鎌倉幕府滅ぶ
元弘二年(1333)五月二十二日、北条時高(31)は、鎌倉の東勝寺で最期を迎えました。
そして、グレンの炎は次々と自害する諸将を焼き尽くしました。
死者は600人、みな切腹して果てました。
鎌倉幕府は滅びました。
文観の活躍
元弘三年(1333)六月五日、後醍醐天皇は京都へ凱旋しました。
引き続き文観が硫黄島から帰ってきました。
その後の文観の経歴は、華々しいものでした。(南朝年号)
・正慶二年(1333) 硫黄島から帰洛
・建武元年(1334) このころまでに醍醐寺座主・東寺大勧進職
・建武二年(1335) 東寺一長者(真言宗のトツプ)
・建武三年(1336) 大僧正に任じられる
しかし、後醍醐天皇による「新政(建武の新政)」は、前回にみたように失敗し、吉野にこもりひとすら足利尊氏の北朝打倒を目指し祈り続けました。
足利氏を後(うし)ろ楯(だて)とする北朝に対して、南朝方の劣勢は覆うべくもなく、延元四年(1339)八月十六日、後醍醐天駁は京郡奪還の夢を果たすことなく、吉野に逃れて三年足らずで世を去りました。
五十二歳でした。
『大平記』は、後醍醐天皇の最期の言葉は「身は、たとえ、南山(吉野山のこと)の苔になろうとも、魂は京都の政権をのぞむ。足利尊氏の首を我が墓前に備えよ」であったといいます。
後醍醐天皇の墓は、京都に足に向けて築かれています。
このことは、かれの京都に対するはかりしれない執念を物語っているのでそう。
文観は、正平十二年(1357) 河内金剛寺大門往生院で亡くなりました。
文観の人生は、後醍醐天皇の活躍と重なります。
建武の新政失敗の後は、その華々しい活躍はなくなりました。(no3434)
*写真:河内金剛寺
◇きのう(4/21)の散歩(11,059歩)
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