ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

お爺さんが語る郷土の歴史(153) 文観を追え(25)・後醍醐天皇、隠岐に流されるも

2018-04-20 08:05:26 | お爺さんが語る郷土の歴史

 

   後醍醐天皇、隠岐に流されるも

 倒幕計画に失敗した後醍醐天皇はとらわれ、さらに暮府によって皇位をはくだつされ、隠岐(おき)に流されました。

 元弘二年(1332)三月、鎌倉幕府の滅亡の1年余り前のことでした。

 後醍醐天皇は、身を日本海に浮かぷ孤島におくことになりましたが、時代は動いていました。

 時代は、商業も盛んになり、情報の飛び交う社会になっていたのでした。

 隠岐は、かつての孤島ではありません。

 情報は、秘密のルートからどんどんもたらされました。

 後醍醐天皇の遠島の後も、息子の護良(もりよし)親王や、河内(かわち)の豪族、楠木正成(くずのきまさしげ)らによってなおも根強く倒幕運動は続けられていました。

 後醍醐は、隠岐島にいながらも、なお幕府打倒の機会を虎視眈々と狙っていたのです。

 詳細は省きますが、隠岐へ流されてから11か月後のことでした。

 元弘三年(1333)閏以月突如隠岐を脱出することに成功します。

     文観京都に凱旋

 元弘三年(1333)、伯耆(ほつき)の国で六波羅探題壊滅の連絡を受けた後醍醐天皇は、天皇の政治の復活を宣言し、京都へ向かいました。

 護衛に当たったのは、伯書の国の名和長年(なわながとし)でした。

 都へのルートは、討幕に大きな役割を果たした播磨(はりま)、摂津(せっつ)が選ばれました。

 その道中で、赤松円心、楠木正成ら天皇のために戦った者たちが天皇を出迎え、天皇は彼等を従えて意気揚々と都に凱旋(がいせん)したのでした。

 天皇による「新しい政治」(建武の新政)が始まります。

 すぐに、文観も鬼ヶ島から京都に凱旋しました。(no3432

 *写真:隠岐の島

 ◇きのう(4/19)の散歩

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