後醍醐天皇と文観
〈後醍醐天皇〉
後醍醐天皇は、歴代の天皇とは少し違います。
どうやら彼は、自分のことを、聖徳太子の生まれ変わりではないかと思っていたらしい節(ふし)があります。
それで普通の天皇の肖像にはあり得ない肖像(写真)を描かせたりもしました。
写真の肖像は真言律宗の僧侶の服装です。
手に持っているのは、まさに真言密教で修験者が相手を祈り殺すときに使う、法具の一つです。
そして、自ら護摩を焚いて朝敵を呪い殺そうというのは、普通ではありません。まさに異形の天皇でした。
まさに、中国型の専制君主制です。
天皇が中心となり、官僚組織がきちんとして、さらに強力な軍隊を持って、一つの大きな国家ができると考えていました。
彼は、醍醐天皇(在位897-930)を理想とし、自ら生前に後醍醐天皇と名乗っています。
天皇の立場というものを、単に格式を重んじて、権威を引き継いでいくというだけじゃない、自分で政治もするという考えを持って いたのです。
〈文観〉
いっぽう、文観は、小野僧正文観上人といいますが、名前の文観は、文殊菩薩と観世音菩薩の頭文字をとって文観と名乗りました。
どえらい名前です。僧名からもその性格の一端がうかがえそうです。
その後の文観の活動から見て、文観は大胆で強烈な上昇志向の持ち主のようです。
・・・・
後に、後醍醐天皇と文観はその性格から結びついたのは自然な流れのようです。
フィーリングがあったのです。
ただ、文観は、天皇のブレーンとして活躍し、後醍醐天皇の企画演習はしましたが、政治的助言(将来像)までの見通しはなかったようです。(no3436)
*写真:後醍醐天皇(清浄光寺所蔵・神奈川県藤沢市)
◇きのう(4/23)の散歩(10.580歩)
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