文観ルート
話を少し戻します。
醍醐帝が討幕の行動をおこした時、寺院がその都度拠点となっています。
当初、元弘の乱によって後醍醐天皇が都を落ちていったのは笠置山であり、そこの笠置寺にこもりました。
隠岐島から脱出、船上山に大山寺(だいせんじ)の僧兵を頼りに陣を張りました。
「建武の新政」の失敗から再度、都を捨てて吉野蔵王堂を行在所として、後に河内へ出て金剛寺、さらに観心寺へと行宮を移しています。
この一連の寺院と関連のある人物を探すと、当時後醍醐天皇の信任が厚かった醍醐寺座主文観僧正の名が浮き上がってくるのです。
後醍醐帝はこの討幕挙兵の策謀が露見して、腹心の者たちが捕縛された知らせを受けると、当時、息子の護良親王が座主であった比叡山延暦寺へ逃げ込みました。
そして、六波羅軍(鎌倉幕府軍)が、比叡山の行在所攻撃にきたという情報がはいると、今度は、山城国金胎寺へ移り、さらに3000人の僧兵を有し要塞堅固な笠置山へと行幸し、笠置寺を行在所として櫓をかまえ、柵をめぐらして城塞化しました。
後醍醐帝の、一刻を争う事態での迅速敏捷なこの行動は、すべて、文観がかねてから非常時に対する計画をたて天皇に進言していたところによっていたようです。
楠木正成が後醍醐天皇軍に加わりました。
その菩提寺である観心寺の僧滝覚坊とは山伏の同業者であり、覚坊と文観と師弟の間であるので、正成と文観は前からの繋がりがありました。
鎌倉北条軍が大挙して笠置に来攻し、笠置寺の僧兵もこれを迎撃して善戦したのですが、何分歴戦のつわもの関東武士には抵抗出来ず、笠置山も陥落し、後醍醐帝は脱出の途中敵の手におち、京都に還幸のやむなきにいたり、後醍醐帝は隠岐の島に流されたのです。
後醐帝は、山伏の武力の組織活動に期待して、文観に絶対的な信頼を寄せていました。
「建武の新政」からの天皇の行動をたどってみると、金剛山伏と楠木正成、大山山伏と名和長年、児島山伏と児島高徳など、いずれも名もなき地方豪族であるがその背後には山伏の存在があります。
この山伏ルートはいずれも文観とのコミュニケーションのある細胞組織であり、文観は後醍醐天皇のブレーンであったようです。(no3435)*写真:楠木正成像(富田林市の楠妣庵観音寺蔵)
◇きのう(4/22)の散歩(10.870歩)
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