南北朝時代は、一つの時代に二人の天皇がいるという異常な時代となりました。
私たちの地域は北朝方に属していました。そのことが歴史研究に大きな影響(弊害)となりました。次の話題の前に「南朝正閏論(なんちょうせいじゅんろん)」に触れておきましょう。
南朝正閏論(1)
「南北朝正閏論」、もうあまり聞かれなくなった言葉です。
南北朝正閏論の発端は、明治44年1月15日の「読売新聞」の社説でした。
ここでは水戸学の南朝正当論から「学校の歴史の教科書で南朝と北朝を並べているのはおかしい」という論調です。
第二次桂内閣の時でした。
野党の立憲国民党はこの問題を倒閣運動に結び付けようと飛びついたのです。
桂太郎は、元老の山片有朋に相談して明治天皇の勅裁を受け、ここで法律として南朝が正当であると決められたのです。
以来、足利尊氏は『逆賊』とされました。
昭和9年には、「足利尊氏は人間的なすぐれた人物である」と書いたために斉藤実(まこと)内閣の商工大臣は辞職に追い込まれるという事件もおきました。
戦前、足利尊氏は完全に『逆賊』とされてしまいました。
足利・赤松一族の研究は戦後
ことは足利一族だけにとどまりません。後に述べる播磨の赤松一族は、足利の家来として活躍した武将です。
となれば、当然赤松も逆賊扱いということになります。
したがって、東播磨地域は赤松の勢力下にありました。つまり、北朝方でした。
そのため、戦前赤松一族の公平な評価・研究はなされませんでした。
赤松の研究は戦後になってからの事です。(no3439)
*写真:北朝の年号を持つ円福寺(志方町高畑)の宝篋印塔(詳細については次号で)
◇きのう(4/26)の散歩(11.776歩)
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