては特別の土木技術を持ったエキスパート集団でした。

 さらに、述べなければなりません。

 天満大池は、西大寺の土木技術と結び付き造られたと考えるのが自然と思われます。(no3419

 *写真:円光寺

 ◇きのう(4/6)の散歩(10.549歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(139) 文観を追え(16)、真言律宗の足跡(8)・天満大池再考(1)

2018-04-06 08:34:23 | お爺さんが語る郷土の歴史

 突然、天満神社(稲美町)の話が飛び出し、「文観・西大寺等と関係がない」と思われたと思います。

 しばらく辛抱してお読みください。次回で種明かしをしましょう

    天満大池再考(1)

 国安天満神社(稲美町国安)の沿革

 『稲美町史』より国安天満宮の沿革をみておきます。

 ①国安天満宮(稲美町国安)のは白雉(はくち)4年(653)、王子権現という錫杖地蔵を勧請して創建されたもという。

 その場所は、国安東で、現在の神社のある地をお旅所としていた。

 寛平5年(893)社殿を今の地に移し、池大明神(大年大神)を祀った。

 天満大池は、白鳳3年(675)に築造された。

 ②延喜元年(901)2月、菅原道真がこの地に立ち寄られたという縁で、後に京都の北野天神を勧請して池大明神の右側に奉納した。 

 ③明徳元年(1390)、大池に島を築き弁財天を祀るとともに、本社の主神の左側に弁財天すなわち市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)を祀った。 

 ④永禄8年(1565)6月、本社を再建したが、この時に主神を天満天神(菅原道真)とした。 

     天満大池は白鳳3年の造築か?

 祭神の池大明神は大池を神格化したもので、伝承では大池の歴史は古く、白鳳の頃には築かれたと伝えています。 

 この伝承を、考えてみます。

 この地域を開拓した人々にとって、池(水)はまさに神であり、大池は池大神として祀られました。 

 天満神社は、まず池大神が、次いで菅原道真が「この地に立ち寄られたという縁起」で、ここに祀られたと伝えられています。

 そして、「永禄8年(1565)、本社を再建した時に、主神を池大神から天満天神(管原道真)とした」というのです。 

 天満神社は、池大神を祀る神社として出発しています。

 天満大池は稲をそだて、生活を豊かにしてくれる神だったのです。(no3418)

 *写真:国安天満神社

 ◇きのう(4/5)の散歩(11.293歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(138) 文観を追え(15)、真言律宗の足跡(7)・法華山の一乗寺の傘塔婆

2018-04-05 08:04:41 | お爺さんが語る郷土の歴史

 加西市の一乗寺に出かけます。一乗寺と傘塔婆(そとうば)の話です。

 山川均先生の論文「東播磨の中世石仏と文観」をお借りしています。

    法華山の一乗寺の傘塔婆

      ◇文観(13歳)、一乗寺で得度◇

 文観は正応三年(1290)、一乗寺において慶尊律師の下で得度(とくど・出家)しました。

 文観13歳の時でした。

 ということは、文観が小僧として常楽寺(加古川町大野)に入ったのは10歳ごろだったのかもしれません。

 一乗寺の正門付近は、高さ290㎝の大型の笠塔婆(凝灰岩製)があります。

 文字は読みにくいですが、写真をご覧ください。

 塔身正面の上部に種子(梵字)「アーク(大日如来)」と彫り、その下に大きな字で「金輪聖王」、その下に少しあけて「自金堂一町」と彫られています。

 その下に、やや小さな字で「正和五 十二月廿一日」「依 勅造立之」と二行に分けて刻まれています。

 この笠塔婆は、正和五年(1316)十二月に造立されたものであることを知ることができます。

 「勅」というのですから、通常ならは天皇による命です。

 この傘塔婆の場合「金輪聖王」という表現に注目ください。

 文観は、よく知られているように後醍醐天皇のことを、しばしば「金輪聖王」と呼んでいます。

 一乗寺の笠塔婆銘文の「金輪聖王」も、後醍醐天皇を指す可能性は高いと考えられています。

 また、一乗寺と文観の関係を考えればその可能性はますます高まります。

 また、ある学者は、一乗寺の傘塔婆にある梵字・アーク(大日如来)の字体は文観の字体によく似ているといわれています。

 文観・一乗寺・後醍醐天皇は、強い糸でつながっているようです。(no3417)

 *写真:一乗寺の傘塔婆

 *「東播磨の中世石仏と文観(山川均先生の論文)」参照

 ◇きのう(4/4)の散歩(11.115歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(137) 文観を追え(14)、真言律宗の足跡(6)・福田寺の層塔(加古川町稲屋)

2018-04-04 08:13:44 | お爺さんが語る郷土の歴史

 

   福田寺の層塔(加古川町稲屋)

 稲屋は、『日本書紀』に「鹿子の水門(かこのみなと)」が加古川の河口部にあったという場所です。

 研究者は、「鹿子の水門(かこのみなと)」は、現在の稲屋(加古川市加古川町稲屋)辺りで、当時は、このあたりまで海が迫っていたと推定しています。

 稲屋の近くにある泊神社は、地域の氏神であり、古代の港(水門・みなと)の守護神であったと考えられています。

 この稲屋に福田寺という古刹があります。「ふくでんじ」と読みます。

 福田寺の山門をくぐるとすぐ左(西側)に、現高355㎝の花崗岩製層塔があります。

 現在は十一重ですが、本来は十三重であったと思われます。

 塔身(初層軸)には、三面に如来像を浮き彫りされています。

 この反対の面の如来像両協に銘文があり、銘からこの層塔は、正和二年(1313)に、西河弥陀仏を願主として造立されたものであることがわかりました。

 大野の常楽寺の宝塔と比較すると格狭間の下端幅は福田寺噌塔の方が狭いことが判明していますが、研究者は、「この層塔の格狭間(こうざま)は、常楽寺宝塔の基礎格狭間と酷似しており、格狭問が入る区画の規模は両者でまったく共通し、かつ格狭間自体も酷似ている」と指摘されています。

 したがって、「その地理的・時期的近さを考えると福田寺層塔と常楽寺の宝塔は同じ石工(集団)によって造立されたとみなしてよい」と指摘されています。

  福田寺の層塔も西大寺の伊派石工集団の作品と言えそうです。(no3416)

 *写真:福田寺の層塔

 *「東播磨の中世石塔と文観」(山川均論文)参照

◇きのう(4/3)の散歩(11.546歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(136) 文観を追え(13)、真言律宗の足跡(5)・殺生禁断のモニュメントか(報恩寺の十三重の重塔)

2018-04-03 08:40:59 | お爺さんが語る郷土の歴史

       十三重の石塔(層塔)

       殺生禁断のモニュメントか

 報恩寺の十三重の層塔(石塔)の話題の続きです。

 層塔は、単なるお寺の景観をつくるものではありません。層塔は意味をこめられ造られています。

 真言律宗は、・らい患者・遊女等の救済そして、社会事業にも取り組みました。

 叡尊の取り組んだ一つの例を紹介します。

 京都宇治に「宇治浮島十三重層塔」という高さ約十五メートルの堂々とした層塔があります。

 この層塔は宇治橋の修造時に、その記念として造られたのですが、叡尊は同時に川にかかる網代の全面撤去を求め、層塔の下に網代を埋めました。

 こうした叡尊の行為は、殺生禁断という教義に基づくものです。

 網代の撤去は漁民の盛業を奪うことになるのですが、叡尊の立場から言えば、それは来世の安穏をあたえているのであり、救済事業の一環ということでした。

 報恩寺の古文書(永正十七・1520)を再度読んでおきます。

 賀古河之流、平・都染・益田三箇庄之内、殺生禁断之処、塞簗、背制法之族在之云々・・・

 意味は、「現在の平荘町・上荘町・益田(東神吉町)は、殺生を禁止されているところですが、簗などで川を塞ぎ、法に背くものがある・・・」とあります。

 宇治川の場合と同様、殺生禁断の戒律が求められているのです。

 殺生禁断の象徴として、報恩寺の十三重層塔は造立されたのでしょう。

 上記のように、殺生禁断は漁民たちの生活の手段を奪うことにもなります。

 歴史学者の山川均氏は、さまざまな事例から「網代・簗以外の漁は許可された可能性が強いのではないか」と述べられています。(no3415)

 *『石造物が語る中世職能集団(山川均著)』(山川出版社)参照

 *写真:報恩寺に残る古文書(永正十七・1520)

 ◇きのう(4/2)の散歩(10.598歩) 

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お爺さんが語る郷土の歴史(135) 文観を追え(12)、真言律宗の足跡(4)・十三重石塔(報恩寺)

2018-04-02 07:26:54 | お爺さんが語る郷土の歴史

    十三重石塔(報恩寺)

 報恩寺(加古川市平荘町山門)の墓地に、相輪部は後に補修しているが十三層の立派な層塔があります。

 この近辺は石の産地であり、石造物はそれらの石を材料とするのが普通です。

 近辺で産出する石は、凝灰岩で、やわらかく細工がしやすく、従って、安く造ることができます。

 報恩寺の石塔は、硬い細工の難しい花崗岩製です。

 報恩寺の石塔について、『加古川市史(第一巻)』は、「伊派の石工たちが刻んだものであったと」としています。

 ・・・・報恩寺の層塔は、形式などからも伊派の石工による作品として間違いがなさそうです。

 報恩寺の層塔の銘を読んでおきます。

   銘文   常勝寺

         元応元年 巳未(1319)

         十一月六日

 銘には、常勝寺とあり、報恩寺ではありません。

 報恩寺は、もとは常勝寺であり、後に西大寺の末寺の真言律宗寺院になったようです。

 次号も真言律宗・叡尊・忍性そして十三重石塔の話を続けます。(no3414)

 *『加古川市史(第一巻)参照』

 *写真:報恩寺の十三重の石塔 

 ◇きのう(4/1)の散歩(11.065歩)

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〈3月の散歩〉目標「一日10000歩」を達成!

2018-04-01 08:06:22 |  ・コーヒーブレイク・余話

   〈3月の散歩〉

         目標「一日10000歩」を達成!

   1日(木)  11.131歩  自宅周辺・新幹線下歩道

   2日(金)  11.300〃     〃

   3日(土)  10.705〃  自宅周辺・別府公民館周辺

   4日(日)  11.287〃  自宅周辺・平荘湖周辺

   5日(月)  10.559〃    自宅周辺・新幹線下歩道

   6日(火)  11.383〃  自宅周辺・向山墓地周辺

   7日(水)  11.361〃  自宅周辺・新幹線下歩道

   8日(木)  12.010〃  新幹線下側道(雨のため)

   9日(金)  10.059〃  自宅周辺

  10日(土)  10.222〃  自宅周辺・竜野市道の駅みつ周辺

  11日(日)  11.229〃  自宅周辺・権現ダム周辺の山歩き

  12日(月)  13.245〃  自宅周辺・駅前紀伊国屋書店往復

  13日(火)  11.813〃  新幹線下~加古川の土手~播州大橋

  14日(水)  10.226〃  今福散策

  15日(木)  10.748〃  自宅周辺・日岡山散策

  16日(金)  14.515〃  自宅周辺・自宅~パークタウン往復

  17日(土)  10.571〃  自宅周辺・江井島海岸

  18日(日)  11.203〃  自宅周辺・平荘湖周辺

  19日(月)  11.116〃  自宅周辺・稲屋散策

  20日(火)  11.195〃  自宅周辺・新幹線下歩道

  21日(水)  10.811〃  自宅周辺・新幹線下歩道

  22日(木)  10.453〃  自宅周辺

  23日(金)  11.143〃  自宅周辺・平荘湖周辺   

  24日(土)  11.235〃  自宅周辺  

  25日(日)  11.095〃  自宅周辺・日岡山散策

  26日(月)  11.223〃  自宅周辺・新幹線下歩道

  27日(火)  14.713〃  今福~別府往復

  28日(水)  12.037〃  自宅周辺・平荘湖周辺

  29日(木)  12.172〃  今福探訪

  30日(金)  11.057〃  自宅周辺・新幹線下歩道

  31日(土)  11.258〃  自宅周辺・日岡山公園散策

 *写真:きのう(3/31)の日岡山公園の桜(no3413

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