混乱する社会
14世紀の初め、時の執権・北条高時は、田楽や闘犬にふけり、政治をかえりみることをしませんでした。
そのため、政治は腐敗しました。
社会の混乱は深まるばかりでした。後醍醐天皇は、その機会を政権を武士から取り戻し、政治を改めようと、鎌倉幕府打倒を決意しました。
その事件の顛末を少し述べておきましょう。
正中の変(正中元年・1324)
この討幕計画の中心になったのは、日野資朝(すけとも)と日野俊基(としもと)です。
資朝は、当時の公家政治の通信人物でした。いっぽう俊基は、身分はもともと低く後醍醐天皇からその才能を認められ取り立てられた人物です。
後醍醐天皇の信頼のおける仲間内の会議で俊基から討幕の計画が提案されました。
さすがの、仲間の貴族もびっくりしました。
俊基は、天下の情勢、後醍醐天皇の決意を諄々と語りました。
具体的には「倒幕の旗揚げの日は、来る9月23 日。北野の天神祭りの日で、この祭りに、武士の一団がまぎれこみ、わざと喧嘩をはじめる。
そうすれば、六波羅探題(ろくはらたんだい)は騒ぎをしずめるために兵をさしむける。
そこで、手薄になった六波羅を急襲し、探題を討ちとり、我らの兵をもって、宇治と大津を固め、まず京都を、朝廷の勢力下においてから、地方の武士たちに号令して、鎌倉へ押し寄せる」ということでした。
その場の貴族たちもさすがに青くなったようです。
その後、貴族たちの緊張を和らげるために、肌のすけて見える絹のひとえにまとった遊女と遊ぶ無礼講になったと太平記は伝えています。
しかし、この計画は仲間内から漏れ失敗におわってしまいました。(no3428)
*挿絵(無礼講):『マンガ日本の歴史・18(石ノ森章太郎)』(中公文庫より)
◇きょう(4/15)の散歩(12.078歩)
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