前号の続きです。
円福寺(東志方高畑)の本堂に向かって右隅に、県指定文化財の宝筐印塔(ほうきょういんとう・写真)があります。宝筐印塔には康歴元年の銘が刻まれています。
北朝年号(康歴元年)
「康歴元年(1379)」は、南北朝時代の北朝年号で、南朝年号では天授五年です。
赤松四代当主・義則が赤松家所領の五穀豊饒を願い、また「一結衆」とあるところから赤松一族の安寧祈願、さらに赤松一族の供養塔として造立したものと思われます。
この宝筐印塔の「北朝年号」からもわかるように、赤松本家は、曲折はあったものの足利尊氏(北朝方)として活躍し、後醍醐天皇(南朝方)に敵対し、時代を乗り切ります。
円福寺(東播磨地方)は北朝方
江戸時代までは、北朝側であろうが、南朝側であろうがあまり問題とならなかったのですが、明治時代となり突如「南朝正閏論(せいじゅんろん)」が声高に叫ばれるようになりました。 (*南朝正閏論については前号を参照ください)
そして、日本が戦争に突き進んでゆくにつれ、北朝を支持した赤松氏の逆賊度はますます高くなり、赤松氏は歴史の上、全く評価されなくなってゆきました。
明治時代~戦前にかけて北朝支持を色濃く残す円福寺の立場は微妙であったと想像します。
戦後、そんな歴史は間違いであるとして、足利尊氏・赤松氏の再評価がなされるようになりました。
円福寺の宝筐印塔の加古川市教育委員会の説明には「・・・基礎正面に康暦元年の銘がり南北時代の遺品であることがわかる・・・」とありますが、北朝年号であるとの説明がありません。
「北朝年号の説明がないのは、なぜ?」。もどかしい気持ちが少し残ります。(no3440)
*写真:円福寺の本堂に向かって右隅の宝筐印塔
◇きのう(4/27)の散歩(10.821歩)
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